住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「朝日新聞愛読者企画日本の古寺めぐりシリーズ」第九回・新薬師寺と唐招提寺参拝 3

2010年10月28日 15時59分04秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
講堂
次に、金堂の北に位置する講堂は、大戒を得た初学者に共同生活をしながら仏道のあり方を習得させるための道場であった。平城京の中心政庁である東の朝集殿が移された建物で、当時の平城京の遺構として唯一のもの。正面九間側面四間で、本瓦葺き。平屋の入母屋造で、連子窓や扉が設けられるなど、現在の姿は鎌倉時代の改造によるところが大きいといわれ、その後も江戸時代、明治時代にも修理が行われた。天平時代、平城宮の面影をとどめる唯一の建築物としてきわめて貴重な建物。内部には、本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)の他、多くの仏像が安置されている。

6月6日にに開山忌が執り行われる。鑑真和上の遺徳を偲び、講師と読師が東西の登高座に登って舎利会が、また5月19日には中興忌に梵網会が行われる。

講堂本尊は、弥勒菩薩座像・重要文化財、鎌倉時代、木造。講堂の本尊で、高さ2.84m。構造は、寄木造りで、右手は施無畏、左手は膝の上に伏せている。目鼻立ちも大きくはっきりとした力強い表情で、鎌倉時代の典型的な仏像。後背周辺には迦陵頻伽(極楽浄土で聞いて飽きることのない美声で法を説くという想像上の鳥)や飛天が配されている。

本尊右に持国天・重要文化財、奈良時代(8世紀)132㎝、木造。増長天と比較して、体躯の動きは多少ぎこちないが、細かく彫刻された衣紋の精巧さ、緻密さは同時代の木造像としてはあまり類例がない。また、本尊左には、増長天・重要文化財、奈良時代(8世紀)128㎝、木造。創建当時にさかのぼると考えられる木彫像。そのずんぐりとした力強い体型は、唐代の仏像を手本としていたもので、鑑真和上とともに来日した唐人の作といわれている。共に本尊を守護する。邪鬼を踏んでいるが、これは近世の補作。

戒壇
金堂の西側にある戒壇は、僧となるための授戒が行われる場所。最も神聖なる儀礼の場である。三重の石壇になっているのは、一切の悪を断ち、善を修め、これを己のためでなく人々に廻らすとの戒の精神を表している。創建時に築かれたとされているが、中世に廃され、その後石段のみ鎌倉時代に再興され、のちに徳川家綱の母桂昌院の寄進による大きな重層の戒壇堂が存在したが、きらびやかな荘厳具を盗みに入った賊に放火され、失われた。現在は、三段の石壇のみが残り、その上に昭和53年(1980)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれている。

鼓楼
金堂・講堂の中間の東側に建つ、二階建ての建築物。国宝、鎌倉時代、仁治元年(1240)。楼造・入母屋造・本瓦葺。名称は「鼓楼」となっているが、現在は鑑真和上将来の仏舎利を奉安しているため、「舎利殿(しゃりでん)」とも呼ばれる。外観は、上下階とも扉と連子窓(れんじまど)で構成され、縁と高欄が取り付けられ、堂内の厨子には、仏舎利を収めた国宝の金亀舎利塔(きんきしゃりとう)が安置されている。

国宝舎利容器、鑑真和上請来の「如来舎利三千粒(にょらいしゃりさんぜんりゅう)」を収める「白瑠璃舎利壺(はくるりしゃりこ)」とそれを包む「方円彩糸花網(ほうえんさいしかもう)」、さらにそれを収める「金亀舎利塔(きんきしゃりとう)」で構成された唐招提寺の創建にかかわる重要な宝物。

国宝・金亀舎利塔は、南北朝時代(14世紀)鑑真和上の渡海中、海に沈んだ舎利を亀が背にして浮かび上がってきたとの故事にちなんで造られたもの。高さ92cm、総体が金銅の打物、台座となる亀形部は木胎に金銅板を被せたもので、白瑠璃舎利壺を収める軸部は蓮華唐草の透かし彫りになっている。

国宝・白瑠璃舎利壺。中国唐代(8世紀)鑑真和上が持って来られた、仏舎利を収めるペルシャ製ガラス壺で高さ9.2cm、胴径11.2cm。肩および底部に大きめの気泡が見られる淡黄色の厚手のガラス壺。口縁には金銅製の口金がはめられ、後小松天皇(在位1382-1412)などの勅封により厳封されている。

国宝・方円彩糸花網。中国唐代(8世紀)白瑠璃舎利壺を包んで保護していたレースと考えられている。紺、茶緑、淡茶、白茶等の絹の色糸で編み上げられ、形はほぼ円形で中央部に方形の文様が編み込まれている。技法などから唐で作られたものと考えられ、この種のものとしては最古。

礼堂
鼓楼の東に位置する南北19間の細長い建物。重要文化財、鎌倉時代、木造、入母屋造・本瓦葺。南側8間が礼堂、北側10間が東室。その間の1間は、馬道(めどう)と呼ばれる通路になっている。講堂を挟んだ西側にも同様の建物があり、僧房として使われていた。礼堂は、隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂で、内部に釈迦如来立像(重文)・日供舎利塔を安置している。鎌倉時代貞慶上人が釈迦念仏会を創始してこの礼堂で毎年10月21から23日にかけて行われている。

御影堂
境内の北側に位置する土塀に囲まれ、ひっそりとした瀟洒な建物。重要文化財、江戸時代。元は、興福寺の別当坊だった一乗院宸殿の遺構で、明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和38年(1964)移築復元したもの。現在は、鑑真和上坐像(国宝)が奉安されており、昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯が描かれた、鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、障壁画が収められている。

鑑真和上像。国宝、奈良時代(8世紀)脱活乾漆(だっかつかんしつ)彩色。高さ80.1cm。日本最古の肖像彫刻であり、天平時代を代表する彫刻。鑑真和上の不屈の精神まで感じさせる傑作。脱活乾漆は麻布を漆で貼り合わせ整形を施す製法で内部は空洞。弟子の忍基(にんき)が制作を指導したとされ、今も鮮やかな彩色が残っている。

