住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

進化しているか

2008年12月24日 10時13分22秒 | 様々な出来事について
私たちは進化しているのだろうか。いや進歩しているのだろうか。十年前、百年前、一千年前の人と比べて私たちは賢くなっているのだろうか。科学技術の進歩。産業革命による大量生産、大量消費。運輸、通信技術の発展。医学の進歩と医療技術の進展。何をとっても過去のどの時代よりも今の私たちはそれらの恩恵に浴し、それらを駆使する進歩した立派な優れた現代人だと思ってはいないだろうか。本当だろうか。

昔はよかったというのはバカの言うことですよと言われたことがある。たしかに、私の子供の頃は、洗濯機は洗いをする回転板のついた水槽一つで、絞るのは、二つのロールの間に洗濯物を通し薄焼き煎餅のようにしてハンドルを回して絞ったものだ。

炊飯窯も、焚くだけで、保温は別の保温ジャーがあって移し換えた。テレビは白黒、それも小さな時にはラジオしかなかった。電話も小学生の頃だったかに家に取り付けられたが、大きな黒電話。勿論プッシュボタン式ではない、数字の所に開いた穴に指を入れてジャラジャラと金属の爪まで回していく、なつかしい旧式電話だ。

お風呂も今考えると贅沢な木製の風呂釜で煙突付きのガスの湯沸かし器がついていた。勿論トイレにシャワレットなど無かった。こう考えると昔はよかったというのは、たしかに馬鹿げているのかもしれない。今の方がよっぽど便利で快適な生活が送れるような品物がたくさん家にあり、私たちの暮らしを助けてくれている。

昔、インド・サールナートの田舎にいた頃、地元の小学校の先生がよく訪ねてきて、いろいろと日本のことを聞いてきたことがある。日本はいい国だすばらしい国だと言ってくれるのはありがたいが、その理由が、大きなビルがあるとか、街がきれいだとか、産業技術が優れている、いい物を作る、人々も裕福で羨ましいということだった。

あるときあんまり日本はお金持ちだと言うので、そんなことはないと逆にインドの皆さんの方が裕福じゃないかと言ったことがあった。日本人は金があると言ったって、小さな家を大きな借金をして、それを返すために夜遅くまで一生ヘイコラ働かなくちゃならない。何をするにもお金が必要で、お金のために生きているようなものだと。

それに比べれば、近代的なものではないけれども大きな家があり、時間にあまり制約されない仕事があり、親族も近くに暮らし、先祖代々の土地があり、牛も飼い山羊も飼っているあなたはゆったりとした自然の中で充実した人生を送れる、そのほうがよっぽど裕福なんじゃないかと思うと言った。はっきりした返事はなかったが、たしかにそうなのだ。勿論インドにはカーストが未だに厳然とあり貧富の差も激しいものがあるとはいえ、みんながみんな貧しいわけではない。

私たちは豊かになって、便利な快適な生活をしていると思ってはいるけれども、それと引き替えにとてつもなく大切なものを犠牲にしているのではないかとも思う。多くの知識を詰め込まれ、様々な技法技術を身につけ、どこへでも簡単に行ける。でもそれが本当にすぐれたものかと言われるとどうであろうか。昔の人たちと比べ幸せなんだろうか。悩みがなくなったのであろうか。苦しみがなくなったであろうか。争いがなくなったであろうか。

仏教の世界では、実は、私は、人は退化していると考えられるのではないかと思っている。多くの経典が文字で記され、印刷され、どこででも手に入る時代である。昔のように師から弟子に口述暗唱されずとも、簡便に教えを伝えられる時代である。どこにでも仏像があり、お寺も世界中にある。どこの国にも自由に飛行機で行き布教している。

しかし、お釈迦様の時代を頂点にして、最高の悟り(阿羅漢果)を得られる人は時代とともにその数を減らしているのが現実だろう。お釈迦様が入滅されて、最初の雨期にラージギールの七葉窟に仏典結集のために集まった阿羅漢は五百人と言われている。その他にも阿羅漢はおられたであろうから、千人ほどもおられたのであろうか。

当時に比べ人口が増え、教えが広まり、インドから西域、中国、チベットへと広まったとはいえ、本当に阿羅漢を悟られた人がその後何人おられたであろうか。今の時代はどうであろう。ミャンマーやスリランカの山奥に阿羅漢がおられる、そんな話を聞いたことはある。

誠に心許ない時代なのだと言えよう。どんなに精神世界が医学や心理学の進歩によって解明されたとしてもそれによって悟るということは出来まい。たくさんの世間的な知識は逆に邪魔にもなろう。そう考えると私たちは益々進化ではなく退化しているのかもしれないと思えるのである。

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自力他力に思う(12/16改訂)

2008年12月15日 15時01分35秒 | 仏教に関する様々なお話
仏教を語る時、自力やら他力やらと言うことがある。自力は聖道門・難行道ともいい、他力は浄土門・易行道という。自力は自らの行いによって悟りを得る。自らの功徳修行によって悟りに至る。禅宗の修禅がこれに当たるであろうか。

