住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

[中外日報掲載]釋雲照② 正法律復興

2007年02月28日 08時34分11秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
 中外日報2月27日付『近代の肖像』危機を拓く第104回

釋雲照② 正法律復興

釋雲照律師は、生涯木綿の衣と袈裟を着し、非時食戒を守り午後は食事を摂らなかった。その生活姿勢の厳しさから滲み出る、崇高なる人格が人々を感服させ、いかなる人と言えども会見に際しては自己を三拝させたと言われる。

丹波敬三薬学博士は「言わずして人を感服せしめ、菩提心を起こさしむる御方である。決して律師は口の人でない、筆の人でない、研究の御方ではない、全身これ法門、五尺の身体そのままが四六時に活説法していられる」と雲照を評している。

雲照自身が戒律の尊いことを知るのは、十六歳で『沙弥十戒経』を読んだときだった。「沙弥の戒は尽形寿(一生涯)人物を残殺し傷害することを得ざれ」とはじまるこの経には、「沙弥の戒は尽形寿婦(嫁)を取り、継嗣を畜養することを得ざれ。女色を防ぎ遠ざけ、六情を禁閉し、美色を見ること莫れ」ともある。

本来、戒を持するがゆえに僧侶、仏弟子たり得る。正法は戒律を堅持する僧侶によって久住せしめられる。このように解した雲照は、当時の僧界の破戒堕落甚だしい状況を嘆いて、仏祖の示したこの経の如くに戒律を守り正法を興起して仏教界に生気を与えようと志したという。

そして、雲照は十九歳で県下一寺院に住職し、釈尊涅槃会の前日夕刻、本堂にて単座し本尊観音菩薩に祈願していると強い霊感にうたれた。そのとき、正法興隆のために今後一切女人と同座せず、飲酒せずと誓い、正法律そのままに生活することを誓ったという。

そして、二十九歳の時、常に敬仰し心の師と仰いでいた江戸時代の学徳高き清僧・慈雲尊者の墓に詣で、尊者五世の法孫で当時持戒第一と称されていた東大阪長栄寺端堂を戒師に沙弥戒、十善戒、雲伝神道などを受け、三十四歳の時には河内高貴寺奥の院にて具足戒(二五〇戒)を受けた。

このとき雲照は、慈雲尊者の教えを継承する者と自覚して、正法律の復興と正法興隆の念を益々厚くしたと言われる。

慈雲尊者は、僧坊の組織、僧徒の行儀、袈裟の縫い方やかけ方にいたるまで悉くを釈尊が説かれた如くに、千年経っても万年経っても行うべきであるとして、正法律を創唱した。

律藏に従い、大乗小乗の区別を付けることなく、自派他派、宗派の別を言うことなく、超宗派の立場から、日常の行為実践に基づき仏教の統一を起こそうと試みた。

そして、十善を人の人たる道と説いた慈雲尊者の平易な教えは、明治時代、雲照をはじめ、浄土宗の福田行誡、戒誉、曹洞宗の大内青巒、山岡鉄舟らが通仏教の立場から鼓吹している。

中でも、慈雲尊者の戒法を相承する雲照は、明治の僧界が混迷する中で、戒律の根本道場として如法の僧侶育成のために戒律学校を設立。目白僧園をはじめ、那須僧園(雲照寺)、連島僧園(備中寶島寺)の三僧園を開園した。

ところで、明治五年、肉食妻帯勝手たるべしとの勅令が出ると、高野山では女人禁制を解く旨が宣せられた。

政府勅使を迎えた山内僧侶が、みなこれを了承する中、雲照は一人憤然と立って、「女人禁制は歴代天皇の御詔勅、これを撤廃するはその叡旨に背くものなり、愚衲は歴代天皇の勅使として閣下の罪をたださん」と抗弁したと伝えられている。

釈尊は、国王に対しても師として教えを垂れた。仏祖の訓戒をそのままに生きようとした雲照は、仏教本然のあるべき姿を近代の世で体現した人であった。

雲照の位牌には「正法律復興雲照大和上不生位」と記された。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)


にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド思い出話7-サンスクリット大学

2007年02月27日 20時32分04秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
カルカッタからサールナートに戻る列車は、この時なんと12時間も遅れてバラナシに到着した。後藤師と二人、一向に進まない列車の中で、ただふて寝をして過ごした記憶がある。インドはそんなことで誰も騒いだりはしない。そんないい国は他にはないだろう。

サールナートに戻ると、やっと、大学の授業が始まった。ベナレス・サンスクリット大学パーリ語専攻科。ディプロマ・コースだった。ただ後で、このコースではビザが降りないということになって、留学前の話と違ってきて、結局サンスクリット語もやらねばならず、そうなるとお寺の仕事や一度にふた言語もやるということで無理があり、留学を一年で諦めざるをえなくなった。

パーリ語の教授シャルマー・ジーは、たった一人の生徒であった私のために、時間を設けて、毎週2度程度、初めはパーリ語の成り立ちを偈文にした文の英語訳ヒンディ訳を宿題にされて、暗記させられ、続いて小部経典中にあるクッダカ・パートの読みと暗唱を学んだ。毎度行くと部屋に他の先生達がたむろしている中で、「バンテーボリエー」と言って、私に暗唱させる。

その暗唱させられる文章を、私は、毎度、自転車をこぎつつサールナートのお寺から大学まで、がたがた道を40分もかけて通いつつ、車やバスの騒音にかき消されながら、大声で唱えた。

クッダカ・パートの前半をほぼ終えると次は、法句経の暗唱だった。一章ずつ、暗唱しては、少しずつその訳をヒンディ語で教えられ、書き取り、それをまた何人かの前で暗唱した。インドの教え方は、正に読書百遍意自ずから通ずといった古典的なものだった。

大学に行っても、たまに教授が来ていない日もあり、その日は、ブラブラ学生寮に行っては様々な国から来ている学生僧たちと談笑した。スリランカからは育ちの良さそうな在家の学生。スリランカは都会の僧侶と村の僧侶では体質が違うというような話をしていた。

ブータンから来ていたチベット仏教の僧侶は、とても世話好きで、よくお茶をご馳走になった。ブータンにも遊びに来てくれと言っていた。タイから来た僧侶は、とてもお金持ちで、なんとインドのアンバサダーを買い込んで乗り回していた。何をしにインドに来たのか勘違いをしているような人だった。

サールナートのお寺ではその頃無料中学開校にあわせ校舎を建設中で、毎日工事作業員が何人もやってきてざわついていたり、私の方のヒンディ語がなかなか上達しないのでストレスもあり、また日本を離れて半年となり、精神的に辛い時期があった。そんなとき、日本人旅行者が来て、ひととき寛ぐこともあった。

そして、食後の沢山の食器洗いも私の仕事だったが、一枚一枚洗っていたとき、インドのことなので、泥を付けて油汚れの食器を一生懸命洗っていた。そのとき、本当にその洗っているということだけに心が集中して、それだけがあると。

それまで、いろいろと思い悩んでいたようなこと、心に引っかかっているようなことのすべてがその瞬間には何もないということに気づいた。そのことに気付いたら、何だそういうことかと思えて、別に大したことではなかったのだと思えた。それからは腫れ物が取れたように気持ちが楽になったのだった。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

[中外日報掲載]釋雲照① 略伝

2007年02月25日 11時20分19秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
中外日報2月22日付『近代の肖像』危機を拓く第103回

釋雲照① 略伝

釋雲照律師(一八二七ー一九〇九)は、その学徳と僧侶としての戒律を厳格に守る生活姿勢、そしてその崇高なる人格に山県有朋、伊藤博文、大隈重信、沢柳政太郎など、明治の元勲や学者、財界人が帰依し教えを請うた明治の傑僧であった。