東山魁夷画伯奉納障壁画。鑑真和上坐像が安置される御影堂内の襖絵。日本を代表する画家、東山魁夷画伯が、12年の歳月をかけ、鑑真和上に捧げた大作である。日本の風土をテーマとして、色鮮やかに描かれた「山雲(さんうん)」「濤声(とうせい)」と、墨一色で描かれた和上の故郷中国の壮大な風景「揚州薫風(ようしゅうくんぷう)」「黄山暁雲(こうざんぎょううん)」「桂林月宵(けいりんげっしょう)」のほか、坐像を収めた厨子の扉絵「瑞光(ずいこう)」も画伯の作。一般公開は毎年忌日前後の6月5日から7日まで。

中興堂
御影堂の西に位置する祖師堂。寄棟造・本瓦葺。中興堂は、鑑真大和上の再来と謳われた大悲菩薩覚盛上人(1193~1249)の750年御諱(没後750回忌)を記念して建てられた。寄棟造で、平成11年に完成。覚盛上人坐像(重文)の他に、昭和の中興とも言われている第81世森本孝順長老坐像(現代・制作:本間紀男氏)も安置している。

覚盛上人座像。重要文化財、室町時代(1395年)木造、彩色。鎌倉時代の南都戒律復興の中核であった覚盛上人は、平安時代末に興福寺の実範が戒律復興を志し、その意志を継いだ貞慶上人が起こした興福寺成喜院で戒律研究をする研究生として教えを受けている。その仲間に後に西大寺を復興する叡尊上人もある。東大寺大仏前で自誓授戒の後覚盛上人は衰退していた唐招提寺に入り復興に乗り出す、しかし56歳で没したため、その後の実際の仕事は弟子の証玄が43年も長老として諸堂の整備、千僧供養を行うなど中興を成し遂げた。この像は壮年期の意志的な表情を見せている。戒律に厳しく、特に不殺生戒を堅持したと伝わるその人柄がよく表れている。像内の墨書から奈良在住の仏師の一人、成慶によって1395年に像立。

このほか、校倉造りの経蔵、宝蔵、また新宝蔵には破損した仏像、また、東征伝絵巻なども展示されている。そして忘れてはならないのが、鑑真和上御廟。御影堂の東にあり、奈良時代の名僧で墓がはっきりしているのは稀なことともいう。池に架けられた橋を渡って、石の柵に囲まれた円丘の上に宝筐印塔が建つ。鑑真和上の凜とした気風を感じつつ境内を散策しながら是非訪れたいものである。

戒律は仏教の寿命であり、戒律は宗派によらず、どの宗旨でもその前に初学として学ぶべきものであった。学ぶべき三蔵の中の律であり、修得すべき三学の中の戒であった。僧侶たるもの誰もがまずもって大切にすべきものを伝えてくれているのが唐招提寺であり、その大本を造られた鑑真和上の寺。栄枯盛衰を経ながらも今もその精神を大切に守るが故のその厳かな佇まいに、静謐さに、清らかな教えの精髄を感じ取りたいと思う。


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「朝日新聞愛読者企画日本の古寺めぐりシリーズ」第九回・新薬師寺と唐招提寺参拝 2

2010年10月27日 19時49分21秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
唐招提寺

唐招提寺は、律宗総本山唐招提寺が正式な名称。律宗は、奈良時代の南都六宗の一つで、六宗とは、三論、成実、法相、倶舎、華厳、律の六つ。 律宗は、唐から本式の戒律を伝えられた鑑真和上が開かれた宗派で、主に四分律という戒律を学び実践することを僧侶に学ばせるための教育機関であった。今では、この律宗と華厳、法相宗を残すのみとなった。唐招提寺は平城京の右京五条二坊という地にあり、同じ西の京にある薬師寺の北に位置する。境内およそ二万坪、当時は中程度の寺であった。七大寺に入らず十五か寺の一つ。末寺は30ほど。

開山の鑑真和上(688-763)は、唐の屈指の学徳兼備の名僧で皇帝から庶民に至る多くの信仰の対象であった。天台教学、南都四分律、さらには金剛智三蔵から金剛頂経系の密教を付法し一行禅師とは同門でもあり真言密教にも通じていた。にもかかわらず、日本から派遣された留学僧で、大安寺の普照(ふしょう)と興福寺の栄叡(ようえい)の懇願により自ら渡日を決意された。当時既に55歳。日本には仏教は伝えられても、僧侶たちの授戒を正式に行う機関が無く、税や労役を逃れるために僧侶になりすます人も多く、律令体制の維持のためにも国家機関としての授戒制度を確立する必要に迫られていたのであった。僧に大戒を授けるためには、三師七証という授戒が必要だった。

当初、栄叡、普照は鑑真和上に我が国への伝戒の師として弟子の紹介を懇請したが、航海技術の未熟な時代でもあり、また、不法出国となるなど誰も行く者無く、鑑真和上自らが日本へ渡航することなった。来日する予定のメンバーには僧、仏師、画師なども含まれた大団体であり、命がけの渡日のうえ、2度と故郷の地を踏めない恐れがある遠く離れた異国の地に、不法出国までして鑑真和上に随行したことは鑑真和上にそれだけの威徳があったということなのであろう。

鑑真和上の渡航歴は、以下の通り。①743年弟子僧の密告で失敗。②743年遭難・難破。③744年弟子僧の密告で失敗、栄叡官憲に逮捕されるが釈放。④ 744年弟子僧の密告で阻止され失敗。⑤748年台風に遭遇し海南島に漂着。⑥753年第10次遣唐使の帰国に便乗、薩摩国(現在の鹿児島県)に上陸す。渡日を決意してから実に12年目にして念願を果たす。

渡航を阻止しようと常に鑑真和上の行動には官憲の目が光っているのにも屈せず、しかも高齢ゆえ異国の地で生涯を閉じる事が分かっているのに意志を貫かれた鑑真和上の不屈の精神は想像を絶するものがある。度重なる渡航失敗にもかかわらずその都度、仏像、経典、仏具、薬品、食料品など我が国では得られない貴重な品々を用意し船に積み込んでいた。この間に鑑真和上は両目を失明、鑑真和上に我が国への招来を熱心に嘆願した栄叡が死亡、更なる6回目の渡航に挑戦され無事我が国に入国。普照は20年振りに無事帰国した。詳しくは、井上靖著「天平の甍」を参照されたい。

