住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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東大寺二月堂・お水取り参拝

2011年02月23日 08時02分45秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
3月2日と8日に朝日新聞愛読者企画「備後國分寺住職と行く特別企画・東大寺二月堂修二会と奈良公園フリータイム」で、東大寺二月堂の修二会の法会に参拝する。毎年恒例のこの行事が終わると奈良にも春がやってくると言われる。いろいろな意味で今日注目を集めるこの行事は、一度も途絶えることなく1260年もの長きにわたり行われているが故にその無形の存在感、有り難さを私たちに誇示しているかのようにも感じる。

東大寺二月堂修二会(しゅにえ)とは
この行法は、もともとは旧暦の2月1日から2月14日まで行われていた行事で、2月に行われるので修二会という。正月に行われる法会は修正会と言われる。現在は太陽暦を採用して、3月1日から3月14日まで二月堂で行なわれている。東大寺二月堂の修二会は、本尊十一面観音に、僧侶たちが世の中の罪を一身に背負い懺悔(悔過)し、一般の人々に代わって苦行を引き受ける者として苦行を修し、国家安泰と人々の幸福を祈る法会である。俗にお水取りとよばれ、今年で1260回目となり、開行以来一度も途絶えたことがない「不退の行法」。

由来
天平勝宝3年(751)10月、東大寺開山の良弁僧正の高弟・実忠和尚が奈良の東、笠置寺で修行中、山中竜穴を見つけ北に一里ほど行くと、兜率天の世界があり、様々な内院を参詣していると常念観音院で、多くの聖衆が仏前に懺悔する悔過の行法をしていた。すると中央に生身(しょうじん)の観世音菩薩が出現されたので、実忠は感激し、聖衆に是非ともこの行法を下界に持ち帰りたいと希望した。

しかし、兜率天の一日は人間世界の四〇〇年に相当し、この行法を人間世界で行うと数百年も掛かり、それに生身の観音も必要だから諦めよ、と言われたが、実忠は千べんの行法と言えども走ってやれば数を満たし、また、誠をつくしてやるなら観音も出現されようと食い下がり、大仏開眼の二ケ月前、天平勝宝4年(752)2月1日二月堂で修二の悔過を修したのが、東大寺二月堂「修二会」の始まりとなった。

二月堂のこと
寄棟造、本瓦葺の大きな東大寺二月堂は、年治承4年(1180)12月平重衡による奈良責めの兵火では炎上を免れたが、寛文7年(1667)2月14日未明「噠陀」の残り火で全焼し、現在の建物は、寛文9年(1669)奈良市出身の隆光大僧正の勧めにより犬公方・綱吉の母・桂昌院の寄進によって、東大寺の大仏殿を再建する公慶上人が再建。

二月堂の本尊は、2躰の十一面観世音菩薩で、二体共に絶対秘仏。厨子内の小観音は、約7寸で、この仏様は笠置山で兜率天へ行き、生身の十一面観音をご覧になった実忠和尚が、どうしてももう一度、観音様に会いたいと思い、摂津の難波津へ赴き、香華をそえて折敷(おしき、仏に供えをする盆)を海に浮かべ、南方の彼方にあるという補陀洛山に向かって手を合わせ、一心に観音を勧請したところ、折敷は南へ向かって漂っていた。そうして百日ばかり実忠が毎日熱心に拝んでいると、ある時、海の彼方から7寸ばかりの十一面観世音菩薩像が折敷に乗り来たった。実忠和尚が早速手に取って拾い上げるたら観音に人肌の温もりがあったので、これぞ生身の観音であると喜んだという。

準備
修二会には11人の僧侶が出任する。この11人を「練行衆」という。12月16日良弁僧正を祀る開山堂で東大寺別当より練行衆11名が発表される。 行衆の内訳は、一同に修二会中守るべき戒を授ける和上。修二会の趣旨や祈願文を唱え、行法全般の主役となる大導師。印を結び陀羅尼の咒(しゅ)を唱え道場を結界する咒師(しゅし)。堂内の荘厳係兼行法の進行係であり、修二会内外の雑務を総括する堂司(どうつかさ)の上位四人を四職(ししき)と呼び。残りの人が平衆(ひらしゅう)。この他、様々な補佐として練行衆一人一人に付く童子など法会に関わる人は総勢三〇数名となる。練行衆と三役は、2月26日の総別火~3月15日の満行まで外出が禁じられる。

