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四苦八苦をやわらげるために

2022年04月29日 16時32分55秒 | 仏教に関する様々なお話
四苦八苦をやわらげるために



四苦八苦の人生

私たちは意識するしないにかかわらず四苦八苦の人生を生きている。仏教では、煩悩のままに生きるていること自体が苦であるとするが、それは四苦の中に生も老も含まれていることからも知られる。生苦は生れる苦しみ、老苦はそれからの一生に着いてまわる老いる苦しみ。私たちは泣いて生まれても、笑って生きていたいものではあるが、その間に病いになることもあり、いずれは死を迎えてしまう。この生老病死の四つの苦しみのほかに、この後述べる八苦に悩まされ続けていることも経験上思い当たる。

八苦とはこの四苦のほかに別に四つの苦しみ、求不得苦・怨憎会苦・愛別離苦・五取蘊苦をあわせて八苦というが、これも定めのように私たちについてまわる。普段私たちは考えもしないが常に老死が隣り合わせにある。深刻な病気が発覚するかもしれないし事故に遭うかもしれない。生まれてきた以上、いずれは死がやってくる。どんなに科学が進歩しても不老長寿などあり得ないのだから、この求めても得られない苦しみ・求不得苦は一生の間私たちの喉元に突き付けられた苦しみとしてある。

そんな人生なら、仲の良い人、心楽しい人たちと生きていたいと思っても、必ずそりの合わない人、考えの対立する人、心を逆なでするような人と出会う。それは私たち人間社会の常であり、そうした嫌いな人、怨み憎しみあう人と出会わねばならない苦しみ・怨憎会苦も誰もがものごころついた頃から老いる迄ついてくる苦しみとしてある。

その逆に、肉親や兄弟姉妹も含め、大切な人、この人とはいつまでも仲良く一緒に交際していたいと思った人でも、時間の経過とともに距離が離れたり、疎遠になったり、もしくは死に別れたりということがある。愛すべき人と別れ離れざるを得ない苦しみ・愛別離苦も誰もが何度も経験しなければならない。

さらに、こうして心と身体を持つ身なるが故に様々な欲求欲望が自ずから湧いて自ら苦しみを作り出している。五蘊といわれる、自らの身体のほかにも物質的なものや精神的なものに対する自分勝手な思いにより執着をつのらせて苦しむ・五取蘊苦が、前の七つの苦を総括するものとして八つ目の苦にあげられている。

四苦八苦はただ受け入れるしかないのか

これら四苦八苦は、迷いの世界に生きる私たちには必ずおとずれる苦しみであるとされ、その苦しみを現実のものと認識してその原因を知り、正しく仏道を学び一心に瞑想実践してその原因を滅し消していくことにより苦しみから解放されるとするのではあるが、四苦八苦の苦しみを少しでも和らいだものにするすべがあるなら知りたいのが人情であろう。いずれにせよ受け入れねばならない四苦八苦であったとしても、すこしでもその苦しみを軽いものにするにはどう生きたらよいのか。

はじめの四苦はこの世は無常なのであるから、必定のこととして諦めねばならないのだろうか。確かに無常なるが故に、私たちは成長し学ぶこともできるし、出会い別れを経験して心豊かに生きることもできる。喜びがあり幸せと思うことも経験させてくれる。しかし、その中でも生苦は、母胎から出産することではなく、輪廻する衆生として生を受けることを言うのでこうして人間として生を受けている限りいかんともしがたいが、残りの老病死はいかがであろう。老と病について、何とかその苦しみを軽いものにするにはどうするか、かつてこのブログに書いた文章を引用してみたい。

老苦を生きるには

「若々しくあるために」と題して2009年5月に投稿した文章から、体の衰えを感じつつも心は若々しくいられたら、すこしは老苦を和らげることにはならないかと思うのであるがいかがであろう。

「まず第一に、今に生きるということ。私たちはどうしても過去にこだわり未来に希望や望みを託す。そして今がおろそかになる。「一夜賢者経」という経典にお釈迦様が教えられているように、過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず。ただいまなすべきことを正になせ。これである。あれこれ過去のことを後悔したり、また過去の栄光に酔ってみたり。過去は過去であって、今のあなたではない。また、先のことを心配し、将来の絵空事に胸を沸き立たせるということもあるかもしれないが、それも今のあなたではない。今にあなたがいないから今のあなたがもの足りない空虚感に苛まれている。あなたは今ここにしかいないということを知るべきであろう。今のあなたが充実して楽しく明るい心であったなら、日々若々しい心でいるということになるのではないか。