754年「聖武上皇」は、「いまより授戒伝律はひとえに和上にまかす」と曰われ、最初に東大寺大仏殿前の戒壇で聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇を始め多くの僧ら約400人の授戒が行なれた。東大寺の戒壇から離れた土地での受戒希望者のための戒壇を、東方には「下野(しもつけ)薬師寺(栃木県)」、西方には「筑紫観世音寺(福岡県)」に築かれて天下の三戒壇と呼ばれた。下野薬師寺は僧道鏡が左遷、観世音寺は、僧玄が左遷された地としても知られる。しかし、その後、平安時代には比叡山延暦寺に大乗戒壇が創設されて、三戒壇は有名無実化する。

朝廷は鑑真和上の偉大な功績に応えるべく鑑真和上のために天平宝字3年(759年)、官が没収していた新田部(にいたべ)親王の旧邸宅を下賜。純粋な律宗の研修道場とすべく、鑑真和上は「唐律招提」と名付けられた。唐は大きい広々したという意味で、招提とはインドの言葉で、四方からあつまる修行者に誰彼となく衣食を用意して学ばせるという意味。広く戒律を教える私寺ということから唐律招提と称されたのであろう。

鑑真和上が入寂されるまで金堂は建立されておらず、唐律招提のままであった。戒律を学ぶ道場としては講堂があればよく、平城京の朝集殿が下賜され講堂らしく改造、戒律を学ぶ講堂は朝廷から、食堂は藤原仲麻呂から、寝起きをする僧坊は藤原清河家から施入された。鑑真和上亡き後は弟子の義静、如宝が唐招提寺の伽藍の充実に尽力して、金堂、経楼、鐘楼、金堂の仏像などが整備され宝亀10年(779)に今寺になると言う記録がある。延暦24年(805)には十五大寺に加えられ私寺から官寺扱いとなった。 
 
まず境内には、 「南大門」から入る。これは、昭和35年の復元。「五間三戸」の横に大きな門で、創建当初入ると同等の大きさの中門があり、回廊が巡らされ、薬師寺と同じように複廊だったといわれている。中門は、地震により倒壊したまま再建されず。南大門から砂利を敷き詰めた参道を金堂に向かう。

天平時代の金堂と講堂が残るのは唐招提寺だけで、金堂と中に納まった9体の尊像すべてが国宝と言うのも唐招提寺だけという。金堂は天平時代では唯一の遺構という極めて価値のある建築である。10年という長い歳月をかけての解体修理が昨年終わったところでもある。鑑真和上と共に来日した如宝によって建てられたという。

金堂
正面間口七間(中央間は約4.7m、両端へは次第に狭くなり、3.3m)、奥行き四間の寄棟造で、前面一間通りが吹き放ち、軒を支える組み物は三手先(みてさき)と呼ばれる形式で、その建立年代を示している。本瓦葺き。高い基壇の上に建ち、屋根の上に鴟尾を置く、向かって左の鴟尾は創建当時のものとして有名だったが、解体修理後、新宝蔵に移されている。

前面の吹き放ちの列柱はエンタシスの太い柱がやはり両端に狭められて立つ。天平時代の法要は堂の前庭で行う庭儀であり、金堂は聖なる大仏壇という閉鎖された空間だったため、堂内で沢山の人が参拝する構造にはなっていない。簡単な法要や参詣者の礼拝のために吹き放ちの空間があるのであろう。

中央に本尊・盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いずれも国宝)が並ぶ姿は、天平時代を彷彿させる厳かな雰囲気に包まれている。金堂の本尊は、国宝・盧舎那仏座像。奈良時代(8世紀)、脱活乾漆、漆箔、像高は3.04m、光背の高さは、5.15mにもおよぶ巨像。奈良時代に盛んに用いられた脱活乾漆造でその造形は雄大さとやわらかさを併せ持ち、唐代の仏像に通じる唐招提寺のご本尊にふさわしい。また、背後の光背の化仏の数は、864体あるが、本来は1000体であったという。

後に述べる鑑真和上像で有名な脱活乾漆造りとは、粘土で芯型を作り、その上に布を張り漆で混ぜた香木の粉末泥で細部を仕上げ、乾き上がって後に内部の粘土を砕いて取り出し、形が歪まないように木枠を入れた手法で造ったものを言う。そして、最後に乾漆上に彩色を施して完成となる。大変手間が掛かりなおかつ金と同価と言われた純度の高い漆を多量に使うので費用を莫大に要する。天平時代には霊木信仰から一木造りの木彫仏が求められたため、一木造りでは巨像が出来ず、鎮護国家のための巨像制作には脱活乾漆造りが必要だったとも言えよう。

本尊、盧舎那仏坐像の向かって右側に安置される国宝・薬師如来立像、平安時代(9世紀)、木心乾漆、漆箔、高さ3.36m。薬壺はない。本尊、千手観音像にやや遅れる平安時代初期に完成したと考えられている。伏目がちな表情などから全体的に重厚な印象がある仏像。昭和47年の修理の際に左手掌から3枚の古銭が見つかり、その年代から平安初期の完成であることが明らかになった。

本尊、盧舎那仏坐像の向かって左側に安置される国宝千手観音立像。奈良時代(8世紀)、木心乾漆、漆箔、高さ5.36m。丈八の大像。大脇手42本、小脇手911本、合わせて953本の腕は、バランスよく配され不自然さを感じさせない。また、本来は1000本あったと考えられていて、この度の改修で千本に改められた。本当に千の手を持つ千手観音はこの像と西国五番の葛井寺の本尊のみ。全体的にのびやかな印象と、すずし気な目鼻立ちが印象的な御像。

金堂に祀られている盧舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像は経典には見当たらない三尊仏の配置で、天下の三戒壇すなわち、東側の薬師如来立像は「東方の下野薬師寺」、中央の盧舎邦仏坐像は「東大寺盧舎那仏像」、西側の千手観音立像は「西方の筑紫観世音寺」を表しているのではないかと言う説もあるという。

