住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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幅広く仏教について考える

保坂俊司先生に学ぶ『日本人と仏教』-仏教復活論-

2013年07月17日 10時20分32秒 | 仏教に関する様々なお話
平成25年7月10日、広島県密教青年連合会主催の研修会において、中央大学総合政策学部教授保坂俊司先生の「日本人と仏教-仏教復活論」と題するご講演に際し、当日参加し筆記した速記録であります。聞き漏らした部分もあり、十分に先生の意図を酌み取れなかったところもあることと思いますが、それを踏まえお読み下さい。
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『日本人と仏教』-仏教復活論-

仏教を日本社会でどう語るべきかを今日はお話ししたいと思う。日本は宗教に対してナーバスというか、無関心、必要悪程度にしか捉えていない人が多い。しかし、本来宗教とは、人間にとって必要不可欠のものである。そのため社会的に不安定な社会となり、また自殺者が高止まりしている。まず、宗教という言葉がどう造られたのか、その意味するところを押さえておくことは大切なこと。辞書は後追いであって、その言葉の本質や人々にとってどのような影響を与えてきたものかは読んでも分からない。

社会の矛盾に気づき、固定観念に疑問を持つことが大切である。仏教という言葉は今一般的なものだが、この言葉自体近代になってから造られた言葉で、本来仏法、仏道と言った。仏法が仏教と言われるようになった頃、宗教という言葉も造られた言葉なのである。

次に、文明と文化がどう違うのか、仏教を一つの文明として捉えてみたときどうなるか、そのように捉えないと仏教の大枠が理解できない。仏教はインドでは失われてしまったかの感が強いが、東や南に移り、今も世界に大きな人口を抱える。その世界の仏教と捉えたときに仏教の本質を一つの文明として理解できる。日本でも仏教は人々の心や精神に深い影響を与えてきた、そのことを見直してみたい。

日本の文化史の中で忘れられたものに天皇と仏教の関係がある。特に北朝の初代天皇である光厳天皇の生き方の中に仏教的な政治、哲学、思想を読み取り、仏教の政治的な視点を指摘して現代への指針を提示したい。

仏教は宗教か

宗教という言葉は、もと禅の語録に登場する言葉であり、中国の荘子の中にも用語としてあるというが意味が違う。故中村元先生が学士院紀要の中に、「宗教の言葉の歴史」という論文を書かれている。そこには宗教という言葉は元々インドの言葉であって、宗とは、シッダーンタ(理論、原則、教条)、サーラ(本質、精髄、要約)、教とはダルシャン(哲学、哲学的体系)というサンスクリットの言葉である。それらを合わせた言葉であり、それを中国で宗教と翻訳したのである。それらの意味するところは、宗とは本来、「言葉にならない真理」を表し、教とは、「言葉に表すこと」をいう。つまり、宗教とは、本来「言葉にならない真理を言語化し表現したもの」を言う。

インドでは、修行によるさとりを言葉にできないものと考える。時間と空間を超越したものに普遍性は乏しく、それを言語化して表現することは難しいと考えるのである。だからお釈迦様はおさとりのあと法を説くことを逡巡なさるのである。しかしそこにインドの最高神梵天が現れ、いわゆる梵天勧請によって、仏教が生まれるのではあるが、お釈迦様はさとりそのものを説くことはなく、さとりに至る道を説いたのである。

それから宗教という言葉は、中国で、「宗の教え」と使われ、日本に至り宗教という言葉になるが、例えば、浄土の宗教、真言の宗教というように各宗派の教えを指した。そして、江戸後期にキリスト教が流入すると、バテレンたちは彼らの教えを宗旨という言葉で表現した。明治時代には、リリジオ、リリジョンという言葉がもたらされ、それを宗教と言ったが、その時点で宗教という言葉は、リリジオの意味するものを共有することとなる。それは、教祖があり、教義があり、儀礼と聖典を有する、神聖なるものに対する営みを意味した。

江戸時代は仏教が国教だったが、明治時代は神道原理主義国家であったと言えよう。そのため幕府の体制を壊す意味からもその体制を支えていた仏教が標的となった。新政府は神道の祭祀を握り、天皇を現人神とすることによって、神道による国造りを図った。