第二に、自分のこと、周りのこと、とにかく好奇心をもって様々な物事やその変化に気づくこと。漫然と時を過ごしていては、楽しいことはない。人の言うこと、周りの情勢に流され鵜呑みにしていては、自分自身にとって何の発展も成長もない。日々、何事かに気づき、疑問に感じ、自ら考える。気づくということ。好奇心旺盛であれば、常に心若々しく過ごせるであろう。

第三に、年を忘れるということ。年を意識することで閉鎖的な発想に陥る。年だから何とかというのが口癖になったりする。身体とは相談しなくてはいけないかも知れないが、そうでなければ年を意識せず何にでもチャレンジする元気が必要だろう。また、年を忘れるというのは、誰をも平等な目で見られるということでもある。年による上も下もなく、みんなを分け隔てなく見ることが必要だろう。年で相手を見るということは自分の年を意識しているということだから、そこからは若々しい心は生まれない。

ところで、仕事別に長寿度を測定すると、やはり、僧侶や医者というのが最も長寿ということになるらしい。昔、「童心は道心なり」と言われ、インドで貧しい子供たちの成長を楽しみにボランティアを続けておられる長老がいる。はたして、あの良寛さんもそう言われたかどうかは知らないが、良寛さんは、飄々と小さな庵に住まい、托鉢して暮らしていた。良寛さんも、近くの子供たちとは、まこと自分を忘れて、童心そのものになって遊んだと言われている。

自分を忘れるというと、「忘己利他」という言葉が思い出される。自分自分という思いが私たちの苦しみの根源にあり、それを忘れ他と共に生きることができれば幸いであろう。自分という思いが過去の記憶だとするならば、やはり、過去ではなく今に生きることが大切だということにもなる。それは、年を忘れるということにもつながる。まずは目の前の現実を見つつ、様々なことに気づき、今に生きる。とっさに答えたことではあったが、結局は、仏教の瞑想をそのまま日常にいかすということが、もっとも、若々しい心で生きることができるということに結論づけられたようである。」

今という瞬間にのみ思いをいたして生きる。好奇心を持って生き、歳のこと自分のことなど忘れて他のために一生懸命に生きる、そうすればたとえ身体は老いても、おのずと心は老いずに生きられはしまいか。

病苦をさける生き方

次に、病苦について、2006年4月「天寿を全うするために『病気にならない生き方』を読んで」と題して、新谷弘実先生(胃腸内視鏡外科医・アルバート・アインシュタイン医科大学外科教授)の著作から学ばせていただいたことをブログに書いたものを参考にしてもらって、できるだけ病気にならないで過ごすにはどういう生き方をしたらよいのだろうか。

「世間で健康のためと思いしがちな所謂食の常識を斬り捨てる。緑茶やコーヒーを含むお茶を常飲している人の胃は胃の粘膜が薄くなり萎縮性胃炎となり、胃ガンになりやすい。肉食は成長を早める、がそれはつまり老化を早めることである。牛乳は脂肪分を均等化するために攪拌する過程で乳脂肪分が過酸化脂質、つまり錆びた油になり、さらに殺菌のために百度以上の高温にするためタンパク質を変質させ、エンザイム(体内酵素のことで、動物でも植物でも生命があるところに必ず存在して物質の合成や分解、輸送排出解毒など生命を維持するために必要な活動をしてくれるタンパク質の触媒のこと)も死滅した最悪の飲物だと言われる。そして、カルシウムを補給するためと推奨され牛乳を飲む人も多いが、飲むと血中カルシウム濃度が急激に上がり、その濃度を体は通常値に戻そうとして恒常性コントロールによって逆に体内のカルシウム量を減らしてしまうので、本当は骨粗鬆症のためにもマイナスであるという。