雲照は、文政十年、現在の島根県出雲市東園町に農家の五男として生まれ、十歳で得度。十八歳で高野山に登り伝法灌頂を受け、地方一寺院の住職となる。

しかし、二十二歳のとき高野山に登り金剛峯寺衆徒となり真言宗学を悉く学ぶと共に、全国の名山大寺に高僧を訪ね天台十不二門、唯識論述記、止観、梵網経など宗派を超えた修学受法に努めている。この間幾度となく虚空藏求聞持法、八千枚護摩供を修した。

明治維新を四十二歳で迎えると、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、一沙門として、「三道一致国体建白」「廃仏毀釈に対する建白」など建白書を携えて京都、東京の政府当局に出頭して「仏法は歴代天子の崇信するところにして、皇国の神道及び儒教の忠孝と相助け国家を擁護せるものなれば、一旦にしてこれを排棄すること甚だ非なり」などと剛毅不屈の気迫をもって建白を重ねた。翌年には諸宗同徳会盟に参加。

また四十八歳の時京都勧修寺門跡。五十三歳で大学林学頭になり、真言宗各本山が独立の機運ありと知ると、大崎行智らと湯島霊雲寺に各派代表九十五名を集め真言宗大成会議を開催。委員長となり、真言宗新古統一の宗制を定め、戒律中心主義に基づき厳格なる宗規を定めた。そして、真言宗僧侶養成の機関として東寺内に総黌(今の種智院大学の前身)を設立。

明治四年の諸山勅会廃止により中絶していた宮中後七日御修法の再興を東寺長者三條西乗禅、土宜法龍らとともに関係諸氏に懇願。玉体加持に代わり御衣を下附され、東寺灌頂院にて明治十六年より再興するに至る。

同年久邇宮殿下の外護を得て「十善会」発足。しかし翌十七年に真言宗宗制会議が開かれると、戒律中心主義は根底から覆され教学中心主義の宗制が制定されるにいたり、宗団の改革見込みなきことをさとった。

明治十八年、雲照の護法に掛ける情熱に敬服していた政府大書記青木貞三氏は、首都東京での護法民衆教化にあたることを進言。五十九歳で雲照は東京に出て、明治十九年現在の文京区関口二新長谷寺(後の目白僧園)住職。

そこで、戒律学校を開き、常時四十名程の僧侶が薫陶を受けた。また、通仏教を標榜し国民道徳の復興を目的に社会の一道徳的教会として「十善会」を再興し、「夫人正法会」を発足。会報として『十善法窟』『法の母』を発刊。後に共に天覧に供された。

那須野に雲照寺開創、備中宝島寺に連島僧園を開設し、目白僧園と併せ三僧園とし、持戒堅固な清僧の養育にあたった。 六十二歳の時わが国で初めて大蔵経の和訳事業を開始し、六十八歳頃からは、早稲田大学で「金剛経」をまた哲学館(後の東洋大学)では「仏教大意」を講義。

七十歳からは、説法教化のために全国各地を巡り、七十三歳の時仁和寺門跡となる。日露戦争戦歿者慰霊のために光明真言百万遍講を組織して霊を弔い、八十歳にして、満韓戦場戦死者回向のため満州朝鮮に渡り、各地で追悼法会を営んだ。

さらに、八十二歳で、東北、北海道、樺太巡教。西洋化する社会を憂えて神儒仏三道一貫の精神をもって本義とする国民教育を施す場として徳教学校設立運動を開始する。

しかし、志半ばにして明治四十二年四月十三日遷化。不惜身命の精神で、仏教護法にささげた八十三年の生涯であった。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド思い出話6-比丘となる

2007年02月14日 20時10分04秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
インドに住み込み、3ヶ月ほどが過ぎ、やっと生活に慣れてきた6月。カルカッタのダルマパル・バンテーから手紙が来た。突然だが、ウパサンパダー(正式な比丘になる受戒を行う具足戒式)をするから22日までに来いとのことだった。後藤師と共に、夜行の急行に乗り込み、翌朝雨の降るハウラー駅に到着した。

