住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

万燈会法話④

2018年08月26日 19時24分54秒 | 仏教に関する様々なお話
では輪廻する自分とは何なのか、という観点から少し考えてみましょう。私たちは、今のこの人生を生きる私が自分と思っていますが、前世があり、その前のいくつもの過去世があったわけです。さらには死後も生まれ変わり別の身体をもらって生き続けていきます。そこに介在するのはお釈迦様の言われるように業(ごう)です。過去に行った善悪の行為による苦楽の報果をもたらす業のみが、この私という意識とともに、次々に受け継がれていきます。

ですから、自分とは、今のこの身体の私だけではなく、過去の自分の業も一緒に生きていて、さらには今の瞬間の行為も含めての業を次の自分にも受け渡していく存在だということです。自分のことは自分が勝手にしていいと思って、例えば、自暴自棄になって何かしでかしてしまうというのは今生の自分だけでなく、未来世の自分にとっても危ない行為だということになります。

前世も含め過去世の自分の行為による業を抱え込んで生きている自分には、今起こっている現実の自分に備わった様々な特性、良い面も悪い面も様々に評価されることにも、今生の自分だけの力、才能ではなくて、勿論両親からの遺伝ということもありましょうが、そのような両親の元に生まれついたというのも、業によると考えます。ですから、私たちの才能は、過去世に蓄積されたものも影響していると考えなくてはいけないのだと思います。ちょっと教えただけで抜群の成長を見せる人があります。いくら教えてもわからない、できないという人もあります。

過去世に蓄積したものがある場合とない場合では、かなり違いが出てくるということでしょう。精神的に強い人弱い人、それも過去世の影響が含まれているのではないでしょうか。ですから、何があっても、良い結果にうぬぼれることなく、悪い結果に落ち込むことなく、それも生き通しの自分の今の結果と思って、平然と受け入れたら良いのかと思います。勿論、それは簡単なことではありません。ですが、そんな風に捉えてみられたら、少しは気持ちも楽になるのではないでしょうか。

私たち日本人は災害に遭っても、お互い様、誰の責任でもないという深い納得があるように感じます。それは、自分たちのしてきたことの積み重ね、ずっとしてきたことの結果としてこうあるというような納得、ないし諦めがあるのではないかと思うのです。ずっとしてきたのは、御先祖様なのかもしれませんし、先人のしてきたこともありましょうが、それも含めて自分もその一人であるからという諦めです。

今の自分も生まれ変わり生まれ変わりしてきた積み重ねにより今の自分があるという思いになれば、誰に文句の言えることでもないということです。今の境遇、今の思い、悩み悲しみ喜びも、すべては自分のしてきたことの結果であるということです。同じ事が起こっても、笑って済ませる人と、怒り出してしまう人、落ち込んでしまう人もあり、いろいろな反応の示し方があります。それも過去世も含めて過去の蓄積によるものと言えましょう。

一人一人みんな才能も好き嫌いも思いも違います。違うからこそ私たちは一人一人生きる価値があるとも言えますが、その違いの中に、その人なりの課題、この人生で解決する、やり遂げておくべきものがあるようです。そのためにこそ、この人生もあります。それをやり残したら、次の人生に持ち越されてしまうことになります。

お寺では先祖の供養ということをいたしますが、私たちにも前世の家族があり、御先祖として私たちのことを供養してくれていることでしょう。だからこそ私たちは恙なくこうして暮らしていけているのかもしれません。ですから、私たちも今生暮らす上でお世話になっている当家のご先祖様に向けて供養する必要があるということになります。相互供養という言葉がありますが、前世の家族に供養され、来世に行った先祖を供養する、これこそが相互供養と言えるのかもしれません。

仏教を信奉する人は、教えを学ぶ行じる、そのことによってしあわせとなり、精神的に楽になり、周りの人たち生き物たちと明るく楽しく過ごせるメリットがあることでしょう。しかし、そのことは同時に人格を向上させ、真の落ち着きと深い洞察を兼ね備え、すべてのものをありのままに知り、最終的にはお釈迦様のような人格の完成、つまり悟りに向かって、今を生きていると言うこともできます。