別火
修二会は大きく分けて、2月20日~28日までの「別火」と呼ぶ「前行」と、3月1日~14日までの「本行」に別れ、「別火」とは、日常使っている一切の火と別れるためこの名がついた。まず、手向山八幡宮の宮司が練行衆の別火坊入りや参籠宿所入りに先立って台所・仏餉屋(ぶっしょうノや)、浴室・湯屋のかまどの清祓を行い、火のまわりを清め、若狭井(わかさい)や良弁杉(ろうべんすぎ)に掛ける注連縄に挿す幣を作る。

2月20日夕刻から練行衆が普段の生活で用いる火を断ち切り、堂童子が法会の始まりに当たり新しく燧石(ひうちいし)を打って起こした火で灯した浄火だけを用いて、精進潔斎し、心身を清める為、東大寺の戒壇院に臨時に設けられた「別火坊」へ集まり、入浴の後、運び入れた持ち物一切、並びに常に心に持っている貧欲、嗔恚、愚痴による三毒を吹き払う為、祝詞様の祓文を称え「別火入り」となる。

「別火」前半、20日~25日までを「試別火」と云い、別火坊で作った注連縄を束ねて輪にした「輪注連」を練行衆の自坊を始め、参籠する人々の門口、石灯籠など、二月堂を中心に決まった場所に注連縄を掛け、二月堂に結界を張り、清浄な場が作られる。そして、別火坊では、修二会だけで着る紙の白衣・紙衣(かみこ)の和紙を絞ったり、二月堂の須弥壇(仏様を安置する壇、仏教の世界観により頂上に帝釈天、山腹に四天王が住み、世界の中心に聳え高さ1億2千480万kmの須弥山を模した壇)を荘厳する。

華やかに飾ることで邪気を払う造花の椿(この時期本物が無いので、京都伏見の紅花で染めた和紙で作った椿)を須弥壇に飾る。これは二月堂の下の「開山堂」の境内に咲く奈良三銘椿(さんめいちん)の一つ良弁椿を模した物。練行衆によって2月23日「花ごしらえ」で400個ほど作る。

「別火」後半、26日~28日までを「総別火(そうべっか)」と云い、この頃になると、練行衆全員大広間に集まって起居寝食を共にし、茶湯を制限され、私語を許されず、厳冬でも火の気は廊下の火鉢の炭火だけ。2月27日「椿の花付け」で、造花を大小20本椿の枝に付ける。また、二月堂でのみ履く差懸(さしかけ、音が出る様に松で作る歯の無い下駄)を整え、27日「粟飯(あわノい)」で粟粒を滑らない様に差懸の2箇所に焼き付ける。

また、別火中の大事は、声明の稽古で、練行衆は毎晩読誦し、最後の日に暗記し、声が腹の底から出るよう励むという。また法螺貝の吹き合わせ。そして、別火最終日2月末日、「別火」から「本行」へ移行する為、香薫(こうくん)の行事により練行衆は持物を全て香で清め、午後3時過ぎ、戒壇院から二月堂下の参籠宿所へ移動する。夕刻暗くなってから食堂前で、練行衆が咒師により大中臣祓(おおなかとみノはらい)という祓詞(はらえことば)が、神様に遠慮をして袈裟を少し外し唱えられ、練行衆を祓い清める。そして、咒師がその直後結界を作って、堂童子が童子を伴って登廊の入口に注連縄を張り渡し、行法を妨げる鬼の進入を防ぐ。

本行
3月1日午前0時、二月堂の静寂な暗闇の中、堂童子が石を擦って火花を飛ばして、「本行」が開始する。極わずかな仮眠をとった練行衆が深夜に起床し、参籠宿所横の食堂(じきどう)で和上から「授戒」を受け、直ちに童子の持つ松明で足元を照らされ練行衆が二月堂へ登り、堂内を荘厳して、2週間に及ぶ「本行」の最初の行「日中」が勤められ、これを「開白」と云う。

本行は、二七日(にしちにち)六時の行法と云われ、一日六回の法要を二週間続けるが、前半3月1日~7日までの「上七日(じょうしちにち)」と、後半8日~14日までの「下七日(げしちにち)」に分けられ、一日に13時頃の日中(にっちゅう)、13時半頃の日没(にちもつ)、19時頃の初夜(しょや)、22時頃の半夜(はんや)、23時頃の後夜(ごや)、24時頃の晨朝(じんじょう)と六度の行が行われる。「六時の行法」という。それぞれ、散華行道や称名悔過(しょうみょうけか)、五体投地等の激しい所作を伴う極めて動的な行法である。