二人でゲストハウスに泊まる。カルカッタのお寺で暗い朝、聞こえてくるお経は本当に素晴らしいものだった。22日の9時頃、後藤師がかつて寄付したオレンジ色に塗られた「ふそうバス」で、15人ほどの比丘がたとともにフーグリー河に向かい、船に乗り、船室で私とボーディパル師の具足戒式が行われた。

10畳ほどの部屋に、10人以上の比丘が一つの境界をなし、受者である私とボーディパルとは離れたところに座らされた。二人ともダルマパル師に、「尊師よ私の和尚になって下さい」と三度言い、袈裟一枚が入った鉢を手にする。これら問答はすべてパーリ語でなされる。

暫く待たされ、その間、他の比丘たちに教誡師が、比丘志願者がいることを告げ、その後、二人の所に来て、癩病、皮膚病、肺病、顛狂病などがあるかどうか、人間かどうか、男性かどうか、借金がないか、王の家来か、父母に許されたか、二十歳を過ぎたか、衣鉢を調えているかなどと、伝統に則り、教誡して、その後、比丘衆に教誡が済んだことを述べ、受者は比丘衆に具足戒を三度乞う。

そして、比丘衆の中に受者を入れて、改めて、教誡師は、受者に対して、先に述べた病気がないかどうか、人間かなどと問い、そのつど受者は「はいそうです。尊師よ」と返答していく。

そして、その後、長老比丘が、「ダルマパル師を和尚として二人の沙弥が比丘になることを志願し障害なく清浄であるので、僧伽に機が熟せば具足戒を授けてはどうか。同意する方は黙って下さい。同意しない人は言って下さい」と同じ文句を三度唱えます。

三度誰も何も言わないことを確認して、僧伽によって、ダルマパル師を和尚にして具足戒が授けられました。黙っているので同意したと了解します」と教誡師が述べる。この問答方式による裁決の仕方を白四羯磨(びゃくしこんま)という。

その後、時計の時刻を正確に記録して、具足戒式は終わり、ダルマパル師から、四資具と四波羅夷について講話があり、その後全員でカラニーヤ・メッタ・スッタ(慈経)を読誦して式が終了した。

四資具とは、托鉢によって食を、糞掃衣という粗末な袈裟を、住まいとして樹下を、牛の尿に漬けた薬を基本とすることを教誡する。そして、四波羅夷とは、僧団を追放される4つの禁戒で、男女の交わり、与えられていない600円相当以上の物を盗む、故意に生き物の命を奪う、悟っているかのような嘘を言うことを戒める教誡がなされた。

そして、甲板に出て、記念写真を撮り、11時頃までにはお寺に戻り、盛大な施食が行われ、その晩には、記念の式典が行われた。ただ、この式典は、もちろん私のためではなくて、ボーディパル師がベンガル仏教会の創立者クリパシャラン大長老の家系出身者であったが為に行われたのだった。彼は今、ブッダガヤの大塔を所有する大菩提寺の住職の要職にある。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド思い出話5-沙弥となる

2007年02月11日 19時00分46秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
丁度14年前の今頃、私は再度インドに旅立った。3度目のインドだった。作務衣に大きなナップザックを担ぎ、荷物の半分は辞書やら書籍類が占めていた。前回は私にとって関所であったカルカッタを今回はすんなり通り抜け、サールナートに向かった。

少しばかりヒンディ語を習っていた私は、ベナレスに向かう列車に乗り込んだ人たちの言葉に聞き耳をたて、途中から乗り込んできた学生らと話し、軽くいなされたことを憶えている。所詮一年ばかりの語学では知れているということなのだった。

後藤師の住職するサールナート法輪精舎に着いた私は、まず、デリーに向かった。ベナレスサンスクリット大学の入学許可書を持って、留学滞在許可の申請を中央政府にするためであった。

ベナレスを夜出る急行でデリーに向かい、朝方着き、オールドデリーのメインバザールの安宿に荷物を置いた。それから、まず日本大使館に行った。長期滞在の届けを出して、留学手続きをするインド政府の役所の場所を聞く。