仏教徒にとっての人生とは、いくつもの目標、人生の目的の先の先に、最終ゴールには悟りがあるのだと思って生きるためにこそあります。ですから、人生には様々な困難、挫折、困窮することもありましょうが、それらを乗り越えて、私たちの本当のゴールはまだこの先にあると思える様な、来世、未来世も含めた果てしない人生設計を頭の片隅にでも置いて生きて欲しいと思うのです。本当は、悟りのためにこそ、この命があるという考え、今のインドの仏教徒の中にもそこまで現実の問題として考える人は少ないのかもしれません。が、お釈迦様を人生の理想、目標として生きる仏教徒ならば、当然そういう考えのもとに生きてしかるべきであるというのが世界の仏教徒の思いであります。

ですから、日本に生きる私たちも、知らず知らずのうちに、先祖の供養や法事に精霊の菩提を願い、葬儀に故人の成仏を願うのではないでしょうか。菩提、成仏ともに悟るということに外ならないのですから。何度生まれ変わっても悟りに向かって生きていく、そうあって欲しい、それが私たちの願いであるというのが、御先祖方が家の中心に立派な仏壇を継承してこられたことの意味ではないかと思っています。だからこそ、仏壇の上段に仏様を祀り、中段に位牌を祀り菩提を念じるのではないでしょうか。・・・


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万燈会法話③

2018年08月26日 15時40分32秒 | 仏教に関する様々なお話
三日目にお訪ねしたお寺では、やはり多くのお参りがあり、本堂よりも境内のテントの中に沢山の檀信徒が椅子に掛けてお参りされていた。何か質問があればと申すと、早速に、「木魚はなぜ魚なのか」との質問があり、「もともと禅宗寺院で、実際に魚の形をした木製の叩いて時を知らせる木魚の原型があり、それがのちのち音を響かせる為に形が丸くなり、経を唱えるときに調子を取る現在の木魚になったのです」と申すと、「なぜ魚がもちいられたのか」とのことで、法話後に法会に参加された他のお坊さんに教えられたところによると、魚は寝るときにも目を開けているところから、魚は眠らないものと考えられていたようで、修行中に眠くなる修行者を戒める為に魚が用いられたとのことでした。

次には、「なぜ仏飯には箸をつけないのか」との質問がありました。「御霊供膳には箸をつけますが、普段仏壇の仏様や先祖のお位牌に御供えする仏飯には箸をつけません。それは、仏飯を差し上げる心、供養する心、日頃の感謝であったり、お礼の心を差し上げているのであって、実際にご飯を食べるのではないことから普段は箸をつけていないのだと思います。」

「その他に質問がなければ昨日までにお話ししたことなどを織り交ぜて、お話し申し上げます。一日目には餓鬼とは何か、二日目には私たちは死後生まれ変わるのかという質問があり、お話し申し上げました。

生まれ変わりの研究というのは日本では余り知られていませんが、実は世界的に進んでおりまして、アメリカのヴァージニア大学では、二千件を超える生まれ変わりの事例が蓄積されているとのことです。自分は前世では、どこどこ村の何という人で、親の名前や奥さん子どものことまで話すので、実際にその村に調査に行くと本当に近年に亡くなったその人物が存在したというような事例です。インドなどでは村が離れていたら言葉も違い、習ってもいない親も知らない言葉を話し出す子どももいたりして、生まれ変わりということがごく当たり前に思えるそういう文化圏もあるのです。

ですが、日本でも、池川明さんという東京の産婦人科医の先生が『子どもは親を選んで生まれてくる』(日本教文社)という本を書かれています。日本人の子どもでも二三歳になって言葉が話せるようになると前世の記憶を思い出したり、お母さんのお腹の中にいたときの記憶や生まれるとき産道を通ってくる記憶を語り出す子どもがいるのだと沢山の事例が報告されています。

僕がお腹の中にいるときお母さんはビールを飲んでいたねとか、お腹にいるときお母さん結婚式してたね、ということまで話す子がいるとも書かれています。そして、その多くの子が、雲の上の方から、このお母さんがいいと自分で決めてそのお母さんのお腹の中に入っていくんだということです。

仏教は悟りを求める教えです。悟りとは何か、解脱とも言われるように、なかなか思い通りにならない苦戦を強いられる人生の苦しみからの解放であり、何度も生まれ変わる苦しみ多い輪廻から脱することです。それは、お釈迦様のように、すべてのことに知悉して、何があっても何が無くても動じない、いつも平穏で生きとし生けるものに優しい慈しみの心でいられる、そんな完璧な幸せな心を得ることです。

ですから、仏教とは、はじめからこの輪廻、生まれ変わる、終わらない生命の連続から解き放たれる、解脱を求めるという、そのための教えであると言うことができます。・・・」