「六時の行法」での経文は、1.三礼文(さんらいもん)2.供養文(くようもん)3.如来唄(にょらいばい)4.散華(さんげ)5.呪願(しゅがん)6.称名悔過(しょうみょうけか)7.宝号(ほうごう)8.観音要文(かんのんようもん)9.五仏御名(ごぶつごみょう)10.大懺悔(おおさんげ)11.小懺悔(しょうさんげ)12.破偈(はげ)13.後行道(ごぎょうどう)14.廻向文(えこうもん)等からなる。三礼文は、日中と日没にのみ唱えられ、10の大懺悔と11の小懺悔は、初夜と後夜にのみ唱え、「法華経」から抜粋された「読経」も加えられる。

神名帳(じんみょうちょう)
修二会では経を唱える十一面悔過の他に、毎夜19時の「初夜」に神名帳の奉読がある。神名帳には日本全国60余州に鎮坐する490ケ所の明神と14000余ケ所の神々の名が書かれおり、それを読み上げて修二会を参詣せよと神々を勧請し、19時頃の「初夜」と23時頃の「後夜」に大導師の祈願と咒師の四王勧請が行われる。大導師の祈願は、国家の安全、世界の平和、人類の幸福を祈る作法で、咒師の四王勧請は、大導師の祈願を完全なものとする為、金襴の帽子を被り、金剛鈴を振って、内陣の須弥壇の回りを差懸で床を踏みしめて廻り、大音声に四天王とその眷属を勧請する。

お松明
「初夜」に先立ち、3月1日~11日と13日の19時、12日は19時半、14日は18時半頃、練行衆が屋根の在る登り廊(北石段)を上がる時、足元を照らす大松明が焚かれる。これを「松明上堂」と云い、練行衆11人の内1人は松明を焚かず、一足先に本堂へ上がって掃除をされるので、松明は下座の練行衆から順に10名分10本、間をおいて上堂する。

3月1日~13日は、上堂時に松明が回廊に1本ずつ上がり、向かって欄干の左角から突き出して振られ、その後、童子が振り回しながら右へ移動して、また、欄干の右角から突き出されて振られた後、お松明は回廊を右へ廻って消され、そして、次ぎのお松明が上がるので、全てのお松明が上堂するのに30分以上掛かる。ただ、3月14日は、18時半頃から練行衆10名が10本のお松明と共にいっぺんに上堂するので、上堂すると本堂の舞台の欄干上に10本全てのお松明が並んで振り回され、5分ほどで終わる。

12日の夜には、特大の大松明が焚かれる。孟宗竹の先に杉枝を薄い杉板で駕籠の様にして包み、藤蔓(ふじづる)で縛った「籠(かご)松明」。普段の2倍80キロもあり、この日は一度上堂した処世界役が本堂から下りて、再度の上堂に籠松明が焚かれるから、11名分11本の籠松明が焚かれる。童子により作られた大松明が修二会で焚かれ、二月堂の欄干から振り廻されると一斉に怒濤の歓声が上がり、火の粉を被ると一年間無病息災と言われる。

このように修二会には沢山の準備すべき物があり、それらは二月堂本尊十一面観音菩薩を信仰する沢山の人々によって支えられている。大阪、滋賀、三重、奈良、京都の四〇余りの講組織の人々がいて初めて大がかりなこの行事があるという。松明の材料は京田辺の「山城松明講」による青竹で、また、藤蔓は「江州一心講」により信楽の川縁(かわべり)で採り、芯の「松明木」は三重県名張市赤目一ノ井の「伊賀一ノ井松明講」から東大寺へ送られる。また神衣の材料となる仙花紙は「大阪御正躰観音講」による。

過去帳
修二会では、毎夜の行法の他に幾つかの付加儀礼がある。5日と12日の「初夜」、22時頃に奉読される「過去帳」もその1つ。声明風の節を付けて唱えられる我が国最古の過去帳は、東大寺に功績のあった「大伽藍本願聖武皇帝」を筆頭に、「聖母皇太后宮(聖武帝の母、藤原宮子)」、「光明皇后」、「行基菩薩」、女帝「本願孝謙天皇」、藤原「不比等右大臣」、橘「諸兄左大臣」、インド僧「大仏開眼導師」、「真言宗を興せる根本弘法大師」などの名もあるという。

その後「二月堂縁起」「能」で有名な「青衣(しゃうえ)の女人」の名が唱えられる。元は呼ばれていなかったが、1210年頃(承元年間)の修二会で集慶と云う練行衆が過去帳を読んでいると、目の前に青い衣の女人が忽然と現れ、「なぜ我が名を読み落としたるや」と恨めしげに云ったので、とっさに着衣の色を見て「青衣の女人」と読上げると、にっこり笑って掻き消えたという。それ以後必ず呼ばれているが、その女人が何処の誰なのか、不明という。 なお、「青衣の女人」の後、別当延杲(えんごう)大僧正の次に読み上げられる、「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」とは、平安末期~鎌倉初期の真言宗の僧、俊乗房重源上人のことである。