さらに腸整効果があるとされるヨーグルトを常食している人の腸相も良くない。そして、植物油だからと多用されるマーガリンも。市販されている食用油の多くは溶剤抽出法という原材料に化学溶剤を入れて抽出される。この油は悪玉コレステロールを増やしガン、高血圧、心臓疾患の原因になる。この油を用いた代表選手がマーガリンであり、またスナック菓子に使われるショートニングであるという。またガン患者の食歴から、肉、魚、卵、牛乳など動物食を沢山摂っていた人はガンになりやすく、特に早い年齢でガンになる人ほど幼い頃から頻繁に肉、乳製品など動物食に偏っていたことが分かっているという。

ガンを含めどんな病気もその原因があり、薬に頼りきることなくその原因こそ取り除く必要がある。どんな薬も基本的に薬は毒であり、症状を抑えることは出来ても、薬で病気を根本的に治すことは出来ない。食事の量や質、時間やストレスなどその病気の原因そのものが除かれない限り根本的に健康を回復することは出来ないと断言される。

では私たちは何を食べるべきなのか。先生は動物の食性を表す歯に注目される。人間の場合、肉を食べる歯が一なのに比べ植物を食べる歯が七あるということから、植物食を85パーセント、動物食を15パーセントにすべきであると言われる。つまり、穀物を50パーセント、野菜や果物が35から40パーセント、動物食は10から15パーセントとし、穀物は玄米など精製していないもの、他のものもなるべくエンザイムを沢山含む新鮮な物がよい。動物食は人間より体温の低い魚で摂るのがよく、牛乳、乳製品、マーガリンは避け、揚げ物もなるべく摂らないこと。

そして、一口に50回程度よく噛み、消化されやすくする必要がある。なぜならば腸壁で吸収されなかった場合、過剰に食べた場合同様に腸内で腐敗、異常発酵が起きるため、その解毒にエンザイムが浪費されるからだという。よく噛むことで食事に時間がかかり、その間に血糖値が上がり食欲も抑制され、食べ過ぎを防ぐことが出来る。つまりダイエットにもなり、腹八分目でも満腹感が得られる。小食を心がける必要がある。出来れば子供の時からこうした食習慣を身につけるのが良いという。

なぜなら、病気は遺伝ではなく、その生活習慣の継承にあるから、といわれる。良い食材、良い水を摂り、規則正しい生活をして薬は極力飲まない、そうした体によい習慣を受け継げば子供は苦労せずに健康を維持し続けることが出来るであろう。そして、糖分、カフェイン、アルコール、添加物が細胞や血液から水分を奪い血をドロドロにしてしまうジュース、ビール、コーヒーやお茶を水代わりに飲むことなく、血液の流れを良くし新陳代謝をスムーズにするためには、よい水を毎日1500から2000cc飲むのが良いのだそうだ。先生は、朝起きがけに500cc、昼食と夕食の一時間前に500ccずつあまり冷たくない浄水を飲まれているという。良い水はダイオキシンや様々な環境汚染物質、食品添加物もちゃんと体外に排出し、バイ菌やウイルスが侵入しやすい気管支や胃腸の粘膜も良い水によって潤っていると免疫細胞の働きが活発化してウイルスの侵入しにくい場所になるともいう。

そして、食事以外のことで必要なのが、3、4キロを歩くなどの軽い運動と、十分な睡眠、また昼食後の昼寝なども大切なこと。それから、副交感神経を刺激して精神の安定を促し免疫機能を高める深呼吸を暇さえあればすること。そして、ストレスのない愛情に充ちた幸福感を感じる生活をするならば天寿を全うできるであろうと結論される。勿論これら総てをすぐに実行することは難しいかもしれない。家族もあり、一人だけ食べ物を替えることは簡単なことではない。しかし出来ることから実行することで少しでも良い方向に変えていけるのではないか。特に持病に悩み薬に頼ることに疑問を感じ始めている人には朗報であろう。」

いかがであろうか。これはあくまでも一人の先生の著作からの教えではあるが、病苦をなるべくやさしいものにすべく、このように生きられたら無病息災に長く生きられはしないであろうか。

死苦の迎え方

そして、さらに四苦の最後には死苦が来るわけだが、どのような最期を私たちは迎えるか。その時に至って後悔ばかりが残るその時は迎えたくないものである。周りの人たちに感謝を述べ、温かい良好な人間関係により惜しまれつつ最期を迎えるにはいかに生きるべきなのか。一般に仏教徒の戒である五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)、さらには十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)を心掛けるだけでも良好な人間関係は築けるであろう。