そして、ここからはまた次回の話として話さなかったのですが、余談として続けてみますと。お釈迦様の悟り、それは仏教の原点ともいえる体験ですが、その悟りを得る晩にお釈迦様はどのような思索のもとに悟られたのかということについて話してみたいと思います。これはとても大事なことのはずなのに、なぜか日本の仏教書にはまるっきり書かれていません。英文のオックスフォード新書というシリーズの中の『Buddhism A Very Short Introduction』第三章Karma and Rebirthの冒頭にさえきちんと書かれているのに、誠にふがいないことです。

日本では仏教さえもが正しくきちんと伝えられていないということです。それこそ忖度、宗派になのか社会の風潮になのかはわかりませんが、残念なことです。これはパーリ語という初期仏教の経典語により残された記録です。『中部経典・第36大サッチャカ経』(大蔵出版)などに収録されています。この長い経典の中に、お釈迦様が自ら悟りに至った晩の瞑想の内容について語る場面があります。

六年もの苦行によっても悟れず、粗食を口にして体力を整え、昔体験した禅定こそが悟りへの道であると考えられ、ある晩に第一禅定から第四禅定へと深い瞑想状態に入っていかれます。そして、まず、自らの過去の生涯について心を向けると、それぞれの時の名前や身体や食べ物、苦や楽、寿命、そこから死んであそこに生まれたということまで思い出したというのです。何回も何回も百生、千生、十万生も生まれ変わってきたことを回想されたということです。これによって無明が滅ぼされ明智が生じたとあります。

次に、他の者たちの生まれ変わる様子を天眼という超能力によって見たということです。劣った者も優れた者も、美しい者も醜い者も、幸せな者も不幸せな者も、みなその業に応じて生まれ変わっていく様子をご覧になったのでした。身と口と心による悪行があり、聖者を誹謗し、邪な見解をもち、そうした邪な見解による業を引き受けている者は、死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれ変わり、逆に、身と口と心による善行があり、聖者を誹謗せず、正しい見解を持ち、正しい見解による業を引き受けている者は、死後善道の天界に生まれ変わった様子など、沢山の生きとし生けるものたちが業に応じて生まれ変わるのを知ったとあります。

さらに、煩悩を滅する智について心を傾注すると、「これは苦である、これは苦の生起である、これは苦の滅尽である、これは苦の滅尽にいたる行道である」「これらは煩悩である、これは煩悩の生起である、これは煩悩の滅尽である、これは煩悩の滅尽にいたる行道である」と如実に知ったとあります。そして、このように知ると欲の煩悩、生存の煩悩、無明の煩悩からも心が解脱し、解脱したという智が生じて、「生まれは尽きた、梵行は完成された、すべきことはなされた、もはやこの状態の他にはない」と自ら知ったということです。

最高の悟りを得られたときの感慨ですが、この「生まれは尽きた」という一言が、輪廻の世界からの解放を意味しているのであり、六道の世界から抜け出て、死後は再生しないということを示しています。仏教の教えの根幹とも言える大切な部分のお話です。これを取り違えると仏教とは何なのか、いかなる教えかということがあやふやになり、何が仏教かわからないということになります。たかが輪廻転生、インドの古来の風習を説法のために採用したなどという説を吹聴していては、仏教のなんたるかは見えてこないでしょう。いかに生きるべきか、何のために生きているのか、しあわせとは何か、仏教を信奉する者として、そうしたことを考えるためにも仏教の生命観、世界観が不可欠になることは言うまでもないでしょう。



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万燈会法話②

2018年08月25日 15時18分56秒 | 仏教に関する様々なお話
さて、2日目のお寺では御堂一杯の参詣があり、ついつい、こんな話題から話し始めた。

「今世界的に宗教は衰退していて、アメリカのカトリック神父の不祥事が報道されたばかりではありますが、日曜日に教会に行く人も急減して教会自体の存続が危ぶまれていたりしますが、それはヨーロッパでも同様で、神聖なるものへの信仰心などというものが希薄となり利益至上主義、経済第一というような考えが世界を席巻しています。日本でも都市部を中心に葬儀もしない法事もしないという時代を迎えています。

そうした中で、このように暗くなってからの法会にもかかわらず、沢山のお参りがあるというのは一筋の光明を見る思いが致します。熱心なまた敬虔な仏教徒である皆様ですから日常過ごす中で、信仰についてまた教えについていろいろと疑問に思うこともあろうかと思いますが、何か質問があれば」と申しますと、早速に、「死ぬと生まれ変わるんですか」とのご質問をいただいた。