しかしヨーロッパ諸国から信教の自由を要求されてキリスト教が流入すると、神道では太刀打ちできず、仏僧を交えた大教院なるものをつくった。これは、敬神愛国の旨を体すべき事、天理人道を明らかにすべき事、皇上を奉戴し朝旨を遵守すべき事を内容とする「三条の教則」を講説し、キリスト教を民衆が信仰しないための教化策であった。

この名にあらわれるように神道はその頃、「大教」と言った。それから「徳教」と言われ、その後「神道」と言われるに至った。そして、それにより、仏教はもともと「仏道」「仏法」と言っていたが、神道と区別する意味で「仏教」と名を改めさせたのである。そして、明治政府は、教祖もなく、聖典もない神道を宗教の中に入れず、神道とは、祖先を敬い、道徳を説くものであり、迷信なく、合理的な教えである、だから宗教ではないとした。

一方、宗教とは、神道以外のもの、仏教、キリスト教、イスラム教、道教などであり、それらは、迷信にまみれた信用のできない教えであり、劣った人々の信仰体系であると規定した。女子、小人、幼児が母親にすがり頼るようなもので、普通の平均以上の人々は、特に精神的にまた社会的な地位のある人は神道さえ敬っておればよい、宗教などは劣った人間、弱い人間のすがるものに過ぎないと概念化したのである。これは明治から戦後まで続き、今日でもそのような考えに影響されている人々は多いであろう。

しかし、後にキリスト教が都市部を中心に浸透していくと、政治経済に関わらないように仏教に葬式だけを認可していく。こうした言葉の置き換えやその言葉の持つイメージに影響されて、日本では今日でも、宗教とはあまりよくないものとして、マイナスのイメージがあり、それは明治のこうしたイデオロギーが抜け切れていないのである。例えば、イスラムというと、今日では過激な暴力的なイメージが付着し、イスラム圏の発展を見落とす傾向がある。逆にルネッサンスの絵画などに対しては宗教抜きで見て賞賛したりする傾向にある。

私たち日本人は、ますます宗教オンチになり、世界の情勢を見誤る、ないし世界的な物の見方に付いていけない日本だけが、世界の中のガラパゴス化をまねいてもいる。日本人は、仏教のすばらしさ、宗教のすばらしさを再認識すべきではないか。世界レベルの知性を獲得するためには宗教的な素養は不可欠であり、私たちにとって最も身近な仏教についてその認識を新たにすることは必然のことと言えよう。

宗教としての仏教の文明論的解釈

文化とは元号だった言葉ではあるが、今日のように使われ出すのは新しく、大正時代に普及した。文化住宅、文化包丁、文化鍋と言われるように一段階上のものという意味である。英語のカルチャーに置き換えられるが、カルチャーcultureとは、教養、修練、心を耕すことを言う。また文明とは、これも元号だった言葉で、福澤諭吉が文明開化と言ったのではあるが、これは英語のシビリゼーションcivilizationに置き換えられ、こちらは、都市化する、都市のような生活をすることを意味する。

カルチャーもシビリゼーションも、実は18、19世紀に出来る近代の言葉で、文明は物質的なもの、政治や制度を言うのであり、文化は精神的な部分のことであり、文明の中に文化を含むのである。文化は各地域の特質であり、それらを含め大きな枠組みを文明という。

学問的に近代のヨーロッパ人は、文明とは、人々の生活は自然とは別に、まず生物として不可欠なシステムがまずあり、その上に様々な生産したり生活したりする技術、科学的なシステムが起こり、その上に経済流通のシステムが起こり、社会的な連帯として政治のシステムが必要となって文明が築かれていくと考えた。

これは狭義の文明であり、その上に宗教を含めた文化があって、これを広義の文明とした。そこには、宗教とは文化の一部であり、内面の問題なのだとして、人々の生活に関わらないものとすることで、カトリック・プロテスタントという宗派の争いを避ける意味があった。神は一つ、正しい価値も一つとの思いがあるから一神教は争い、決着がつかないと戦いとなる。宗教は個人の内面の問題であり、特定の文化としなければならない理由があったのである。

しかし、本来宗教は社会の全般に関わるものであって、矮小化することは出来ない。政治にも経済にも不可欠なものである。なぜなら、宗教は社会そのものであり、その社会は政治経済文化と切り離すことが出来ないからであり、政治がどうあるべきかと考えない宗教はない。明治時代は新しい社会を創造するに当たって、だからこそ宗教の中に含めない神道を旗印にせざるを得なかったところがある。