聞いたところに行くと、そこにはもうその係はなく、またそこで教えられた事務所を探してリキシャを走らせる。たどり着いた事務所は、管轄外だという。そこでまた教えられて、リキシャで走り、三ヶ所目にやっと目指す事務所にたどり着いた。もう夕刻だった。

大きな事務室に係官が一人座っていた。中に通され、拙い英語で用件を告げる。書類に不備はない。しかし聞いていたので、100ルピー札を二枚ほど差し出す。しかし、「これは何か」と係官。何かタバコでもと日本の感覚で言うと、憮然とした表情で、「私はプアーではない。このようなことはしないで欲しい」と、お金を突き返してきた。

しかし、にこりと笑って、外で待っていなさいと言われる。不安な気分で、暫く待っていると、また呼ばれて書類にサインと丸い判を押して渡してくれた。インドの役人も変わったものだと感心した。いや、おかしいのは地方だけなのかも知れない。中央の役人は結構きちんとしているのかも知れない。

そんなことを思いつつ、宿に帰り、一日で用件が済んで、泊まる必要もなくなり、荷物を取って駅に向かったのだった。しかしベナレスに戻って、ベナレスのビザ事務所に行くと、相変わらず袖の下を要求し、それがなければ判を押してはくれなかった。

行ってから、ひと月くらいたってからだったろうか、サールナートのビルマ寺の住職を招いて、私の沙弥出家の儀式が執り行われた。白い上下の服を着てしゃがむ。いくつかの問答の後、白い服を脱いで、袈裟を纏い、10の戒律を授かり、教戒を受けて、沙弥となった。

その後、サールナートに住むベンガル仏教徒から食事の供養を受け儀式は終了したが、以来黄色ないしオレンジ色の袈裟だけで過ごす。暑い時期には腰に巻く袈裟だけで過ごし、客人があったり、外出するときだけ上に袈裟を纏った。何とも身軽になり、誠に心地よかった。

それからも私は、サールナートでは、毎日遺跡公園に出かけ、旅行者に寄付を募り、お寺では、習ったヒンディ語を実用に使えるようにすべく、お寺にやってきた子供たちと話しをするよう心がけた。しかし、話さねばいけないのに、なかなか言葉が出てこない。そんなもどかしい毎日が過ぎていき、後藤さんにはまったく積極性のない奴だと怒られるはで、何とも情けない、思いで日を過ごした。

ひと月くらいで、とてつもないかゆみが身体を襲ったかと思うと、今度はできものが足にできて歩けなくなり、環境に身体が慣れるまで随分な日を要した。それでも、後藤さんからパーリ語を習い、法句経を毎日一偈ずつ文法書と辞書とにらめっこでヒンディ語訳と日本語訳をこしらえ、後藤さんの添削を受けた。朝は暗いうちに起きだし、パーリ語の経典を毎朝読誦した。仮本堂には一尺ほどのネパール製の仏陀が鎮座していた。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド思い出話4-サールナートの後藤師と出会う

2007年02月05日 17時20分02秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
第二回インド巡礼。前回同様カルカッタに降り立った私は、今回は迷うことなくボウ・バザールの裏手に位置するベンガル仏教会に飛び込んだ。このとき初めて、後に私の師匠となるダルマパル師と出会う。この時70歳くらいだったろうか。

とてもきさくに話をして下さり、ゲストハウスに案内してくれた。そして、「仏蹟巡礼ならサールナートに行け、そこに日本人の比丘が居るから」と地図を書き丁寧に場所まで教えてくれて、土産まで預かった。

数日後、予約した列車に乗るべくハウラー駅に夕方のラッシュ時にタクシーで向かう。そのあたりからどうも頭が熱かった。列車を待つ間にもロビーで物乞いが寄ってくる。終いにお腹に来てトイレに行くと、もういけなかった。高熱がでだした。予約したチケットを無駄にして、またタクシーでお寺に戻る。また同じ部屋に案内されて寝た。

その晩夢を見た。黄色い袈裟を纏ってインド人のお坊さんと暮らす自分がいた。次の朝には不思議と熱が下がり、数日後サールナートにたどり着く。サールナートのマアイア地区に後藤恵照さんという日本人比丘が開いたベンガル仏教会支部法輪精舎があった。

