住職のひとりごと

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日本の古寺めぐりシリーズ第11弾 比叡山延暦寺三塔巡り

2011年11月25日 14時23分18秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
来月1日と6日に比叡山にお参りする。このシリーズ始まってからの念願の寺院でもある。各宗派沢山のお寺にお参りしてきたが、やはり日本仏教の母山と言われる比叡山に参らずには話が始まらない。これからも参詣を続ける上でも意味ある今回の古寺めぐりとなるはずである。比叡山の概略をここで振り返ってみたい。

比叡山延暦寺

延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。山号の比叡山は、叡山(えいざん)と呼ばれ、平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称される。「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称である。

百人一首や愚管抄の著者で有名な慈円は、九条兼実の弟で天台座主になり、親鸞聖人の得度の師でもあるが、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と比叡山を日本一の山と詠んだ。それは比叡山延暦寺が、世界の平和や人々の平安を祈り、かつ国宝的人材育成の学問と修行の道場として、日本仏教各宗の祖師高僧を輩出し、日本仏教の母山と仰がれているからである。

また比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた琵琶湖を擁し、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地であり、このような美しい自然の中で、1200年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されている。

歴史

比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であり「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていた。東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄和尚(766~822)である。

最澄
最澄は、俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた。15歳の宝亀11年(781)、近江国分寺の僧・行表のもとで出家得度、最澄と名乗る。20歳の延暦4年(786)、奈良の東大寺で具足戒を受け、官僧となった。

青年最澄は奈良の大寺院での地位を求めず、自らの出生祈願を父親がなした比叡山にこもって修行と経典研究に没頭した。最澄は数ある経典の中で法華経の教えが最高のものと考え、中国の天台大師智(ちぎ)の著述になる「法華三大部」(法華玄義、法華文句、摩訶止観)を研究した。

延暦7年(789)、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後弘仁14年(824)のことであった。

時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に盛んになった。この頃最澄は皇室の仏事に執行する「内供奉十禅師」の一人となる。

延暦21年(803)、最澄は還学生として、延暦23年(805)、遣唐使船で唐に渡る。最澄は、天台山に向かい、天台大師智(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。

また、帰朝間際に、越州(紹興)の龍興寺で順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいる。このように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えたのが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合仏教学問所としての性格を持っていた。後に延暦寺から各宗の宗祖を輩出した因がここにある。

大乗戒壇の設立
延暦25年(806)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけた念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧の養成を可能とすることになる。

最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏することができるとしたので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。

最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じ、比叡山で後進の指導に当たらせ、また日本各地で仏教界の指導者として活動させたいと主張した。大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可された。

大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。慈覚大師円仁(794 - 864)と智証大師円珍(814 - 891)は唐に留学し多くの仏典を将来、天台密教の発展に尽くした。

しかし、のちに比叡山の僧は円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになる。正暦4年(993)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、山門派(円仁派、延暦寺)と寺門派(円珍派、園城寺)は対立抗争し、抗争に参加し武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。

円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)が延暦寺中興の祖として知られる。火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。

また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。

比叡山で修行した著名な宗祖としては、法然、日本の浄土宗の開祖。栄西、日本の臨済宗の開祖。慈円、歴史書「愚管抄」の作者、天台座主。道元、日本の曹洞宗の開祖。親鸞、浄土真宗の開祖。日蓮、日蓮宗の開祖がある。

武装化
その後、延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。

延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿をかついで強訴するという手段により、時の権力者に対し自らの言い分を通した。また、祇園社(今の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の戦争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下にあった。1070年には祇園社は鴨川の東側の広大な領地を所有し、朝廷権力から承認された無縁所となっている。

このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力とは治外法権となり、一種の独立した状態であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び、南都北嶺と言われた。

武家との確執
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教(よしのり)である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗して将軍となって後は比叡山と対立。永享7年(143)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首。

これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺したと言われる。同年8月、将軍義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置したという。

なお、義教は延暦寺の制圧に一時的には成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化していった。戦国時代に入っても延暦寺は独立した状態を維持していたが、明応8年(1499)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。

また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。元亀2年(1571)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持って立ちはだかることが天下統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き払った。

これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が焼け死んだ。この叡山炎上は、京の街からも比叡山が燃え上がる光景がよく見えたとと言われる。また、記録によれば、この時多くの居ないはずの女、子供が逃げだしたとされているが、これは山麓の坂本の諸堂も炎上したため町屋に住む人々が皆逃げた光景からいわれたものとも言われる。

信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。しかし、家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、皇室から座主を迎え法親王として江戸寛永寺に滞在するなど天台宗の宗務の実権は江戸に移った。

現代
昭和62年(1987)8月3日、8月4日両日、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦猊下の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれている。

平成10年には、私のインドの師ベンガル仏教会総長ダルマパル師が招待され、開会に先立ち三帰五戒をパーリ語でお唱えになった。このあとダルマパル師は、東京浅草の浅草寺にお参りになり、そこで私も合流し、普段は入れない伝法院で貫首様と現天台座主半田猊下ともご一緒に親しくお茶席に侍ることが出来た。

半田猊下はいつもにこやかに和やかな雰囲気を醸し出されていたことを記憶している。平成21年には高野山に天台座主としてはじめて参詣され松長高野山管長とも親交を温められているばかりか、今年9月15日には石清水八幡宮の放生会に140年ぶりで導師をお勤めになられ僧侶が出仕した法要をなされている。誠に懐の大きな天台座主らしい座主様である。そんなところからも今回の比叡山参詣は私にとっても誠に感慨深い参詣となるはずである。

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