「はい、少なくともインド文化圏にあるアジアの人々はそう信じていますし、私たち日本人も江戸時代まではみんなそう思って生きてきました。極楽に逝くなどと阿弥陀様の浄土に逝くのも生まれ変わるからですね。死んで何もない、無に帰するというのなら浄土に逝くこともかないません。

臨死体験という言葉は聞いたことがあると思うのですが、病気や事故で身体が仮死状態になったりしたときに、身体から心が出て、病室の上の方から自分の身体に家族が泣いてすがる様子を見ているとか、光のトンネルを抜けてお花畑の中にいたといった体験のことですが、私どものお寺の檀家さんも、大腸のポリープの手術で麻酔を打たれていたところ、気がつくとお花畑にいて、向こうに川が流れていて、向こう岸では亡くなった人が手を振っていたのでスッと行きそうになったら、亡くなった旦那さんの声で「おーい芋を見に行けよ」と声がして、気がつくとベッドの中にいたということでした。2週間前に芋の苗を植えたところだったとのことでしたが、この話をまともに聞いてくれたのは住職さんだけですと感謝されました。

五蘊という言葉があります。般若心経にもありますが、色受想行識、色は形あるもので身体のことですね、受想行識は心の働きのことです。これら五つが私ですということで、大きくは心と体ですから、心と体は別の物だということです。私たちはこの身体が自分と思っていますが、体と心は分離する、身体の寿命が終わり分離することを死と言います。身体は荼毘にふされますが、心は身体から出て、四十九日の間三次元の世界に止まり、満中陰の法事の後来世に旅立っていきます。

生前の様子にしたがって、来世があると考えるのです。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つですが、身体を必要とする畜生、人間にはなりにくい、他は化生といって、心のエネルギーだけの存在ですから、スッと行きやすい。一番行きがちなのは餓鬼です。そこで日本の仏教ではよく施餓鬼をするわけで、今日も皆さん餓鬼に施す作法をしていただきました。

冒頭キリスト教の話もしましたが、キリスト教も実ははじめの頃は輪廻ということを認めていました。ローマ帝国の時代、つまり四世紀頃、時の皇帝が聖書にあった輪廻転生の記述を異端であるとして削除したと、ブライアン・L・ワイスというアメリカの精神科医が『前世療法』(PHP文庫)という本に書いています。当時巨大化しつつあった教会の権威を弱めることになるとして人類の救済が輪廻転生を繰り返すことによって行われるということを認めることが出来なかったということです。

ですから、何度も生まれ変わることによって、私たちは、過去世でやり残したことをしたり、いろいろなことを学び、精神的に清らかになるべく生きているということになります。ではなぜ、江戸時代の御先祖方がみんなそう考えていたのに、今の私たちはそうしたことを認めていない、もしくは信じられないのでしょうか。

それは明治時代に、近代科学文明が怒濤の如く流れ込み、西洋化する中で、輪廻などという考え方は前近代的な発想である、断じて認められない、それがまた仏教の近代化でもあると勘違いしてしまったから、仏教者も言わなくなり、坊さんたちも口をつぐんでしまったのです。しかし、アジアの仏教徒たちはみんな今でも、生まれ変わると思っています。日本の仏教学者の中には、前世の記憶が無いから生まれ変わりなどないと馬鹿なことを言う人もあります。お釈迦様のように修行してもいない人が、軽はずみに経典の随所に書かれていることを否定してよいはずがありません。・・・つづく



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万燈会法話①

2018年08月24日 09時11分45秒 | 仏教に関する様々なお話
ことのほか暑い猛暑に責任を押しつけるわけではないが、今年の万灯会5ヶ寺の法会後の法話を担当するとなっても、何も頭に浮かばず、初日から皆さんに何か質問があればと問うてみることになった。初日のお寺には丁度中学生がお参りになっており、その子から早速に「餓鬼とは何ですか」と質問がいただけた。何も質問がなければ、お施餓鬼の作法をお参りの方々にもしていただいているので、そのあたりのことでもお話ししようかと思っていたところだったので、ありがたい質問であった。

「餓鬼とは、私たちのような身体を持つことなく、心だけの存在で、暗いところで、私たちのすることを見ていて、何か食べていたりすると物欲しそうに指をくわえて見ていたりするのですが、姿はとても醜いと言われています。私たちも死ぬ瞬間に暗い心で死ぬと餓鬼になると言われていて、生前自分さえ良くありたいと人をうらやみ妬んだりしていると死ぬときにも暗い心で亡くなる、そうすると餓鬼になると言います。