技術や科学も宗教と不可分である。例えば、イスラム教の教えに従った経済のシステムが彼らにはある。利息のないイスラム銀行があり、イスラムの宗教理念に則った経営が成されている。酒類の製造や武器の製造には投資しないという彼らイスラム銀行は世界的に今注目されている。日本も本来仏教があり、仏教には政治、経済の思想がある。近代になり入ってきたキリスト教のシステムがあたりまえと私たちは思っているが、日本文化とは相容れないものがあることに私たちは気づいていないのである。

近代化の日本の自己認識の超歴史性の罠

日本に仏教を定着させた功労者は聖徳太子と言われるが、天皇で最初に仏教徒になったのは用明天皇で、「仏法を信け、神道を尊びたまう」と日本書紀にある。なぜ伏せられているかと言えば、天皇は神道の祭祀者であるということと仏教と政治を結びつけたくなかったからであろう。

聖徳太子は、「仏法は万国の極宗」と十七条憲法第二条の中で謳われたが、これは当時の国際社会のグローバルスタンダードとして受け入れ、仏教を政治的に利用したのである。これは神道とも矛盾せず、はじめから仏教は神仏習合して受け入れられたのである。

また北朝第一代の光厳帝は、「地獄を二度も見た天皇 光厳院」(吉川弘文館)という本にもあるように、その時代南朝にも北朝にも翻弄されつつも、第一に民衆のためを思い身を引き一修行者として隠遁する姿勢に、仏教徒としての為政者のあり方が現れており、日本的な皇帝としてその政治思想が高く評価されるべき天皇と言える。

ところで、日本人は歴史認識の薄い国民で、自分たちの歴史文化を認識していない。だから、例えば、たかだか150年ほど前の明治時代に興った仏教に対する一方的な弾圧である廃仏毀釈について、聞き伝え記憶する人や記録を残している地方はない。明治初年の神仏分離令に端を発する廃仏は、それから10年ほどの間全国で展開するが、寺を倒し、文化財に評される仏像、経巻、仏具なども捨てられ焼かれ、僧侶は還俗させられた。46万ないし26万あったとされる寺院は現在7万となっている。

このことは正に日本人の宗教観を歪んだものにしたばかりでなく、その後戦後まで仏教精神を捨てた為政者たちは疑似朱子学に基ずく神道の好戦的文化によって、どれだけ他国と戦争し人々を死に至らしめたかを考えるべきであろう。

現在、憲法改正との議論も盛んではあるが、仏教を重視するならば、戦争を回避しながら平和に至る道がある。確かにアメリカの押しつけた憲法かも知れないが、そこには戦争を放棄するとの平和思想があり、そこに日本人が培ってきた仏教による平和な世界を大切にしたいという心の琴線に触れるものがあった。だからこそ誰もが今日まで大切にしてきたのであろう。仏教的に憲法九条を評価してもよいのではないかと考える。

アメリカはここに来て、日本を上手に利用せんがために九条は邪魔だと考え、国粋主義者たちの論法を使って、改正せんことを目論んでいるのかもしれない。しかし争うことから憎しみが生まれ、恐怖する。仏教の深いものの理解を政治的に復活させることが根本的枠組みを中心で支える大きな世界観、哲学となる。その枠組みで物事を捉え理解する中で、自信をもっていかにあるべきかを説くこともできよう。

今の日本は、外車に乗り、海外旅行する人たちが、親の葬式代が高いと文句を言う時代となった。精神的なもの、文化的なものに心が向かわず、低い文化を模倣し、金満家を賞賛するような類の人々を生む時代となった。日本社会自体がギクシャクし歪められている。

仏教の復活は可能か

そもそも仏教は、お釈迦様が説法することを決意するところから始まるのだが、貪りと怒りに焼かれる人々にはさとりを得ることは容易ではないと、成道まもなくの頃は考えられていた。が、そこに梵天が現れ、この世には眼を塵に覆わるること少なき人々もある、そのような者たちも法を聞くことなければ堕ちていくであろう、とお釈迦様に説法することを懇願したという。そこでお釈迦様は教えを説かれるのだが、それはインドの神と仏との邂逅によって、それらの習合によって、仏教が誕生したということなのである。