ところで、アメリカには救命士という制度があって、事故や災害などによって余命幾ばくかもない人の所に駆けつけていろいろと処置する人たちがいる。ニューヨーク州の救急救命士マシュー・オライリー氏は、死の直前、人が最後に思うことには三つあるという。一つは、許しを請うこと。人にはみんな後悔することや心にやましいことの一つ二つはあるが。それらについて謝り許しを請う気持ちが沸いてくるという。二つ目には、憶えていて欲しいという気持ち。誰にも忘れ去られていく寂しさ、悲しみがあるが、死に及んで死後も出来れば親しかった人、愛する人たち、誰かの心の中で生き続けていたいという思い。三つ目は、人生に意味があったと知りたいということ。自分の人生、一生が無意味なものではなかった、しっかり生きてきた、みんなのために役に立つ、立派な、よい人生だったと知りたいのだという。

何十年も生きてきたら後悔することもいくつかはあるのが普通であろう。しかし後悔するのも煩悩の一つと数えるのが仏教である。過去を回想し、過ちや失敗を思い出しては悔いるということもあるかもしれない。しかし、それよりも、今の行いについて自らの心に、また周りの人たちに恥じない行いをすることが必要だと教えられている。そうして良好な円満な人間関係を心掛けつつ、安心してその時を迎える。さらには、最後の時にあたって、自分の人生について回想し、それがいかに意味あるものであったかを思い、満足して最後の時を迎えたいものである。日頃からそんなことを一人静かに考えることも死苦に対処するために必要なことであろう。

残りの四つの苦しみに対処する

ここまで、四苦について思い当たることを述べてみた。次に、残りの四つの苦しみについても思いつくことを述べてみたい。

まず、求不得苦は、不死を求めてももちろん得られないわけだが、老いてなお身体的に若くありたいと願う人は多い。このほかにも巷にあふれる様々な情報から求めるべきものでないものを欲して様々な問題を起こすこともある。周りと比較して欲を掻き立てられることもある。他と比較するのではなく、自分にあるもの、持てるものに目を向けてみれば、新たな価値を見出し、求めるということ自体から開放されるのではないか。

次に、怨憎会苦、愛別離苦については、すべての出会いに因縁あり、それも無常であることをまずは知るべきではないか。永遠なるものはないことを思い、嫌いな相手もいずれは去るものであり、愛する者もいずれは離れゆくものと心得る。かつてあれほど苦手で嫌いだった人が、いつの間にか自分を守ってくれる身近な存在として感じられる人であったと気づかされることもある。好きな相手も自分を束縛し、依存してしまっている自分に気づくこともある。その関係も時間の経過とともに愛憎が変化するのを冷静に観察しつつあれば、いざという時の苦しみも軽減されるのではないかと思われる。

最後に、五取蘊苦については、執着をもって生きることがそのまま苦であるとする仏教の教えを学び実践することこそがこの苦に対処することにはなるのだが、その実践の中でも少欲知足が最も基本的な生活態度であろう。眼耳鼻舌身意の五官と心に入るものに欲を掻き立てられ翻弄されないよう、余計なものを見ない聞かない嗅がない味あわない触らない考えないに尽きるが、入るものを遮断することも必要だし、入っても自分のこととせずそのまま流してしまう習慣を身につけることも必要である。

以上八苦についていかに対処すべきか思いめぐらしてみた。必ず訪れる四苦八苦なれども、各々ここに挙げたことなどを参考にしてやり過ごす、また苦をいくらかでも和らげられる工夫として考えてみたのであるが、いかがであろうか。


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世界の平和を願うなら

2022年04月06日 17時25分56秒 | 時事問題
世界の平和を願うなら



先月末、敬愛する先生から小冊子が送られてきた。『鎌倉大仏殿高徳院「ジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑」に託された平和への願い 日本を救ったブッダの言葉』と表紙にある。2020年9月1日初版の第2刷で、発行者は東方学院研究会員後藤一敏氏である。

後藤氏は令和元年の東方学院会報「東方だより」に、前理事長の前田專學先生が中村元先生の世界平和の願いとして一文認められ、そこに紹介されていたJ.R.ジャヤワルダナ元スリランカ大統領顕彰碑について強い関心をもたれて、早速現地高徳院を訪ねられた。しかし、そこに碑がひっそりと立っているだけで、参拝者の多くがその存在にすら気づきもしなかったのだという。そこで、世界が自国中心主義を前面に出して、覇権争いの様相になり、弱者や他国移民には厳しい社会になっている状況なればこそ、温かな心、慈しみの心が、人々の幸せになる道であることを知って欲しいとの思いからこの冊子を発行されたと、あとがきに「編集の経過」として述べておられる。