国宝・四天王像、奈良時代(8世紀)木造・乾漆併用、彩色、高さ1.85~1.88m。四天王は仏教世界を四方から護る護法神。本来は金堂の須弥壇の四隅に安置され、梵天・帝釈天立像と同時期、同一工房の作とされる。四像とも丸みを帯びた顔は、やや平板な目鼻立ちながら重厚な表情で、体つきは全体に力強い印象を与える。東南に持国天、東北に毘沙門天、北西に広目天、南西に増長天。

金堂本尊・盧舎那仏坐像の右に梵天、左が帝釈天。国宝・奈良時代(8世紀)木造・乾漆併用 彩色。梵天はヒンドゥー教の最高神ブラフマーのことで、色界の初禅天の主。帝釈天はヒンドゥー教のインドラ神が仏教に採りいれられ、忉利天の主。ともに仏教の護法神として、一対で造像されることが多い仏像。両像とも鎧の上に裳(も)をまとい、沓(くつ)を履き、梵天は、さらに袈裟をつけている。大らかな作りの表情は、柔和な印象をたたえる。ともに、台座は蓮弁が下を向く、反花座。

金堂の天井画は華麗な装飾文様で文様の種類は多く見事な出来栄え。文様は金堂の内側だけでなく扉の外側にも華文様が描かれている。金堂の三尊像の光背が天井まで迫っており天蓋を設ける隙間が無く、そのため極彩色で装飾された天井全体を天蓋の役目にさせているのかもしれない。

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「朝日新聞愛読者企画日本の古寺めぐりシリーズ」第九回・新薬師寺と唐招提寺参拝 1

2010年10月26日 17時44分11秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
シリーズ第九回を数える日本の古寺めぐりシリーズ。今回は遷都1300年祭で賑わう奈良に向かう。メイン会場である平城宮跡地に、復元された朱雀門と大極殿。それらを中心に約800メートル四方の平城京の規模を想像しながら歩く遺跡公園は古代のロマンを今に感じさせてくれるであろう。是非この機会に奈良を訪れて欲しいものだが、今回の古寺めぐりでは、その様子を遠望しながら、この期間に特別開帳の香薬師如来が拝観できる新薬師寺とこの遷都1300年祭に間に合わせ昨年金堂の改修を終えた唐招提寺に参詣する。

新薬師寺

新薬師寺は、東大寺春日大社の1キロほど南に位置する華厳宗東大寺別院新薬師寺というのが正式な名称、山号は、奈良仏教のお寺にはない。お寺のある高畑町は、志賀直哉の旧宅が今でも保存されていて、その当時ではとてもハイカラな和風サンルームがあり、天井が化粧裏天井、床は禅宗様の瓦の四半敷で、このサンルームは文化人が集まる「高畑サロン」とも言われて武者小路実篤、小林秀雄、尾崎一雄、梅原竜三郎などの著名人が集ったという。今も閑静な住宅地である「高畑町」界隈は奈良らしい面影を留めているところでもある。

まず寺名の新薬師寺の「新」とは、西の京にある薬師寺に対するものではなく、新薬師寺は華厳宗、薬師寺は法相宗のお寺でもあり、この「新」とは新しいという意味ではなく、霊験あらたかなの新で、あらたかな薬師寺ということをまずおさえておきたい。

天平十九年(747)に聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后が創建され、天平時代には「十大寺」の一つに数えられた大寺であった。正面九間の金堂、東塔・西塔など七堂伽藍を備えた壮大な伽藍だったという。境内は四町四方、約20万平方メートルという広大な寺域を有していたが、平安初期、宝亀11年(780)の落雷や台風の被害で金堂が倒壊、次第に衰微した。しかし鎌倉時代には、春日大社奥に遁世した興福寺の僧・解脱上人貞慶、また高山寺の明恵上人により再興され、このとき、東門、地蔵堂、鐘楼なども建立され現在では重文に指定されている。徳川時代には寺領を百万石与えられるなど祈祷所として賑わいを見せたという。

つい二年前に新薬師寺の西150メートルの、現在奈良教育大学の構内の発掘調査で、奈良時代の巨大伽藍の後が確認されている。当時金堂は東西11間約54メートル、南北6間約27メートル、東大寺大仏殿に次ぐ規模であったことが判明している。随分横長の建物だが、金堂に安置された尊像は経典通りの七体の薬師仏にそれぞれ日光月光の左右の菩薩、それに十二神将の33体の仏像が祀られていたからという。  
 
現在の新薬師寺の伽藍は、南門を入ると正面に本堂、右に鐘楼、左に地蔵堂が目に入る。現在の本堂は、何堂だったかはっきりしないとのことだが、創建時の食堂ではなかったかと言われ、東西22.7メートル、南北14.9メートル。天平末の建立。裳階のない、単層でしかも窓がなく白壁の大きさが目立つ珍しい本堂である。扉は内開きで古代の様式。

また屋根は、天平時代の金堂は寄棟造だったが現在の本堂は入母屋造で、古代の仏堂では寄棟造が最高で格式のある仏堂の形式だったのが時代が下ると入母屋造が好まれた。勾配が緩い屋根と落ち着いた外観は典型的な天平建築である。またこの本堂の鬼瓦は、現存最古の鬼瓦と言われ、仏敵を威嚇するような面相ではなく愛嬌のある獣面。牙は見えるが角が生えておらず仏敵を威嚇するような恐ろしい面相でないことから、呼称は鬼瓦ではなく「棟瓦」とか呼ばれた時代の作品で、製作時期は天平とも鎌倉時代ともいわれている。

本堂の東側の壁にはステンドグラスが嵌められ、「東方の瑠璃光の光を浴びて下さい」と掲示されている。床の敷き瓦は、四半敷(しはんじき)で、壁の線に対して瓦の目地が45度の角度になるように敷き詰められている。敷瓦の並べ方は他に布敷(ぬのじき)というのがあって、こちらは壁の線に沿って交互に並べていく。平安時代には板敷き床が主流となる。

天井は珍しい化粧屋根裏で、天井を張らず構造を露出させている。化粧屋根裏天井の化粧とは木材をきれいに削り仕上げたということで彩色仕上げではない。化粧屋根裏天井の仏堂では我が国最大。