正にインドでの神仏習合であり、仏教の本質を表しているとも言える。その教えが世界に伝播していくのであり、そもそも仏教はとても平和的、実り豊かな宗教であり、他と融合していく世界観を弘めることに繋がっている。法を説くことを決断されたことによって、一般の人たちが理想に近づく道に踏み出されたのだと考えられる。これは梵天勧請の社会科学的な意味である。

具体的に思想が表現する社会を実現するために社会との接点をもち、社会を変える道に向かったのである。さとりが意識的に言語化され、社会的に意味を持ったということなのである。そのために教団を必要とし、一人でも多くの人に自らの理想を実現させることを考え、努力する教えが仏教なのであると言えよう。

お釈迦様も一国の皇子として元々国家、社会、人々のことを考える基盤があり、他者のための幸せをいかに実現するかを思い説法された。その理想をインドの地で具体化した人こそマウリア王朝のアショカ王であった。当時の政治、王権とは、合法的な盗賊であり、アショカ王と同時代の秦の始皇帝は、王とは民衆に奉仕させるものと考えた。世界の富は自分のためにあるとして自らの死のために兵馬俑を造るなど莫大な富を注いで、最後は死を怖れ狂い死にしたとされる。

それに対しアショカ王は、仏教に帰依して、王が偉いのではなく、仏教的な意味で人々を幸福にした者が偉いのだと考えた。正しい行いによって自らの欲のためでなく人を蹴落とすことなく他者を助けながら豊かになる道を選択した。アショカ王は自らの称号として、人々に愛される王、柔和な王、人々に奉仕する王という称号を多用されたという。

軍隊を小さくして、動物を愛護し、道路を造り、街道に4キロごとに駅舎(休息所)を作り、井戸を掘った。街道にはマンゴの木などを植え、薬草を植えた。民衆のために国力を使い、あらゆる事は民衆のためにと考え、民衆に奉仕し、教団に寄附した。死んだときには子孫に相続する物はなにもなかったと言われ、自分のことは後にして他のため、民衆のために政治を行った。今日多くの業績は消えてしまっているが、石柱や仏塔、また街道に植えたマンゴの木の実を売って資金にするといった習慣は残っている。

こうしたアショカ王の政治こそ仏教国の政治モデルと言ってもさし支えないだろう。すべての人の価値を認めて、最高の者が身を低くして奉仕する、寛容、柔和な政治こそ仏教の政治思想のキーワードと言えよう。

では大乗仏教とは何か。世界の四大文明のあとに第二の文明圏がいくつか登場する。例えば、エジプトとメソポタミヤの文明が融合してギリシャ文明が誕生するように、インダスとメソポタミヤが融合して、インド・ガンダーラに新たな文明が誕生する。その時、ハイブリッドな、超普遍的な文明が誕生するのだが、それに際して重要な思想を提供したのが、仏教、ないし、大乗仏教だったのである。

紀元後1世紀から3世紀の間インドから中央アジアまでを統治したクシャーン王朝は、異国の王として仏教に帰依して、民衆重視とまではいかないが、穏やかな統治を行った。言論、信教の自由を保障して、非暴力主義を貫いた。カニシカ王の時、仏教国だったパータリプトラを征服するが、そのとき、民衆の苦難を回避するために降伏することを決断し平和交渉したパータリプトラ王は、仏舎利と仏教詩人と言われる仏僧馬鳴(めみょう・アシュワゴーシュ)をカニシカ王に差し出したという。その馬鳴がゾロアスター教の信奉者だったカニシカ王を教化して、王は帰仏し仏教を保護したのであった。

この時代に仏教は普遍化し、多くの高僧が出て大乗経典が編纂され、ガンダーラのギリシャの影響を受けた仏教美術が栄えた。平和によって、商業が盛んとなり、シルクロードが発展した。仏教が栄え、特に大乗仏教がこの時代に興隆して、インドのヴェーダに対抗するものとしてではなく、より普遍的な世界宗教として、民族性、男女、老若の差別なく、等しく幸せを感じられる理想を説き、インド的な枠を越えて発展していく。仏教はペルシャの東側パルティアにまで広まり、東は中国、朝鮮、日本に至る。キリスト教など他の宗教が暴力によって勢力を拡大したのと大きく異なり、仏教は平和裡に広まっていった。

仏教は、暴力に対し、非暴力だからとただ堪え忍ぶのではなく、智慧をもってことにあたり、暴力は最後の手段であり、それを防ぐために、戦争にならないように出来るだけ早く手立てを考えるのである。平和的に犠牲を出さないよう、険悪な状況にならないよう、智慧によって回避、和解すべきであると考える。国家とは民衆を幸福にするためにあるのだから戦争は極力避けるのが本来なのである。