第2刷は今年の2月のことではあるけれども、2年前に発行された時には想像だにもしなかった現在の世界の様相に、改めてこの顕彰碑の意義を広く知らしめんとお考えになられて、こちらにもご送付くださったのであろう。先生に葉書で御礼申し上げたように、この度の土砂加持法会の際に参加された檀信徒の皆様にはこの冊子と内容について触れ、現在の世界情勢についての私見を述べさせていただいた。

はたして、いま世界中から敵視され戦争犯罪者とまで言われているロシアではあるが、この冊子にも述べられているように、80年前には私たち自身が同じように世界中から非難されていたことを忘れてはなるまい。軍国主義、無法なる侵略者と罵られ、GHQによる占領後も軍国日本の台頭を恐れ日本軍の侵略による被害と恐怖が忘れられない人々が少なからず世界には存在していた。四か国による分割統治案が提示されるなど日本の自由な独立に異を唱える人々もあった。日本の独立を認める講和条約案がまとめられてはいたが、一部の国の反対がある状況の中で、1951年9月6日、サンフランシスコにおいて平和条約締結調印会議が開かれ、そこでセイロン政府を代表して演台に上られた大蔵大臣J.R.Jayewardene氏が述べられた演説によって日本は救われることになる。

J.R.ジャヤワルダナ氏の演説は、平和条約草案の承認に参集した51か国の代表に対し、セイロン政府を代表し、さらにアジアの人たちの日本の将来についての一般的な感じ方を声を大にして述べ得るものと前置きして、領土の制限、賠償のこと、その後の日本の防衛についてまで配慮されたうえで、すべてが合意されたものではないが、日本が自由な独立した国家であらねば、南方や東南アジアの人々の経済や社会的な立場の向上はなされず、他国との友好条約も結ぶことができないと主張された。

そして「…なぜアジアの人々は、日本が自由であるのを熱望するのか? それは我々が日本と長い年月に亘る関係があるためであり、それは、被支配諸国であったアジア諸国の中で日本が唯一強く自由であった時、そのアジア諸国民が、日本を保護者として、また友人として仰いでいた時に抱いた日本への尊敬の念からです。思い起こせば、さる大戦中に、日本の唱えたアジア共存共栄のスローガンが人々の共感を得、自国が解放されるとの望みでビルマ、インド及びインドネシアの指導者の中には日本に呼応した人たちもいたのです。」

「…我が国の重要産業品である生ゴムの大量採取による損害に対して我国は、当然賠償を求める権利を有するのです。しかし、我々はその権利を行使するつもりはありません。なぜならアジアで何百万人もの人達の命を価値あるものにさせた大教導師の憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止むとの言葉を信じるからです。この言葉はブッダ大教導師ー仏教創設者ーの言葉で、人道主義の波を北アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、泰国、インドネシア、及びセイロンに拡げ、また同時に北方へ、ヒマラヤを越えてチベットから支那を経て最後に日本に及んだものです。

その波は我々を何百年もの間にわたって共通の教養と伝統とでもって結び合わせているのです。この共通の教養は、現在も脈々と存在していることを私は先週この会議に出席する途中、日本に立ち寄った時に見出したのです。日本の指導者、国務大臣、一般の人達、そして寺院の僧侶など、日本の庶民は現在も大教導師の平和の教えに影響されており、その教えに従いたいという希望に満ちている印象を感じたのです。我々はその機会を日本人に与えなければならない。」

最後に「この条約は敗北したものに対するものとしては寛容な内容でありますが、日本に対して友情の手を差し伸べましょう。…日本人と我々が共に手を携えて人類の生命の威厳を存分に満たし、平和と繁栄のうちに前進することを祈念する次第であります。」と述べ演説を終えると賞賛の拍手が鳴りやまず、議場は一転し講和条約締結へと動き出したのだという。