本堂の正面右の柱の上部に、徳川家の家紋「葵紋(あおいもん)」と桂昌院の実家本庄家の家紋「九目結紋(ここのつめゆいもん)」が描かれている。徳川綱吉の母「桂昌院(けいしょういん)」の寄進により、「薬師如来像」「十二神将像」などが修繕されたことを記念したもの。

本堂中央の円形の須弥壇は直径が9メートル、高さが90㎝、土製で漆喰仕上げが施されいる。円形の須弥壇は珍しく我が国では最大の大きさを誇る。

本尊、薬師如来坐像は像高191.5センチ。平安初期の作。国宝。丈六(240センチ)に満たないが、創建当初、金堂には薬師如来像が七体も安置されていたので丈六仏ではなかったことも考えられる。現在は光背の薬師如来六仏と合わせて七仏薬師を表している。榧(かや)の一木造。肌を漆箔で金色にしたり、本体に彩色仕上げの文様を施さない素木の像。素木の薬師如来像の制作は弘仁・貞観時代の主流であった。

右手は施無畏印、左手は与願印。施無畏印は衆生の恐れ、苦しみを取り除き、与願印は庶民のどんな望みでも叶えてもらえる印相であり、釈迦如来、阿弥陀如来像ともに使われた。そこで、見分けがつきやすいように平安時代から薬師如来像は薬壷を持つようになる。分厚い唇、太い頸、がっちりとした豊かな胸、太い腕、量感あふれる堂々たる体躯、白毫が無く、飛鳥時代と弘仁・貞観時代の一部に見られる。また目が大きく見開き、右手の掌が右に傾いているのもいている。他にはない珍しい薬師如来像である。

須弥壇の中央に本尊を祀り、それを囲繞するように我が国最大にして最古の十二神将像が安置されている。天平時代の作。十二神将は薬師如来を守護する眷属で、外側に向かって立ち、薬師如来を仏敵から守っている。像高は1.54から1.70センチで、等身大の十二神将像は新薬師寺像が最後でこれ以後は小振りの十二神将像となる。塑像造り。粘土で作られ、脆いうえ重量がある。写実主義の天平時代では多く作られたが、平安時代は木彫像が主となる。

十二神将とは伐折羅(ばさら)・阿儞羅(あにら)・波夷羅(はいら)・毘羯羅(びぎゃら)・摩虎羅(まこら)・宮毘羅(くびら)・招杜羅(しょうとら)・真達羅(しんたら)・珊底羅(さんてら)・迷企羅(めいきら)・安底羅(あんてら)・因達羅(いんだら)神将(大将)です。波夷羅像は補作であるので、波夷羅像以外の十一体の神将像が国宝。十二神将は干支の守り神でもある。同一のポーズがなく、衣装も変化があり、すべて各々の特徴を備え、かつ彩色文様を残している。特に、伐折羅大将は人気度が高く、奈良の観光ポスターや郵便切手にも採用された。

なお、境内にある鐘楼堂は、鎌倉時代、弘安二年の建立で、珍しい袴腰が設えられ、梵鐘は天平時代の貴重な重要文化財。日本霊異記に出てくる鬼退治で有名な釣鐘。地蔵堂は、方一間の仏堂で、鎌倉時代を代表する小さな仏堂建築物。十一面観音像が安置されている。また香薬師堂は今回特別開帳されており、飛鳥時代作旧国宝香薬師如来のレプリカを拝観できる。白鳳時代の代表作として名高い実物は三度の盗難に遭い現在も行方知らず。

また、地蔵堂の南側には五重塔があり、東大寺二月堂のお水取りを創始された実忠和上塔として知られる。もとは十三重だったが、倒壊したりして現状のようになった。下二段が創建時のもの。また、寺宝として、天平時代の法華経八巻が、本尊薬師如来像の胎内から発見され、国宝となっている。オコト点という送りがなのある珍しい経典。
  
今は萩の寺としても知られ、こじんまりと佇む静寂さ漂う寺院となっている。ゆっくりと拝観したい。

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般若心経からのメッセージ 2

2010年10月20日 11時46分56秒 | 仏教に関する様々なお話
とらわれていることに気付くべし

つづいて、「舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ちこれ空にして、空は即ちこれ色なり」とある。舎利子とは、実在の人物サーリプッタ長老のこと。お釈迦様のおられるところでも代わって弟子たちに教えを説いたほどの智慧第一のお方である。

「色」とは、瞑想時には身体のことであり、外にある物すべてをも指す。「空」とは前回述べたように、何もかもが原因とある条件の下に、他の助けをもって存在している不確かなものだということ。二度繰り返し、「色」と「空」が全く一つであることを述べている。この部分の表現法はインド語で良く用いられる強調表現に過ぎないというから取り立てて解釈を述べない。

ところで、誰しも我が家はいつ帰ってもそこにあると思っている。塀を隔て我が家の庭をきれいに飾る。勿論悪いことではないが、阪神大震災や最近では新潟中越地震でも、建物や道路でさえ、もろくも壊れてしまうものだということを目の当たりにした。何でも新品であっても、一日一日、一刻一刻傷つき壊れつつあると言った方が正しいのかもしれない。

私たちの身体にしてもそうである。風呂に入ってきれいになったと思ってもすぐ汗をかいたり、怪我をしてみたり。運動やスポーツに親しみその体力を誇ってみても、やがてその衰えを誰しもが感じる。そうした形あるものに対する、こだわり、とらわれ、慢心を抱く私たちに対して、そんなものは「空」なんだよ、そんなものにかかずらって妄想している自分に気付きなさいと、ここでは言われているようである。
 
思いもまた空なり

次に「受想行識もまたかくのごとし」とある。五蘊は、五つの集まりという意味で、その内容は色受想行識となる。色は既に述べた。残りの四つは、「色」が身体や物として形あるものを指すのに対し、心の働きを指す。「受」は感覚、「想」は知覚、「行」は反応、「識」は識別を意味する。

目を閉じ瞑想するとき、身体のどこかに蚊のようなものがとまったとしよう。普通私たちはそれを一瞬のうちに蚊だと判断して手が動く。それを細かくこの受想行識の働きに分けて見ていくと、「受」は皮膚の感覚としてそれを捉え、「想」は何かが触れたとを知覚し、「識」はそれが蚊ではないかと識別し、「行」は蚊をはらおうと反応する。たとえそれが蚊でなかったとしても。