インドでは我・アートマンと言われる自己の中に社会の固定的な価値観、権威も含むとされる。だからその価値や権威を守ることに重きが置かれるが、仏教は無我を説いたのである。この、アートマンを否定する教えとして意義があったのだが、そのことは、インド社会のもつ枠を壊して、人間を正しく幸福に導くことを第一義に置く教えとして、世界に広まる普遍性をそのはじめから胎内に宿していたと考えることもできよう。

その後、保守的な上座仏教は一つの権威となったが、大乗は、仏教の世俗化、大衆化をもたらし、インドを越えた世界への普遍性を前面に押し出し、また行から信へと教えの重点を移したことで、新しい思想となり、新しい社会が望んだ指導原理となることが出来た。信さえあれば誰でも幸せとなれるとした大乗仏教ではあるが、上座仏教と争うようなことはなく、大乗仏教は一つの文明として、空の思想を説き、多くの大乗経典を註釈した龍樹によって方向付けられた教えや膨大な経典や仏像が世界中の人々へ文物が交流するルートに乗ってもたらされていった。みんなが参加しやすいものとして布教し、書写することで多くの人々に流布した。自ら実践して実現していくものから、信によって不足分を埋めることのできる仏教となった。

一方日本に目を転じてみると、もともと一向万通、一つに通じればすべてに通ずるということが好まれ、特に鎌倉新仏教の時代になると、念仏、坐禅、題目だけでよいとされるに至った。一見最もらしい教義を伴うのではあるが、本来インドでは知識は深く広く量が多い方が好ましいとされた。が、大乗仏教が世界に広まる中で、脱インド的となり、その民族性や宗教形態を捨てて、より抽象的、普遍的な教えとなっていく。それは本来の教えから離れていくことでもあり、一つの問題となるのではあったが、不殺生、利他を大切にし、他を犠牲にする教えを是とすることはなかった。

平安仏教である真言宗を開宗する弘法大師は、だからその多才さがかえって胡散臭く思われ、明治時代には神仏を混淆させた張本人とされて敬遠された。しかし、弘法大師ほど世界に通じる広汎な思想を説いた人は日本にはいないのではないか。弘法大師は、中国でもそうであったように、異国の仏と自国の神を習合して両部神道を形成する。神仏習合の基を成した。

明治時代にはだからこそ、文字曼荼羅(法華曼荼羅)の中に日本の神名をも書いた日蓮宗とともに真言宗は大きな打撃を受けるのではあるが。そうした歴史は神仏分離資料集にはあるものの各地方には伝承されておらず、人々の心にその歴史背景、その意味するところはまったく伝えられていない。文化や心の問題に関心を向けない現代の世相を反映しているように思える。

現代に仏教をどう生かしていくか、基本的な枠組み、つまり文明論が必要であろう。明治から戦後にかけて、仏教が政治に口を出すことはよくないとされてきた。しかし、政治とは社会の理想を実現するものなのであるから、仏教徒としての理想を実現しようとするとき政治とならざるを得ないのであって、仏教が政治について語るのはごく当たり前のことなのだとも言える。

明治時代は仏教を観念的なものに貶めて、仏道という言い方を改めさせて、仏教とした。しかし仏教は妄想ではなく、実現しなくては何の意味もないものである。実践的、具体的な教えとして社会にその理想を実現するための教えである。かつて身を犠牲にしてまで民衆のために生きた天皇まで生んだ日本の仏教思想を、天皇制のあり方を見直すところから、再評価していくことも必要ではないかと考える。仏教はもともと神仏習合、他と対峙するのではなく融合することから説き始められた教えであることを再認識する必要もあるだろう。

現代の日本人にとって、混迷する世相を矯正していく意味においても、宗教の価値、特に営々と営んできた仏教の教えのすばらしさに気づかねばならない。そして、その恩恵に浴することによって、多くの人々が仏教の理想を実現できる社会こそが望ましいのではないかと考える。宗教並びに仏教という言葉のもつ背景を知り、誰にとっても宗教は社会生活全般に関わる大切なものとの認識を持ち、また政治的にも仏教の深いものの考え方を中心に据えることが今の時代には特に必要であろう。(文責 横山全雄)


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