住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

朝日新聞(平成30年11月25日)の記事から

2019年01月26日 07時33分13秒 | 仏教に関する様々なお話
仏教そのもの

昨年11月25日日曜日の朝日新聞「視界良考」欄に左のページのような記事が掲載されました。

下に「仏教由来の欧米技法 逆輸入」とありますように、これまでにも何度か紹介してきた、アメリカのジョン・カバット・ジン博士が考案した、マインドフルネスという瞑想法が、ついに日本企業の研修に用いられ出したという内容です。

名越康文さんという精神科医が記者と同行して、NTT東日本の企業研修に参加し解説しています。

11月13日に、東京都府中市の研修施設で50代の主査67人を対象に行われた研修です。写真にあるように椅子に座り、講師からの研修内容の説明もそこそこに瞑想に入ったとあります。

はじめに、「吸う息と吐く息。自然な呼吸を見守っておきましょう」と語られ、鐘を鳴らし、瞑想。「長く感じたがわずか一分半」

「たいがいの人は、いつも頭はこんなにせわしなく働いているのかと、びっくりするんじゃないでしょうか。それに気づくだけで収穫です」と。

さらに、「瞑想は自律神経を整え、循環器系や免疫系などに良い影響があることがだんだん分かってきている」と解説されています。

次に、「立って、左足を横に開いて浮かせ、その足をゆっくり着地させる。その時の心の変化をよく見て下さい」というボディワークなども行われ、最後に「この瞬間、瞬間に意識を向けましょう」と指導され、十分間の瞑想が行われました。

終了後、参加者はペアを組んで、二時間近い研修の感想を語り合ったということです。

「日本の企業は米国より十年遅れています。ようやくここまで来ましたね」と名越氏は感想を述べています。私の実感としては、二、三十年は遅れていると感じますが、はたして定着するかどうか。

「加齢に伴う自律神経の乱れ、重い責任、上司や部下との人間関係・・・。会社員の精神疾患は大きな社会問題だ。名越さんは、不眠症になる中間管理職は多い。そうなる前に、瞑想でうつ病の予防が期待出来ると思います、と言う」

「宗教が受け入れられにくい日本。信仰の要素を抜いた瞑想法は新しい企業文化として、まずは受け入れやすい土俵」とあります。が、そもそもの仏教は、私たちの考えるような信仰の要素がない純粋な瞑想による精神的解放を教えるものでした。

企業研修でも、その講師が間違いなく教えてくれることを信じて参加するのと同様に、お釈迦様に対して、正しく導いてくれるお方であるとの信のみが必要なことだったのです。

インドでも、昨今アメリカ経由のヨーガがブームになっています。この記事にあるような展開は、日本の仏教にもよい影響がもたらされるものと歓迎したいと思います。     

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なぜ秘仏なのか

2019年01月07日 20時13分31秒 | 仏教に関する様々なお話
お正月には、何組かのご家族が玄関から客殿に上がり、新年の挨拶をしてお茶を飲み歓談されます。そして、本堂にお詣りして御先祖のお位牌を御本尊前に出して心経をお唱えになります。そのあるご家族の方から、「御本尊様はこの次はいつ御開帳ですか」と問われました。國分寺の御本尊藥師如来は、等身大の御像ですが、普段厨子の中に安置されておりそのお姿を拝することは出来ないからです。

御本尊の厨子の前には三百年祭の時に撮した御本尊様の写真が掲示されているので、「この写真を撮った三百年祭で御開帳しましたから、この次は六百年祭でしょうか」と冗談交じりに申したのでしたが、そんな先にならないうちに一度御開帳の時期を考えねばならないかとは思っておるところであります。

さて、ではなぜ秘仏なのでしょうか。多くのお寺でわざわざ御本尊を厨子の中に安置して扉を閉めたままにしています。知り合いの東京のお寺では年二回御開帳の日を決めて、その日に盛大に法要を勤められている所もあります。国宝や重要文化財の指定を受けたが為に、定期的に御開帳をしなくてはならなくなったというお寺もあります。それがために、御開帳していないときには金箔などまばゆいばかりであったのに、毎年御開帳をしているお蔭で輝きが薄れてきたと心配されるケースもあるようです。また長野の善光寺の御本尊である三国伝来の善光寺如来のように絶対秘仏として御開帳すら認めない仏様もあります。

なぜ秘仏なのか。調べてみますといろいろな理由が考えられるようです。まさに保存や安全のためであるとか。その霊験、御利益のためであるとか。御開帳したときのありがたさのためであるとか様々です。ですが、私は、これはもともと仏様とは姿形ではないからであると考えています。姿形からその仏さまの教えなり、御利益やメッセージなどを受け取るという大事な意味もあることはありますが、やはり仏様とは、特に本尊様となるような仏には、姿や形ではそれを受け取って欲しくない、教え、真理、智慧というものを感じ取って欲しいということではないかと思います。