何でも私たちがとらわれを起こす過程をこうして分析して細かく観察することをお釈迦様は教えられた。無意識にしていることでも、これら四種の心の動きをともなう。そしてそれらも「空」であると。 こうした四種の心によって生じるところの私たちの思いも、考えも、こうあるべきものという思いこみも、みな「空」だということ。そんなものに、いつまでもかかずらっているなということか。

心の重荷を脱せよ

そして、「舎利子よ、この諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり」と続く。仏教で「法」というと、様々な意味に用いるが、主に「法則・規範」という意味と、仏法と言うように「教え・教理」という意味合い、それから、法によって支えられた一般に存在する「もの」を意味する。

この場合の「諸法」とは、この三つの中では二つ目の教理に当たる。具体的には、心経のこの前の部分で考察してきた五蘊と、この後「無・無・」と否定していく内容を指している。静かに目を閉じて瞑想する中で現れてくるもの、心の働きなどを意味する。

五蘊について考えてみると、前回述べたように、心がとらわれを起こす過程を説明する、色・受・想・行・識のそれぞれについてよく観察し、よく知らねばならない。普段私たちは、無意識のうちに何かを見て心喜ばし、その移り変わりに困惑し、とらわれ、心縛られて、苦しみ悩むことになる。

目を閉じ静かに瞑想し、ものや心のありさまをよく観察し、何事もそれ自身だけで存在するものなどないとさとるならば、とらわれを起こす五蘊のそれぞれについて生滅・垢浄・増減が無いことが知られる。地位があるとか無いとか、偉いとかつまらぬとか、きれいだとか汚いとか、所得が多いとか少ないとか、そんなことどもが、とにかく大いに気になるのが私たちの常である。そうして世間の尺度でものを考えるが故に、心を汚し、周りの人たちをも巻き込んでしまう。

たかが七、八十年。この日本の狭い地域で生きるだけの、ちっぽけな私たちであることを思えば、すべてが取るに足りないことだと分かる。地球は四十六億年。人類が誕生して一五〇万年。絶え間ない変化のお陰で進化を続け今がある。そして、そのすべてが一瞬の出来事の積み重ねに過ぎない。

古い経典に、
「五蘊は重き荷物にして、
 これを担うものは人である
 重きを担うは苦しくして、
 これを捨つれば安楽なり
 すでに重荷を捨てたらば、
 さらに重荷を取るなかれ
 かの渇愛を滅すれば、
 欲なく自由となりぬべし」
とある。

つまりここでは、すべては空なのだから、好き好んでかついでいる心の重荷を捨ててしまえ。そうすれば、何にも動じない清々した心になれると教えている。

外からの刺激にとらわれるな

次に「この故に空の中には、色無く、受想行識無く、眼耳鼻舌身意無く、色声香味触法無く、眼界無く、ないし意識界無く」とある。この故にとは、つまり正に、この空を悟ったからにはということで、色受想行識の五蘊は既に心に生じ、とらわれを起こすことはもはや無いということ。

このあとの「眼耳鼻舌身意」とは、外界から私たちが五感などとして刺激を受け入れる感覚器官のこと。六つ目の「意」は心。心の中に思いが生じる際の受け皿となる心の作用とでも言えようか。これらを仏教用語で六根という。そして、「色声香味触法」とはそれらの感覚器官がそれぞれ取り入れる対象のことで、「色」とは形あるもの、「声」は音、「香」は匂いあるもの、「味」は舌で味わうもの、「触」は肌に触れるもの、ここでの「法」は心に浮かぶ考えや思い。これらを六境といい、六根と六境をあわせて十二処という。

そして感覚器官である「眼耳鼻舌身意」がその対象である「色声香味触法」をそれぞれとらえる心、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を六識といい、対象が感覚器官に捉えられてきちんとそれを認識する心のこと。

六根六境六識をあわせて十八界といい、それぞれのうしろに界をつける。この後半部分の「眼界無く、ないし意識界無く」とは、その十八界すべても空を悟ってしまえば、それらによって心とらわれ悩み苦しむことも無いということ。

この十二処十八界は、私たちが常日頃無意識にしていることによって、とらわれを起こし悩み苦しんでいる様子を説明するためにお釈迦様が用いられたもの。この十二処十八界によって知られる世界によって私たちが認識する全てなのだともお釈迦様は言われている。

きれいなものを見たい、心地よい音楽を聴きたい、いい香りを嗅ぎたい、美味しいものを食べたい、肌触りのよいものを身につけたい、心楽しいことを考えていたい。誰でもがそう思っているし自然なことだと言える。

しかしながら、正に、そういう思いによって、心とらわれ、その思いが叶うときには欲の心が生じ、叶わないときには怒りの心が生じる。愚かしい限りだが、それが私たち人間のもって生まれた心の習慣なのだという。そうして、幻想の中で、怒ったり、笑ったり、魅せられたり。それらの刺激に反応して私たちは暮らしている。その連続が私たちの一生なのだとお釈迦様は言うのである。

そして、その私たちの日常為していることを六つの感覚器官とその対象とを分けて、そこに介在する心によってそれが引き起こされている様子を自ら観察しなさいと教えられた。「眼」という感覚器官や「色」というその対象となるものは、無常なるものであり、苦である。そのようなものが、私であろうか、私のものであろうか、私自身であろうかと問いつつ、如実に知るとき、それら感覚器官もその対象もそこにある心をも厭い離れ、貪りを離れ解脱すると言われた。

ここでは、十二処十八界として説明される、刺激に翻弄される私たちの習性を、本来私たちの習いとすべき事ではないと教えてくれている。・・・・つづく



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般若心経からのメッセージ 1

2010年10月18日 17時25分33秒 | 仏教に関する様々なお話
般若心経は、私たちに何を語りかけようとしているのか。お釈迦様が亡くなり四〇〇年も経って心経は著された。その後インドは勿論のこと伝えられた国々で多くの解説者によって様々に解釈されてきた。