初めてお会いするのに、何の屈託もない。よく来ましたと茨城訛りの日本語で歓迎してくれた。既に在印14年、そのとき59歳ということだった。私が増谷文雄先生の本から、つまりパーリ仏教から出家に至ったというと大層喜ばれた。

そして、インドの仏教は、イスラム教徒が攻めてきて13世紀に無くなったと思われているけれども、そうではなくて、既にその前にマガダ地区から東に避難していた仏教徒たちがいて、彼らがインドと今のミャンマー国境地帯に住み着き、アラカンの仏教徒と関係する。

その後、彼らはベンガル湾に面する港町チッタゴンを本拠とする。けれどもその後イスラムがその地まで勢力を拡張してきて随分とお寺は破壊され、坊さんたちは袈裟も着れない時代となる。

しかし、その後、英国が植民地としてベンガルにやってきてから、その地元採用の軍隊に仏教徒たちが志願して社会的な地位を回復し、お寺を造り、坊さんの組織をアラカンの長老に来てもらって上座仏教として再生し、それからチッタゴンに協会を作った。その後カルカッタにも出来た教会がベンガル仏教会なのだと。そんな話を延々と聞かされた。

インドにはもう正統たる仏教はないのだと思っていた私には、青天の霹靂。何か身体に力が漲るようなうれしい思いにとらわれた。その日から、細々寄付を募って暮らす後藤師と一緒にサールナートの遺跡公園に出かけていき、日本人観光客らに話しかけ、寄付を募り、宿泊希望者はお寺に招きお世話をした。

この間に様々な団体がやってきた。まだバブル期だったせいか、日本のお寺の団体や旅行社の団体なども多く、中には、奈良の大安寺の貫首さんが連れてこられた団体もあった。その頃私は、日本から持参していった日本式の衣を脱いで、リシケシのシバナンダアシュラムの修行者のように白い布を二枚買い込み、一枚を腰に巻き、一枚を肩からショールのように纏って過ごした。

お寺では、日曜日には日曜学校が開かれ、朝から近在の子供たちが詰めかけ、英語を教え、終わるとビスケットを配布した。これらにはマウリア王朝の末裔モウリア族の少年たちが数人手伝いに来ていた。

サールナートに後藤師と出かけていくと、小さい子供たちが沢山集まってきて、後藤師に合掌して近づき、右手を後藤師の足に付けその手を自分の額に持って行き合掌する。そんな姿を見ていたら、無性にこんなありがたいお坊さんが今の時代にもいたのだと感激し涙が溢れてきた。

もっとこの方のお役に立てることをしたい。東京で、むざむざ無為に日を過ごしていたことが悔やまれてならなかった。こう思ったら早かった。私は、2、3日後には、もう一度インド僧として再出家して、このお寺に住み込み、これから作ろうと計画されていた無料中学校のために出来ることをさせていただこうと決めていた。

それにはこの地域の言葉であるヒンディ語が分からなくてはいけない。少し仏教の言葉パーリ語も勉強しなくてはいけないということになり、一度日本に戻り、学校で文法から学ぶのがよいということで、他の仏蹟に行くという、特別あてもなかった私の当初の計画はすべてキャンセルして、そのままカルカッタに戻り、ダルマパーラ・バンテーにその旨を述べ、賛同していただいた。

東京に戻った私は、拓殖大学語学研究所にヒンディ語を学び、夏には、後藤師とともに嘗てパーリ語研修会を開かれていた愛知県安城の慈光院の戸田先生を訪ね、一週間泊まりがけのパーリ語研修会に参加した。

新しい自分の方向が決定されると、自然と様々な関係の知人友人の輪がワッと広がり、途端に大勢の方々と知り合うこととなった。その一年間は、私にとって、ヒンディ語という新しいアジアの言語を学びつつ、南方仏教の知識をさらに深めるべく勉強三昧の年であった。