私たちは亡くなると六道に輪廻するといって、六つの世界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天のどこかに生まれ変わります。生前の行いによって、それに培われた心にしたがってどこかに転生すると考えられていますが、皆さんのようにこうしてお寺に来て徳を積み、勤行次第にもある十善をまもる生活をしていたら人間界以上の世界に転生するとされています。

間違っても地獄や餓鬼の世界に逝かないように、常にみんなと共に良くあるようにと明るく何があっても思い詰めたりせずに暗くならないように生活することが大切ですが、インドのお釈迦様の時代にはこんな話もあります。お釈迦様には沢山の在家の弟子もいましたが、中インドの大きな国にコーサラ国があり、その国のパセーナディという王様も熱心なお釈迦様の弟子でしたが、元々信仰心ある人ではなかったのに、敬虔な仏教徒であったマッリカーというお気に入りの妃の感化により足繁くお釈迦様に教えを乞うようになったのでした。

このマッリカーは若くして亡くなってしまうのですが、沢山のお坊さんたちに施食をして法話を聞いた功徳があり死後は良いところに転生するに違いないと言われていましたが、亡くなる寸前に生涯に一度だけついた嘘を思い出して、暗い心になり、餓鬼の世界に逝ってしまいました。ですが、餓鬼の世界に逝き、二三分して、何で自分はこんな所にいるのですが、生前沢山のお寺さんに供養して法話も聞き教えを学んできたのに、と思った瞬間に兜率天に逝ったと言われています。

餓鬼の世界は人間界よりも遙かに寿命が長く、あるいは寿命がないという説もあり、この餓鬼の世界の二三分は人間界では七日間ほどだとのことなのですが、亡くなった翌日からパセーナディ王は、マッリカーがどこに転生したか聞こうとお釈迦様の所を訪ねます。ですが、お釈迦様はそのことを神通で知ると、敬虔な信者であったマッリカーが餓鬼に転生したとも、嘘を言うこともできないので、質問をさせずに王様をお城に帰してしまいます。

二日目も、三日目も、そして、七日目に来たときには、毎日毎日こちらにお越しになりますが、王様何か聞きたいことでもあるのですかとお釈迦様が問うと、そうなのです、マッリカーはどこに逝ったか聞きたかったのですというと、お釈迦様は、マッリカーは兜率天にいますよと応えられたのでした。

暗い心で亡くならないようにすることが先ず大切です、が、万が一餓鬼にいったら、生前の功徳、善いことをしたこと、お寺に沢山の寄付をしたことなどを思い出して、皆さんも、何でこんな所に来たんですかと思えるように、自分のなした沢山の功徳をよく憶えておかなくてはいけないということですね。

それで、今日の施餓鬼の作法は、洗ったお米にナス、キュウリを采の目に切って混ぜた水の子を蓮の葉に盛り、そこに樒の葉で水を掛けて供養しますが、これは餓鬼は私たちが食べるご飯をそのまま食べることが出来ないため、わざと腐らせたようにして餓鬼に供養しているわけですが、無数にいるとされる餓鬼の供養は誠に大きな功徳があり、その功徳を御先祖様、近くに亡くなられた精霊の菩提の為にふり向ける、回向する法会がこの施餓鬼会ということになります。」

次に、「悪霊と浮遊霊の違いについて教えて下さい、以前夜中に家に白い三角巾を頭に巻いた人が立っているのを見たことがあるのですが・・・」という質問があった。

「悪霊と言えば、人を恨み、憎んで亡くなった人の霊が、ずっとこの世に、それも特定の人の周りにとどまって悪さをするような霊のことで、浮遊霊は、亡くなっても、それが急な事故であったり、人知れず亡くなったりして葬式もしてもらえず死んだこともわからずにこの世にとどまっているような霊のことです。

そうした霊は見える人にたよるところがあり、ちょうど貴方がその頃見える状態にあり、現れたのだと思いますが、私も高野山にいた頃同室のお坊さんが霊が見える人で、ある晩に寝苦しく起きたことのあった翌朝、その方から、昨晩白衣を着た坊さんの霊が貴方の顔を覗いていきましたよと教えてくれました。

またお施餓鬼という夕方暗くなってからする作法の最中にはちょいちょい白衣を着た霊が来ていたということは聞いています。ですから、沢山そうした浮遊霊はいるのですが、見える人を頼り姿を現すようです。今はもう見えないのなら寄ってきませんから安心してお過ごし下さい。」つづく



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