それに対して他力は浄土教の教えということになる。悟りも修行も潰えた時代と言われる末法にあっては、もともと修善はかなうものではないから、ただ仏の本願力に身を任せ、それを信じ念仏するだけでよいとするのが他力であろう。今日では、どうもどの宗派もお唱えすることに重きをなし教えが簡素化し、他力になびく傾向にあるように思える。

しかし、もともとの本来の仏道はこのうちの聖道門であった。「如来は道を説くものなり」と言われるように、本来お釈迦様が何とかしてくれるものではなかった。お釈迦様の時代には多くの修行者が最高の悟り、阿羅漢果を獲得された。それはお釈迦様が何とかされたものではなく、個々の戒定慧の実践による努力によって勝ち得たものだった。

それぞれの修行者の機根に応じたお釈迦様による適切なアドバイスのもとに瞑想修行に励み悟られたということは言えようが。その人なりの道筋をつけるのがお釈迦様であった。つまり仏であっても、何もしない人を悟らせてくれたわけではない。それは死にゆく人に対しても変わらないということだ。あくまでも個人の精進努力によって悟りがあった。お釈迦様は、その神通力によって、その人の機根を見抜き、どこまで出来るか、それと分かってその人にあった修行法を与えられたであろう。

因みに真言宗は三力門という。自らの功徳力、如来の加持力、それに法界力の三つである。自らの修行と、仏のご加護、それに大きく私たちを取り巻く宇宙の恵みによって私たちの行果があると考える。自分と仏だけではない。それら全体を支えてくれている自然、すべてのものの存在、成り立ちにまで思いをいたすところに特徴がある。だから自力でも他力でもないという。

しかし、最近、龍谷大学元学長の信楽峻麿(しがらきたかまろ)先生の『親鸞とその思想』という本を読んでいたら、他力とは、何もしなくても念仏するだけでいい、それでも仏さんの国に行けるなどという、そんな簡単なものではないことがわかった。自分でもしっかり努力するのだけど、それでも何事もそこに他によって成り立たしめられているものがある。それこそが他力であり、そのことに、はっと気づくことによってはじめて他力ということが了解されるとあった。

それで、この他によって成り立たしめられているものとはどのようなことをいうのかといえば、それはまさに縁起ということではないかという。すべてのものに因縁あり。因果因果のこの世の成り立ちそのもののことではないか。だから自分自分、何事も自分がした、獲得したものと思いがちではあるけれども、本当は何一つ一人で成し遂げられるようなものはなく、みんなそれぞれにそれを支え成り立たせてくれているものがある。それは真言宗でいう法界力に相当するのではないか。

お釈迦様のお悟りも、二人の瞑想修行者について学んだ後は一人沐浴して誰に指導されることもなく師もなく自ら瞑想し悟られたと言われるけれども、やはりお釈迦様の悟りに至る過程を支えるたくさんのものがあったであろう。出家者に対し尊敬し布施をするインドの社会風土、それによってたくさんの修行者が存在したこと。お釈迦様ほどの悟りは得られなかったもののかなりの極みに挑んでいた行者が複数いたことなど。

そして、それは、たくさんの給料を持って帰ってくるお父さんも同じこと。決してそれは一人自分が稼いできたと言えるようなものではなく、家族あって生活から何からの支えの元にそのお給料もある。一国の首相や内閣、またお役所仕事も決してそれぞれの頭目一人孤高にその業績が存在するものでもなく、やはり各々たくさんのスタッフはじめ、ひいては国民一人一人のすべての力によって一国を担っている。国の金も税金もみんなみんなのお陰で積み重なっている。当然のことだけれども忘れてしまいがちだ。

また新聞紙上でも連日非正規採用者の雇用のあり方が問題視されているが、派遣法の改悪がその根底にあるとは言え、企業経営者の数字第一主義の行き過ぎが結局は失業者の増大をうみ購買力の低下に跳ね返り、国としては税金も減少し支出ばかりが増大していく悪循環を引き起こす。経営者や株主だけで成り立っているものではないことを知らねばならないことではないか。

俺が俺が、われだけはよくありたい、あんたらとは違うと思いがちなご時世なのかもしれないけれど、すべては全体の支え合いによって成立しているこの世の中の道理をわきまえなければいけないのであろう。だれもが、自力と思っていた中にある他力に気づくことによって温和な世の中になることを期待したい。

お釈迦様は善き人の立場というのは自らの得ている恵み恩恵に気づいていることだと言われる。こうした一つ一つ鋭く気づいた恩恵こそがすなわち他力ということなのであろう。何事もその足元に深く目を注いでみて、それが他のものによって成り立たしめられていることに気づいて欲しい。それに報いる気持ちから慈悲の心も生まれてくる。仏教は寛容な教えであるという。それもこうした発想から生じてきているものなのかもしれない。

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