そんな中で、後藤師から教えられ連絡を取った上座仏教修道会の竹田代表の紹介で、スリランカから来られていたスマナサーラ長老を二、三の友人僧侶とともに方南町のマンションに訪ねる機会も得た。そして、それから数度にわたって、様々お話をうかがえたことは誠に貴重なことであった。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド思い出話3-カルカッタ、バンコク、東京

2007年02月03日 19時43分56秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
前回ダラムサーラに行ったことを回想して、すこしチベット人の仏教について語った。道行く人が数珠を持ち、真言をくりながら歩く姿をよく目にした。僧服を着たお坊さんたちも何か小さな声で唱えながら歩く。とても信仰が日常に根付いていることを感じた。

しかし、彼らチベット人はとても頑固で商売が上手であることも後によくインド人から聞かされた。元々チベットの人たちが中国を追われてインドに来たとき、インド側は別の土地を用意していたのだという。それなのに、地形や季候がラサと似ているとのことでダラムサーラに居座ってしまったのだと聞いた。

後に住み込んだサールナートのお寺の隣はチベタン・インスティチュートというチベットの大学や研究所があり、僧服を着た学生たちも沢山学んでいた。彼らの学校は他のインドの学校に比べても立派でエアコンが完備されていて、発電機もあった。

多くのインド人が停電で困っているとき、私の住んでいたお寺もご多分に漏れず停電してロウソク生活をしていたのだが。インドからの助成でチベット人たちは明るいところで生活している不思議な光景を目にすることにもなった。

ベナレスの商店街などには沢山チベット商人が店を並べ、道行く外国人にチベットの文字の入ったTシャツやら小物、仏具を売っていた。チベット人は商売上手なのだとも聞いた。しかしダライ・ラマ法皇の講演や伝授会などには数千人規模で人が集まる。

宿泊施設や食堂などはそれによってかなり経済的な恩恵も受けている。インドにとって、チベット受け入れは、インドという国の懐の大きさ、寛大さ、人権への配慮など国際的な評価を高める意味からも意味があることだったのであろう。

ところで、カルカッタに着いた私は、後にそこで再出家してインドの坊さんになることなど予想すらせずに、その時はのんきに町に食事に出て買い物し、帰国に備えた。ただ、仏教がインドにも行われているのだということを知り、毎朝どこからともなく聞こえてくる読経に耳を澄ませていたのだった。

その時にはまだインドの仏教がどのようなもので、どれだけ意味のあるものかも知ろうともせず、リシケシで体験した現代ヒンドゥー教の様々な修行が確かに日本の真言宗の真言念誦と関係し、また阿字観という真言宗の瞑想と同じ構造のあるオームの瞑想法を教えられ修したことが強く印象に残った。リシケシには真言宗の密教の源流を見る思いがしたのだった。

カルカッタから、バンコクを経由し、バンコクからアユタヤに出て山田長政の日本町を拝見し、また前王朝の頃華やかであったろう古寺を拝観した。バンコクに戻るとそれだけ日本に近づいたという安堵と人間が穏やかでゆったりしていることに気づいた。

それだけインドという国はみんなが必死になって生きている。人口も8億を超え、気候も厳しくみんな生きることに懸命なのだ。勢い観光に来る外国人にはしんどい国なのだということをタイに来て精神的に楽になった分強く感じられるのだった。

日本に戻った私は、リシケシで出会った信玄師を訪ね、四国遍路へ出たり、禅寺に坐禅を重ねるようになる。そしてその後お寺の役僧を辞し、東京で、とげ抜き地蔵や柴又の帝釈天、浅草寺の門前や、銀座数寄屋橋などで托鉢をして生活をした。

そんな不安定な生活を続ける中で、果たして坊さんとは何か。僧侶としてどう生きるべきかなどと考えはじめたとき、再度インドへ行く機会を得た。友人の坊さんがインドに一緒に行かないかと誘われ、その気になり、その後その人が行けなくなって、また一人旅立つことになる。