そもそも仏とは、教えを説く人のことです。お釈迦様は自ら「如来は法を説く者なり」と仰られているように、まさに法を説かれる存在こそが仏なのだといえます。だからこそありがたい教えが今日まで残り伝えられてきて、私たちはその教えにより、苦しみを除き心癒やすことができています。

あたりまえのことですが、賽銭を投げて手を合わせ御利益を戴くための存在が仏ではありません。貴重な金銭を投じて欲心を祓い、一時だけでも合掌して仏を拝し、心あらためた功徳により何事かが得られるかもしれないということに過ぎません。本来であれば、仏様の前でお経を唱えたり、念仏をしたり、真言を唱えて、心静かに念じて心浄める、そうしてこその功徳、それを御利益と言い換えているのすぎないでしょう。

ですから、仏とは、教えであり、真理であると考えるからこそ、たとえば、五輪塔、そこから派生して仏塔、仏塔の一つとしてお墓の石も拝む手を合わせる対象になるのです。五輪塔は、地水火風空の五大を表し、それがこの宇宙の成り立ちであり、そのものであるから、宇宙の真理そのものを体とする大日如来そのものであるということから五輪塔は仏そのものであると考えられるのです。そして、その五輪塔の一番下の方形だけを長くしたものとして縦長のお墓があり、仏塔として拝するということになります。

ですが、もちろん、美しい仏像を前にして、信心心を起こすということもありましょう。ですから、古の仏師が心を込めて彫刻した素晴らしい美しい仏像を意味の無いものだとか、本来のものではないなどといいたいわけではありません。思わず見とれてしまうような仏そのものを感じ取れる見事に制作された仏像が実際に存在することも確かなことでしょう。

それはそれとして、秘仏をどう考えるべきかということについて思考するならば、本尊を秘仏としているお寺の御本尊は、それを姿形として捉えずに、その教えを説き伝える存在としてあると考え、教えを弘め精進修行に努めるべしというメッセージを秘めた存在として受け取る必要があるのではないかと思えるのです。つまり、より積極的に仏教を、仏の教えを実践として受け取るべし、いかすべし、伝えるべし、との仏の意志を感じ取るために秘仏があるのではないかと思うのです。


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一本の電話から

2019年01月04日 11時27分23秒 | 様々な出来事について
昨日三日昼前に一本の電話があった。かつて日本の古寺巡りというバスツアーで案内をしていた頃に、よくご参加下さったご主人からだった。電話の要件は、身寄りの無い知り合いが亡くなったのだが、長く施設にいたこともあり、葬儀に立ち会う人もないのだが、今はやりの直葬ではかわいそうだから、通夜代わりに今日晩にお経を上げてもらえないかとのご依頼でした。檀那寺も宗旨もわからず、心許ないことではありましたが、お困りのご様子なので通夜に読経だけで良いのですねと確認した上でお引き受け致しました。

亡くなられたご婦人は九十七歳。二度結婚したものの夫に早く死なれて子もなく、ずっと一人で商売をして暮らし、老後は施設暮らしで亡くなられた、薄幸の一生であったとのことでした。読経の前に、棺の窓から御挨拶しご縁あってお経を唱えますことをお断りしました。礼拝焼香の後、懺悔文、三帰三竟、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、開経偈、理趣経一巻、無量寿如来大呪、光明真言、御宝号、回向文。

読経終わり、少しだけお話し申しあげました。「この度は、ご縁あってお招きいただきお経を唱えさせていただきました。故人様とは生前お会いしたこともなく、お話ししたこともないのですが、先ほどうかがいましたら、ご家庭に恵まれない人生であったと、気の毒な幸せの薄い一生であったとうかがいました。

私たちは、生まれてくるとき、赤ちゃんとして、純粋無垢に見えるわけですが、みんな業をもって、善い業も悪い業も沢山抱えて生まれてきます。何回も生まれ変わりしてくる中で抱え込んだ業にしたがって生まれ、その後様々な出会い行いを繰り返して新たな業を作り重ねて、長い人生を過ごして参ります。それが外見上ではどのように見えましても、大事なことは、ご本人の持って生まれてきた業をよりよいものにし、心をより清らかなものにするべく、学び多い人生であったかどうかということです。

厳しい苛酷な人生であればあるほどそこから学び糧とするものは大きいのではないでしょうか。故人様は、そういう意味において、ご本人にとりましては、おそらくとても意味のある、価値のある大事な九十七年間をお過ごしいただいものと思います。そう思いつつ、お経を唱えさせていただきました。ご苦労様でございます。明日はご縁有る皆様で懇ろに葬送下さいますようにお願い申しあげます。」このようなお話しをさせていただき退席いたしました。