しかし、心経が作られた当時、はたしてどのような意図をもってこの絶妙なる経が生み出されたのか。心経が誕生した正にその時代の人々の仏教理解から出発して経文を解釈すべきではないか。そう考え、浅学の身ながら私なりに解説した一文、「般若心経私見」が既にある。

そこで、ここでは単に心経が現代に生きる私たちに投げかけているメッセージを一語一語から読み取っていきたいと思う。

仏教は私たちの生活の中に生きている

経題は、「摩訶般若波羅蜜多心経」という。「摩訶」とはインドの言葉でマハーの音訳。「まか不思議」の摩訶であり、日本語にもなっている。辞書には大きなこと優れたことを言うとある。

これと同じように日本語にもなっている仏教語は数多い。地獄を意味する奈落、娑婆、摩尼など。漢訳の仏教語にいたっては、縁起、方便、有頂天、退屈、自愛と枚挙にいとまがない。

仏教は誰かが死んだときだけのものではない。私たちの生活の中に既に入り込みそれと分からないうちに私たちの物の見方考え方のバックボーンになっていることを教えてくれている。 

分別を断ちきる智慧を身につけるべし

次の「般若」も同様で、パンニャの音訳語。般若の面などと言うが、面打ち般若房がはじめた悲しみと怒りの両面を表現した角のある能面の名前となって使われるようになった。般若ずらなどと使われ、嫉妬心をたたえた女の顔を喩えて言うとある。

ところで、一般に、分別は一人前の人間として身につけるべき思慮判断と思われがちだが、仏教の世界ではこの分別があるから大小、美醜、優劣、善悪を取り違えたり、他と比較しより良くありたい、思われたいという欲の心が生じると考える。この分別を断ちきる智慧こそ智慧の代表者ともいえる文殊菩薩の智慧。すぐ他人が秀でていたり得をすれば嫉妬していると般若のような面になってしまうよ、ということか。

めざすは究極のさとり

「波羅蜜多」とはパーラミター。パーラとは向こう岸、彼岸とも訳す。春秋の彼岸会もこの言葉から生まれている。彼岸の中日には真東から日が昇り真西に沈む。日の沈む方角に向かい西方浄土におられる阿弥陀さまに手を合わせ、極楽へ迎えてくれることを願ったのが始まりか。

パーラミターとなると彼岸に到達せることを言う。彼岸とはこちらの娑婆世界に対してあちらの世界。ただし死んで身体の束縛が無くなれば簡単に行けるというわけではない。仏教で言うあちらとはさとりの世界。極楽浄土はほんの一里塚に過ぎないことを肝に銘じておくべきか。

陀羅尼なり

そして「心経」とは心臓そのものを指す。なぜならばインドの原典には経の文字は見あたらず、本来の題名は般若波羅蜜多心までというのが今日の仏教学の常識となっている。それは心髄であり神髄のこと。心は心髄万境転と言うが如く様々な境遇で転変する。その心を智慧によって手なずけ彼岸に導く奥義そのものということか。

弘法大師の『般若心経秘鍵』には、心経とは「諸経を含藏せる陀羅尼なり」とある。陀羅尼とは誦すれば諸々の障害を除いて種々の功徳を受ける秘密呪のこと。だからこそ心経は多くの人々に愛され読誦され続けているのかもしれない。

菩薩は私たちとともにある

ここから経文にはいる。はじめに「観自在菩薩」とある。普通お経のはじまりには如是我聞と有り、「かくの如く我聞く」として、かつて釈迦入滅後の雨期に五百人の阿羅漢(完全に悟った人)が集まり、経と律の結集を行ったことに因み、経を誦出したアーナンダ長老の言葉として如是我聞をお経の出だしとしている。

また続いて経を聞いた場所や説き手、聞き手などを特定するのだが、心経ではそれらが省略されている。そしてこの経の説き手として唐突に観自在菩薩が登場している。観自在菩薩と観世音菩薩は単に訳し方の違いに過ぎない。因みに観世音と訳したのはクマーラジーヴァという西域出身の有名な訳僧で、観自在と訳したのは西遊記でおなじみの玄奘三蔵。いずれにしてもこの二つの訳のお陰で、この菩薩の性格がより良く知れることになった。

世の中の音、つまり様子有様を観察することが自在にお出来になるお方だということ。観察できるということはそれらの現場におられるのと同じことになる。もっと簡単に言えば、すべての者たちと共にあり、理解し助けて下さるということになる。どんな境遇にある人にでもその人を理解し救済する人、観音様のような人が必ずいるものだということか。

いまに生きよ

そして「深く般若波羅蜜多を行ぜしとき」と続く。「般若」とは前回述べたように分別を乗り越えた智慧のこと。「般若波羅蜜多」で智慧の完成の意。全体では、智慧の完成という行を深く修したとき、ということになる。ところで、説き手である観音様の「観」とは仏教では智慧の修行を指す。観は、仏教の瞑想である止観の観のこと。

今をそのままに分別解釈無しにつぶさに見ること。ふつう解釈とは過去の自分の記憶からあれこれ分析し判断することであるが、その解釈無しに、今の自分に意識を据えるのが観ということになる。過去の出来事に心を動揺させ、これから起こることに心躍らせたり憂いることなく今だけに生きることの大切さを教えている。

みんないずれは消えて無くなるものと観念すべし

そしてその時、「五蘊が皆空であると照見して一切の苦厄を度した」という。五蘊とは、五つの集まりとの意で、色・受・想・行・識という私を取り巻く物と心の世界を指す。それは、目を閉じて静かに座るとき、体と心のうごきとして現れる。

空とは、お釈迦様の言われた無我ということ。すべてのものが因と縁によって起こり移り変わる。何ごとも他の助けにより一時的に成り立っている、確かな私と言えるようなものは何もないということ。私たち一人一人もこの地球環境の中で、様々な人たちものたちの助けのもとに存在している。今の思いもこれまでの沢山の過去の織りなした一時の感情に過ぎない。

苦しみとは、思い通りにならない心の葛藤。すべてのものは移ろい変わりやすいものだから。なにごとも、これでいい、完璧と思っていても、気が付くと満足いかないことばかり。心落ち着けようと静かに座っても、心は様々に妄想し、考え、わずらうもの。けっして思い通りになどならない。