走りの行法
3月5日、6日、7日と12日、13日、14日それぞれ「半夜」の後、23時頃に、二月堂内を練行衆が息せき切って全力疾走でバタバタと走り廻る1日千遍の「走りの行法」が行われる。これは、兜率天の1日(人間世界の四〇〇年)に少しでも近づき追いつく為で、練行衆は袈裟や衣をたくし上げ、差懸(さしかけ)を脱いで、内陣の中央に置かれた須弥壇の回りを走り廻る。最後に、内陣の手前にある礼堂で、座布団の上へ膝からバタンと膝を打ち付け五体投地をして自席に帰る。最後に末座の練行衆が終わった後、堂司から一滴の香水が施される。

お水取り
付加儀礼で最も有名なのが12日「半夜」の「走りの行法」後、「後夜」で行われる「お水取り」。正確には13日午前1時半頃行われ、二月堂の本尊で秘仏「十一面観世音菩薩」に供える閼伽(仏に供える香水)を「二月堂」下に建っている国重文「閼伽井屋 (あかいや)」の若狭井(わかさい)からを汲み取る行事。これが現在では「修二会」全体を現わす俗称のお水取りになっていて、二月堂との間を3往復して運ばれる香水は、内陣須弥檀の下に埋め込まれている瓶の中に納められる。

普段は水が全く枯れているのに、不思議な事に、3月12日深夜、「お水取りの儀式」の時だけ、若狭国(福井県小浜市)の遠敷(おにゅう)川の水が沸き出すと言われる。毎年3月2日若狭神宮寺の鵜ノ瀬で「お水送りの儀式」が行われる。若狭井の由来は、最初の修二会で、実忠和尚が神名帳を奉読し、全国津々浦々の八百万ノ神、1万5千を二月堂へ勧請したとき、神々が来堂し、行法を祝福したが、若狭ノ国の遠敷明神だけが日本海の沖で魚釣りをしていて、3月1日に東大寺へ来られず、修二会も後2日で終わろうとする12日にやっと到着した。そして、遅刻した詫びのしるしに若狭の水を献上しようということになり、二月堂下の大岩の前で一心不乱に折ると、岩が割れ突如白と黒の二羽の鵜が飛び立ち、泉が沸き出した。そこに井戸が掘られ、石で囲ったその閼伽井が「若狭井」と名付けられた。

噠陀
噠陀は、3月12日、13日、14日の23時頃から行われる「後夜」に行われる火の行法。噠陀とは、サンスクリット語「ダグダ」の地方語、パーリ語「ダッタ」で「焼き尽くされる」「滅し尽くされる」と云う意味。噠陀の行法は、練行衆が「火天役」と「水天役」の1対になり、踊る様に勤める。その間堂内に乱入しようとする鬼を追い祓う為、鈴、錫杖、法螺貝と太鼓の大音が発せられ、同時に堂童子が鐘を激しく撞くと、「火天」は内陣で人々の煩悩を焼き尽くさんばかりに大松明を振り回し踊る。相対する「水天役」は洒水と散杖を持って水を撒く幻想的な行法。

満願
修二会の満願は14日。正確には15日早朝、お釈迦様の命日で、涅槃経が唱えられ、午前4時「牛王宝印(ごおうほういん)」が赤衣をまとった堂童子により練行衆の額に押され、「満行下堂」となる。修二会には、平安時代に東大寺別当であった弘法大師も練行衆としで参加している。江戸時代に松尾芭蕉、小林一茶も拝観し、「法華堂(三月堂)」の「北門」をくぐり、左折した所にある「龍王之瀧」の前に芭蕉の句碑「水取りや こもりの僧の 沓の音」がある。この「お水取り」が終わると、水がぬるみ、大和奈良にやっと春が訪れると言われる。

なお、現在、奈良国立博物館では、特別陳列特別展としてお水取りの期間に合わせて、その歴史と信仰をたどる絵画や文書、実際に用いられた品物を展示している。二月堂縁起、二月堂曼荼羅、香水壺、香水杓など。是非ご覧頂きたい。

(なおこの記事作成にあたり、下記「奈良観光ホームページ」を参照させていただいた。是非ご覧下さい)
http://urano.org/kankou/index.shtml
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コメント (7)
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