直葬とまではいかずとも、数年前から、親族葬、家族葬が増えてまいりました。以前のように会葬者が百人を超える普通葬は少なくなり寂しいかぎりであります。盛大にしたら良いというのではなく、人一人が長い人生を生きてくるには周りの沢山の方々のお蔭であるということを考えれば、亡くなればその故人に代わり、喪主や家族、親族がそのことを近隣の方々に御礼申しあげて、故人同様に今後も交誼をお願いする機会として葬儀があり、それがこれまでの本来のあり方でした。

命を大切に、命の尊さと言葉ではいいながら、今私たちのしていることは正にそれに逆行することであると言わざるを得ません。しかしそれだけ近隣とのつきあいの濃さも以前に比べ薄くなり、携帯、パソコン、スマホでいくらでも離れた人とのつきあいが出来ますし、物もネットで注文したら翌日には配達されるようになり、物理的な近隣との深いつきあいが必要ない時代になってしまったということなのでしょう。そうした心の変化が、人が亡くなっても、身内だけで済ましてもよいだろうと思えるほどに近くの人との交流が浅くなっているということなのかもしれません。しかし、以前のように何度も近隣の葬儀に出席して人の死をみとることのなくなった現代人は自らの人生の行く末を考える機会を失っていることも忘れてはならないでしょう。


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平成31年元旦護摩祈祷

2019年01月02日 16時44分33秒 | 備後國分寺の風景
元旦護摩祈祷後の法話

あけましておめでとうございます。ご苦労様です。今年もこうして皆様の読経の中元旦のお護摩を焚いて年越しすることができ誠にありがたく、感謝申しあげます。護摩札をお加持していて気がつかれたかもしれませんが、今年は特に除災招福、無病息災を祈願される方が多く、昨年立て続けに豪雨や地震、台風に見舞われた影響かと思われます。お陰様でこの福山特に神辺では余り被害が大きくなかったわけですが、私たちの所も例外ではあり得ないというひしひしとした危機感が感じられました。

今年は何とか災害のない年であって欲しいと願う所ですが、そのことを誰よりも願われているのが今上陛下ではないかと思います。平成最後の年になるわけですが、平成の時代は戦争がなくその点ではよかったのですが、阪神大震災から以降毎年のように地震や台風などの被害にあい続けました。何とか今年退位して新しい天皇に譲位する年、何事もなく穏やかな年であって欲しいものです。

いろいろと心配の種は尽きず、天災ばかりでなく、皆様の身の回りには常にいろいろな問題が降りかかることと思われますが、護摩のご祈祷は、いつも申しているとおり、私たちの心にある様々な思い、願い、悩み、計らい、憂い、わずらい、そうした心を護摩の火にくべて、仏様にお預けする、放下と申しますが、仏様にお任せする、ゆだねてしまい、心をきれいに、さっぱりと、願いが叶うとか、かなわないとかは二の次であって、すべてのことは仏様の思し召し次第として受け入れる、そういう心がととのって、心しずまる、おだやかになる、それこそが眼目であります。

仏教の学問的にも心の清らかさとは、心を憂鬱にするもの、わずらうものがない、まったく自由な心のことを言います。私たちは何を見ても聞いても、好き嫌い、良し悪し、役に立つ立たない、損か得か、そう一瞬にして判断して、好きなものよいものには欲が、嫌いなもの悪いものには嫌悪感が生じます。そうして、あれこれと考え、わくわくしたりクヨクヨしたり、浮かれたり落ち込んだりと心弾ませることになります。

それは自分にとってどうか、自分中心に自分の尺度でものを考える習慣が、自分という思いがある限り、どうしても抜けることがありません。江戸時代の小釈迦と言われた慈雲尊者という偉いお坊様が、「身を思う心こそ先ずこの世より身を苦しむる心なりけれ」と詠んでおられますが、身とは、身どもとも申しますが、自分のことですから、自分を思うその心がいまこの世で自分を苦しめているのだぞということです。

私たちは人のためと思いながら、よくよく考えてみれば、みんな自分の損得と感情で物事を考えているものです。人のことを心配しながら、自分にとって困るとか、悲しいとか、厄介だからという思いが裏側に隠れていたりするものです。思い悩み、思いわずらい気が重い、くたびれるというようなとき、自分に執着はないか、結局は自分のことばかり心配しているのではないかと考えてみると、案外にすぐに気持ちが楽になったりいたします。

あれこれと考えても考えなくても、結局は結果は同じ事で、何にもならないことは多いものです。それよりも心配ごとは仏様にお預けして、今執るべきこと、先に必要なことは何かと適切に判断し行動するだけでよいのではないかと思います。思い計らいは仏様にお預けして、余り考えすぎないで、この一年をゆったりと過ごしたいものだと思います。本年もどうぞ宜しくお願い致します。


平成31年元旦護摩祈祷




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