身体も何も問題ないと思っていても、かぜをひいたり、足腰を痛めたり。新しい品物もすべてその日から痛みが出て、いずれ失われる。私、私のものと言えるものではない。物も心もみな移ろいゆく不確かなものだと知るならば、どんな苦しみも私のものではないしいずれ流れ去っていってしまうと知られる。思い煩うことの多い私たちではあるけれども、それもこれもみんな、いっときのものだということか。


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やさしい理趣経の話6常用経典の仏教私釈

2010年10月17日 07時19分47秒 | やさしい理趣経の話
第四段の概説

「ふぁあきゃあふぁんとくしーせいせいせいはっせいじょらい・・・」と第四段が始まる。ここに「得自性清浄法性如来」とあるのは、教主大日如来が、この世の中を自在に観察し、すべての物事の本質はみな清らかなものだと照らし観る如来に転じた姿。つまりこの世を自在にご覧になる観自在菩薩と同体とされる阿弥陀如来となって登場する。

第二段で、完全なる覚りを四つの平等な覚りの智慧に展開したが、第四段では、その中の③清らかな目で世の中を観る智慧とはいかなるものかを開示している。

第三段では、貪瞋痴の三毒に関して、小さな自分という、とらわれた分別からの開放を説いた。それによってこの現実世界が広大なる清浄世界であると知られる(大円鏡智(だいえんきょうち))と、自(おの)ずからものの見方も清浄になる。

そこで、この第四段では、「一切法平等観の自在の智印が出生する」とあるように、どんなものも、それぞれに異なり、その違いを如実に観察する。すると、各々に尊く等しく価値あるものと見出される。このように、阿弥陀如来の眼差しで、あらゆるものが悉く等しく清らかな価値あるものと観察する智慧(妙観察智(みょうかんざっち))を、ここに明らかにしようというのである。

たとえば、ただやっかいなものと思いがちな落ち葉も朽ちて土壌となり、動物の排泄物も肥やしとなって作物を生長させる。私たちの心に霧が掛かっているかのように存在する欲や怒りや愚かしい思いも、自分というとらわれた思いがなくなれば、すべてのものを利する智慧となって輝き出す。

まるで波打つ湖面が静まると湖底まできれいに見通せるように、すべてのものにそのものの本来の価値を見出すならば、みなそれぞれが平等に清らかに光り輝いていることが分かる、その清浄なる見方でものを観る教えをここに説くと、簡潔にこの段の趣旨を説明している。

ものの見方を清浄にする

そして、「そーいーせーかんいっせいよくせいせいこー」と教えが展開されていく。はじめに、いわゆる世間のすべての欲が本来清らかなものであると言う。清らかというのは、既に何度か述べているとおり、自他の対立を越えたものであるということ。意識的に自分と他の境をなくしていくと、波のない湖底を見通せるようにそのものの本質が顕現する。

人々の心を汚し、不幸に陥れ、争いの原因ともなるような欲や怒りの心も、その心が生じたとき、一瞬にしてその心に気づき、全体として一つなのだという清らかな心で捉え直していくならば、どんなに醜いと思われる欲の心も、純粋な心のエネルギーとして、命を育み向上させていく力として存在している。

ダライラマ法王は日本人社会学者上田紀行氏との対談(『ダライ・ラマとの対話』講談社文庫)の中で、偏見に基づいた欲望はなくすべきだが、利他の心、覚りを求める心など価値ある良き欲望は滅すべきではないと述べられている。自分のための、偏見に基づいた欲の心を利他や覚りを求める欲へと転換させることで、良い欲の心として生かされていく。

またダライラマ法王は、怒りについても、愛情や慈悲の心が存在していて怒りが生まれる場合は相手を害するような悪い動機はなく、社会の不正を正していこうというような有益な怒りであるとも述べられている。

欲の心がすべてのものを向上させる、全体が良くあることを願う利他の力となるならば、そのような欲の心が満たされずに発する怒りの心は、世の中の不公平な不正な状態に対する怒りとなり、怒りの心もすべてのものが良くあるようにと働きかける力となるであろう。

そのような自他の区別をつけないで欲や怒りの心を捉えてみると、それら煩悩にとらわれ愚かしく頑な心も、それによって引き起こされる様々な罪業も、無始なる輪廻世界での行為と捉えるならば、本来はそれぞれに純粋な心に導かれるべき行いと捉えることが出来る。

だから、すべてのものも、生きとし生けるものも、純粋なる心に向かいつつある、清らかな存在である。そうした清らかな存在である人々のすべての知識も、また覚りの智慧も、一切衆生を清らかな世界に導く教えとなり、すべての心も存在も清浄なるものだというのである。

第四段の功徳

次に、この教えを聞く菩薩衆を代表する金剛手菩薩に呼びかけ、この第四段の功徳が説かれる。

「貪る人々の中にありて、貪なく、いと楽しく生きん。貪る人々の間にありて、貪なく暮らさん」(法句経一九九)と、お釈迦様は教えられているが、ここでは、ものの見方を清浄にするならば、そのような世間にあっても完全なる覚りを証得すると説く。

つまり、その教えを聞き、それを信じ、その智慧を体得すべく努力するならば、たとえ世間の中にあって、欲にまとわれ怒りや愚痴の心が生じたとしても、蓮華が泥の中にあってその周りの泥にけがされること無く清らかな花を咲かせるように、それら諸悪に染まることなく、すみやかに、無上なる正しい覚りに至ることが出来るというのである。

観自在菩薩の心真言

そして最後に、改めて、世尊大日如来が阿弥陀如来から娑婆世界での姿である観自在菩薩に変化(へんげ)せられて、この世の中のあらわれをすべて清らかなものと照らし観る瞑想に入られる。

そして、その教えを自らの姿に明らかに示そうとして、その法悦を顔面に顕(あらわ)して微笑し、左の手に蓮華を持ち、右の手をもってそれを開かせようとの勢いをなす。

一切の衆生の様々な異なる姿そのものに各々の価値を観察し、煩悩の中にあっても汚染されることなく、みな清らかなものであるとの心を説き示し、その心髄を表す一字真言「キリーク」を唱えた。


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