「当時、日本国民はこの演説に大いに励まされ、勇気づけられ、今日の平和と繁栄に連なる戦後復興の第一歩を踏み出したのです。」と、このジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑を1991年4月に建立した顕彰碑建立委員会を代表して中村元東方学院長が碑背面の顕彰碑誌に記している。

この冊子の発行者である後藤氏が、あとがきに「世界が自国中心主義を前面に出して、覇権争いの様相になり、弱者や他国移民には厳しい社会になってい」ると2年前に記された状況を加速するかのように見える、現在の世界情勢の中にあって、私たちは今どのような観点からこの世界を見たらよいであろうか。

この4月3日に配信された東洋経済のネットコラムに国際ジャーナリスト高橋浩祐氏が「ウクライナ戦争アメリカが原因をつくった説の真相」と題する投稿をされている。そこで高橋氏は、シカゴ大学の国際政治学者ジョン・ミアシャイマー教授による、今回のウクライナ戦争の原因をつくったのは西側諸国とくにアメリカだと主張する説を紹介している。それによれば、今回のアメリカ、イギリスなど西側諸国で、日本も同様だが、広く受け入れられている通念は、この危機で責任があるのはプーチン氏であり、ロシアだというものだが、悪い輩と良い輩がいて、私たち西側は良い輩、ロシア人が悪い輩という見方はまったく間違っているといわれる。

そして3つの柱からなる戦略で西側諸国がロシアをウクライナ軍事侵攻にまで追い込んだとミアシャイマー教授は非難している。一つは、NATOの東方拡大。もともと東側の軍事同盟のメンバーだったポーランド、チェコ、ハンガリー、さらにはバルト三国、ルーマニアなどが1991年のソ連崩壊後1999年、2004年と2度にわたり、クリントン政権時にNATOに加盟し、ドイツ統一後の同盟不拡大の東西合意を一方的に反故にした。さらに2008年のNATO首脳会談にてウクライナとジョージアまで将来的なNATO加盟に合意している。その後その年にロシアはジョージアに軍事侵攻し、2014年にクリミア半島に侵攻し併合して現在に至っている。

二つ目は、EUの拡大。EUは経済的政治的連合体ではあるが、西欧型のリベラル民主主義の基盤となるものであり、そこへかつてのロシアの友邦国が統合されるかのように加盟し、ウクライナは今年の2月28日、ジョージア、モルドバが3月3日に加盟申請をしたのだという。結果としてロシアを刺激したことは想像に難くないといわれる。

三つ目は、カラー革命だというが、これは2000年以降ユーゴスラビア、セルビア、グルジア、キルギスなどで旧ソ連下の共産主義国家で、独裁体制の打倒を目指して起きた民主化運動のことだという。特にウクライナでは、2014年アメリカの支援を受けたクーデターによって、親ロシア派のヤヌコビッチ大統領が騒乱の中解任され、親米派のリーダーが後釜に据えられたが、ロシアはこれを容認せず、違法な政権転覆と非難し、これがクリミア侵攻につながったとみている。これら三つの点からアメリカ側がロシアを追い詰め戦争に導いたとしている。最後に、この度の戦争の背景には、民主主義対独裁体制、ないし西欧リベラル民主主義と強権的な権威主義の対立があると指摘している。

このような見方もあるということなのだが、自らの領域を超えて影響を及ぼし他国を恣に操作し勢力を拡大せんとする覇権意識が80年前と同様に東西ともに存在するということであろう。そして、そうした構造によって利益を得る人々が存在する。新聞テレビの報道だけを見ていては知りえない背景、忘れられた歴史、報道されない真実があるということもわきまえておきたい。私たちの目にする報道は西側の主張したいことを見せられていると思わなければならない。それが真実であると確かめることはできない。報道によって私たちに何を信じ込ませたいのか、どういう印象を残したいのかと見ることが必要であろうと思う。私たち自身がそうした報道広報によって敵視され印象づけられた時代があったことを忘れてはならない。

ジャヤワルダナ氏が引用されたお釈迦様の言葉は、法句経の第五偈である。正確には、「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」であるが、ではどうしたら怨みは息むのか。そのひとつ前の第四偈には、「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。」(岩波文庫・ブッダの真理の言葉・中村元訳)とある。誰もが、かれもわれもない、ともに小さな地球の住人であることを知らねばならないということではないか。敵も味方もない、人を傷つけることは自分を傷つけていることと同じなのだから。


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