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド思い出話2-ダラムサーラに行く

2007年02月02日 16時23分11秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
ガンガーで沐浴していた私の前に突然現れた信玄師も、同じベーダニケタンに宿泊していた。三つほど部屋が離れていたが、頻繁に会い、いろいろ話をうかがった。もともと坐禅に興味があったので、禅宗の坐り方から心の持ちようなどあれやこれや話を聞き、こちらで知ったヒンドゥー教について話すなど話題が尽きなかった。

信玄師はどこで知り合ったのか、日本人女性とイタリア人男性のカップルと親しくされ、私も仲間に入れてもらい、よく一緒に食事に出たり、簡単な料理を作ってはともに食べたりしていた。このカップルはロンドンで一緒に何かボランティアの仕事をしていて、こうしてインドまで来たような話をされていた。

そして、この頃、毎日のようにガンガー沿いの商店街を通って、上流に向かい、多くの修行者が坐って瞑想したり、マントラを唱えつつ座る姿を見て歩いた。夕刻、薄暗くなる中、燈火を灯し、川岸に沢山の人が一人のスワミジを囲んで話に聞き入っている光景を目にすることもあった。

近づいて話に耳を傾ける。ヒンディ語なので全くその時には分からなかったが、その声を聞いているだけで心落ち着くような感じがした。不思議なことに花も見えないのに花の香りがどこからともなく漂ってくる。おそらくこのような集いの中でお釈迦様も比丘たちや信者に話をしたのであろう。インドには2500年も前から変わらないこのような伝統が今も残っていることが、とてもありがたいことに思えた。

ある時、雨期の最中だったこともあり、とても暑いので、三人はもっとガンガー上流の修行者の町ケダルナートへ行き、その帰りダライラマ法皇の居られるダラムサーラに行って帰ってきた。とても良いところだったと窺い、今度は私一人でバスを乗り継ぎダラムサーラに向かった。

行き帰りのバスは道も悪く車体も劣悪で丸1日かけてのバスの旅はひどく疲労したことを憶えている。それでも行きは途中からチベット人家族と同行だったので不安もなかったが、帰りは、モンゴル系の豪傑ばかりの中に小さく一人帰ってきた。

ダラムサーラは海抜1700㍍。マクロードガンジと呼ばれる小さな商店街を中心に数千人のチベット人が暮らしている。数か寺の寺院が建ち、エンジの僧服を纏う坊さんも道を行き交う。数珠を持って真言を唱え歩いている人が多い。中心部にマニ車という経文が中に入った円筒形のものを回しながら歩く人もいる。

早速親しくなったチベット人家族からモモというチベットパンをご馳走になり、宿を探す。夜は寒く、毛布も急遽買うわけにも行かず寒い夜を過ごした。外国人も多く、茶店で何人かと話し、暇をつぶした。

一週間ほどいたが、大きな法要の日があり、本堂の中央の高座にはこちらに向いて高僧が坐り、その下には向かい合わせに大勢の坊さんが座っていた。外縁には空いた隙間もないほどに信者が座り、私もその中に混ぜてもらって3時間ほどの法要に参加した。

その後ろでは数人の男子が盛んに五体投地を繰り返していた。法要が終わると祭壇に御供えされたパンとバター茶がみんなに振る舞われた。オン・マニ・パドマ・フーンと言う観音様の真言を何度となく一緒に唱えた。

リシケシに戻ると、暫くして、3人と共に3ヶ月を過ごしたリシケシとも別れを告げ、デリーに向かった。バスでデリーに着いたのは夜中だった。リキシャで安宿に入る。窓のない部屋で、パンカーという大きな天井に付けられた扇風機を回さねば寝れない。シーツをベッドの上に広がるように窓枠から縄で取り付けて寝た。

オールドデリーのメインバザールに宿をかえ、他の3人と共に観光地を一回りしてから、ラージダニ特急で一人カルカッタに出た。一晩でデリーからカルカッタに到着する。カルカッタでは、迷うことなく、ベンガル仏教会のゲストハウスに入った。

日記@BlogRanking

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする