住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

功徳について

2021年11月01日 17時14分48秒 | 仏教に関する様々なお話
功徳について (昨日の法事後の法話のために)



功徳というのは積むものです。どれだけたくさん功徳を積むか、それによって生き方も変わるし、よき人たちとの人間関係もでき、よき人生を送り、来世にも影響すると考えるのはインド人くらいでしょうか。いやいやミャンマーやタイの仏教徒でも、昼夜働いてたくさん稼いで仏塔をつくり高僧を招いて開眼してもらうという人もあるようです。それは自分によき来世、恵まれた幸福な来世をもたらすはずだと信じての行為であり、すさまじいばかりの信仰心だといえます。

日本にはそこまでの人はないかもしれませんが、信仰とも思わずに立ち寄ったら必ず神社やお寺で神仏に手を合わせ賽銭を投げる人はあるでしょう。きちんと仏壇に向かって毎朝お経を唱えている人も多いはずです。こちらの本堂にも毎朝お勤め途中に何人かの方々が参ってきて、賽銭を入れ、鐘を撞いて手を合わせていかれます。それも功徳。布施・愛語・利行・同事といいますが、他者に必要なものを差し上げたり、してあげたり、やさしい言葉をかけてあげたり、話を聞いたり、相手のためになることをして、一緒にいて苦楽を共にする。そうした何気ない行為にでも功徳はあるわけです。

徳を積むというのは自分のためでしょう。天眼第一の仏弟子にアヌルッダという長老がいました。この人は目が不自由で、ある時衣がボロボロで繕おうとしたのに針に糸がどうしても通らない。そこで心中で、「誰か私のためにこの糸を通して功徳を積み増そうと心を起こしてくださる方はござらんか」と問うたといいます。するとすぐに後ろから「私が功徳を積ませてもらおう」と声がかかりました。それは誰あろうお釈迦様に外ならなかったのでした。

驚いたアヌルッダは、「いやいや世尊のような道を極め、すべてなし終えた方が功徳を積むこともございますまい、他のまだまだ福徳を積むべき人に申したまでであります」と答えました。するとお釈迦様は、「何を申すか、功徳を求めることで私に過ぐるものはいないではないか、施しも、功徳も、慈しみも、説法も、求道もこれでよいということはないのだから」と説かれたという話が伝えられています。どんな人でも、もう十分ということはないのだということでしょう。お釈迦様であっても、日日慈しみをたれ法を説き施し教え諭し、道を求めておられたということなのですから。

またある時大病を年老いて患った比丘があり、身動きもできず日々痩せ衰えて、もう幾ばくもないことをさとり、最後にもう一度だけお釈迦様にお会いして礼拝して死にたいという願望を持ったのでした。それを誰彼となく話すと、そのことがお釈迦様に知れて、お釈迦様が目の前に現れ、「そなたにもなんども話したではないか、すべてものは移ろいゆく、無常のものなればすべてのものは生と滅とを繰り返していることを。私はそなたに礼拝されるためにいるのではない、法を説くためにいるのである・・・」とだけ話されて去ってしまわれました。ですが、その短い説法によって、この老比丘は解脱して、間もなくに息を引き取ったとされています。

この話から、お釈迦様にとっての功徳とは、ひと時の喜び、安心を与えることにあるのではなく、その人にとって本当にすべきこと、最後に残された命の灯にかなう最高の価値あることを授けること、この場合にはまだ最高の悟りに至っていない比丘であったので法を説きそれによって悟らせることだということがわかります。まさに、功徳の最高のものとは悟りなのだということを教えてくれている逸話のように思えます。その悟りのためにも、私たちは小さな功徳を日日積み増して、よき人間関係をきずき、それによってよき人生を歩み、よき来世に生まれ、さらにさらに精進を続けてまいらねばならないと思います。

亡くなった故人も、みんな功徳を積むために来世に逝ったのです。そこに少しでも、前世に縁あった私たちが経を聞き、ともに読み、塔婆を立て、仏を礼拝する、その功徳を来世にある故人にむけて回向する、功徳を手向けることによって、ともどもに悟り・菩提に向けて前進することを願うというのが今日のこの法事と言えます。自分のために、功徳になるからこそ故人にも手向けられるということになります。つまり、私たち自身も最高の功徳である悟りに向けて功徳を積み生きるということが大切だということになるのだと思います。・・・。

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いま、あらためて仏教徒にもとめられること

2021年11月01日 00時00分00秒 | 仏教に関する様々なお話
いま、あらためて仏教徒にもとめられること
(今年4月27日投稿分と同内容であることをお断りいたします) 




混迷を深めるこの時代に、私たち仏教徒はいかにあるべきなのか。私たちにとっての仏陀であるお釈迦様の事跡に則り考えてみたい。

①世間の通説にとらわれず自ら考える
お釈迦様は、紀元前六世紀インド北部の小国釈迦国の王子として生を享け、出産時に母を亡くし継母に養育された。そんなこともあってか、幼少の頃からよく物思いにふける方であったと伝えられている。気がつくと木の下に佇み目を閉じて黙想ないし坐って瞑想されていた。中インドの大国コーサラ国の属国として釈迦族の置かれた現実を思い、自分の立場をわきまえつつ、生きるとは何か、なぜ苦しみ多き人生を人は生きねばならないか、どうあるべきかと、沈思瞑想に耽られたのではないか。

出家された時のいきさつを語る伝説に四門出遊という物語がある。ある日西の門から城を出て街を周遊すると老人に、また別の日に南の門から出ると病人に出会い、若さや健康への傲慢な心が消滅したという。また西の門から出ると死者の葬列に遭い、自分も死によって人生が突然終わることを知り、北の門から出たときには出家者に遭遇し、その清々しい姿に憧れ俗世間を捨てて苦からの解放を目指す道に歩むことを決意されたとする。そして、ヤショーダラー妃に子息が生まれ、跡取りができたことを確認して城を出て出家なされた。

私たちもお釈迦様が思索されたように、様々な怖れ悩み苦しみ違和感を感じつつ生きている。そうした日々感じられる生きずらさ、悩み苦しみのもとを自ら問う、問い続けることが大切であろう。この一年コロナコロナに明け暮れ、様々な疑問に出会う。症状のない気道感染症とはいかなるものか。そもそも検査に、なぜ発明者であるキャリー・マリス博士がウイルス感染の判定に不向きとしたPCR法が使われるのか。PCR陽性者はなぜ感染者とされるのか無症状感染者からの感染があるとして全世界でマスクを強要するなら、徳島大学大橋眞名誉教授が指摘されるように、なぜその実証実験の一つもなされないのか。色々と疑問に感じるであろう。そうした疑問を新聞テレビの報道を鵜呑みにして受け流してしまわずに、それらひとつ一つについて自ら考える、情報を集める、思索するということが何よりも大切なのだと言えよう。

②祈りではなく真実を知る
そして、お釈迦様は、当時人々が神々の世界を信じ、神の意向によって人々の禍福が決定すると考えられ、ヴェーダ聖典に規定されたとおりに祭祀儀礼を間違わずに盛大に厳粛に勤めねばならないと考えられていた時代に、祈りではなく、この世の中の真実、真理を悟ることによって智慧を生じ、開悟された。ある経典によれば、深き禅定に入り初夜に自らの過去世を回想し、中夜に他者の業による転生を、後夜に苦を導く煩悩の生滅を如実に知見して解脱されたとする。

私たちも、悩みの元となることの真実に気づくと、それまでモヤモヤしていた気持ちが嘘のように消滅したりするが、真実を見極めることにより心は静まり平穏になる。今の世の中の恐怖や不安も、この事態に至る真相、真実を知ることによってしか解決されないであろう。祈りも大切ではあるが、何よりも私たち仏教徒は真実を知ることを優先するべきである。

そのためにはこのパンデミックはいかなるものなのか、自然発生のものと言えるのか、米国の医学者ジュディ・マイコヴィッツ博士が指摘するような計画性はなかったのか、その目的は何か。なぜ安倍総理は昨年春にこの感染拡大こそ第三次世界大戦であると語ったのか。戦争とはそもそも何か。世界経済フォーラムが今年のアジェンダとするグレートリセットとは。すでにワクチン接種が進行しているが、その必要性や中身副反応や死亡についての情報はほとんど開示されないのはなぜか。などと考えを進めていかねばならないだろう。多くの人がこのコロナ騒動の真実に気づくことなく、祈りだけで事態が収束することはないであろう。

③お釈迦様を人生の理想とする
悟りを得たお釈迦様は、この真理は世間の生きることに耽溺している人々には理解できないと考え、法を説くことを逡巡される。がその時、インドの最高神である梵天が現れ、「法が説かれなければこの世は破滅してしまう、汚れの少ない者もあります、尊師よ法を説かれよ」と懇請されて、お釈迦様が天眼により世の人々を改めて見渡してみると、確かに、蓮が水中で育ち、水の中にあって咲くもの、水面で咲くもの、水面の上に伸びて咲くものがあるように様々な生命があり、煩悩薄き者たちは説法により解脱に達することができるであろうと考え、法を説くことを決意なされた。

これを梵天勧請というが、つまりお釈迦様は、説法した人に最高の悟りを得て欲しいが故に法を説かれたのであり、それらの記録が経典である。その経典を読誦し思惟する私たち仏教徒は、お釈迦様の願いである悟りを最高の理想として生きる人々であると考えられよう。人生の生きがいや目標の先にはいつも悟りという最終目標があるのだと思って生きることが願われていると言えようか。

仏教徒とはお釈迦様の悟りを最高の理想として生きる人のことである。そう思えるならば、何があっても、どんな時代になったとしても、目標を失うことなく生きることができる。体温を計られ、マスクをつけさせられ、人との距離を測られる。さらに自宅軟禁を強いられるような不自由な時期をすでに経験した。さらに昨年7月に成立したスーパーシティ法が今後施行され、個人情報が断りなく情報統括機関に開示されるような管理監視社会に向けて歩みを進めることになるという。

しかし、そうして、たとえ自由が制限されて、検査やワクチン接種により選別されるような時代となっても、最終的な目標を失うことなく生きることが私たちには必要であろう。今生で解脱することがかなわないならば何度生まれ変わっても仏教と出会い、お釈迦様の教えを頼りに悟りを目指すことを生きる目標にすべきではないか。だからこそ私たちは故人に成仏を願い、法事でも何回忌の菩提のためにと供養をささげる。

④自他の考えの違いを認める寛容な社会を目指す
お釈迦様は、生涯にわたり縁あった人々に法を説かれるが、その説き方を対機説法という。法を説く相手に相応しい説き方をされた。農夫なら農夫の分かりやすいように、学者ならそれに相応しく、また楽器を演奏する人ならその楽器について説きながら理解が深まるように話をされた。それぞれの個性を重んじ、個々の立場考え方を尊重しながら法を説かれた。つまり仏教はみな同じと捉えることなく、それぞれの人の考え、それぞれのやり方、生き方を尊重する立場といえる。仏教徒は、自らの考えをもち、生き方を持つものとして扱われ、誰々が言うからではなく、みんなそうしているからではなく、人と同じようにしていたら良いというのでなしに、自らの考え、他者の個性や意向を尊重する教えである。

すでに、検査を拒否したり、飲食店などの時短命令に服さないものには罰則を科すというところまで社会がいびつになってしまったが、より寛容な姿勢が望ましいのではないか。全くウイルス予防に効果がないとされるマスクが半強制のごとくにすでに社会に浸透し、ノーマスク者を異端とみなす風潮も生まれている。医療機関にもよるのだろうが、厚労省が自己の判断に任せるとしているのに、医療関係者でワクチン接種を拒否すると職場から締め出されるような雰囲気があるという。他者の考え思いを慮ることのできない社会になりつつある。単一の価値観、思想しか認めないような、風紀がすでに漂う。お互いに監視し合うような恐ろしい時代になりつつあるということを知らねばならないだろう。故に仏教徒ならば、そうならないよう他者の考えを認め合う寛容な社会を形成することを目指すべきであると考える。

⑤妄想の中に生きるのではなく、今の現実を生きる
最後に、お釈迦様は入滅に際し、「もろもろの現象は移ろいゆく、怠ることなく修行を完成させよ」と言い残された。怠ることなくというのは、特に出家の弟子たちに常に説いた不放逸という教えのことであるという。普段何かをしていても、そのことに心はなく、様々な刺激に心が移り変わり、過去を回想し、未来を都合よく想像し妄想する。「今日の感染者数は・・・」、と毎日耳に入れていれば、怖い恐ろしい方向に妄想して自らを追い込んでしまうこともあるだろう。

いずれにせよ、今ここにない過去や未来に心を放逸に遊ばせるのはよくないこととされる。お釈迦様は常に、この瞬間にある現実の行為思考に正念正知であれと教えられている。自分が今の瞬間にしていることを、心の中で言葉で確認しつつ妄想を断ち切る事を心掛け、放逸な心の習慣を止めることが肝要である。仏教徒は、そうして常に冷静な心で生活することが求められている。もちろんそれはそんなに簡単なことではないが。だが、そうあってこそ、かつてのような大衆扇動の道具と化したメディア報道からも解放され、周囲に惑わされることもなく、自らの考えをもち真実なるものを探求しつつ、これまで通りの生活様式を生きることができるだろう。

以上仏教徒として今という時代にいかにあるべきか、何を大切に生きたらよいのか、何がもとめられているのか述べてみた。もう一度まとめると、①世間の通説にとらわれず自ら考える②祈りではなく真実を知る③お釈迦様を人生の理想とする④自他の考えの違いを認める寛容な社会を目指す⑤妄想の中に生きるのでなく、今の現実を生きる。これら五つのことを心において生きることで、付和雷同せずに、真実を見極め、自らの見方考え方を大切にして、精進の日々を過ごすことができるであろう。世界中の仏教徒が、お釈迦様の生きざまからこの五つの指針を受け取り、自覚しつつ生きることによって、人々が昨年から続くこのつくられたパンデミックから救済されることを念願するものである。仏教を信奉する者としてお釈迦様の事跡から導き出した指針ではあるが、他の信仰を持つ方々にも当然同様な教えが導き出されてもおかしくない、ともどもにこの時代に相応しい生き方によりこの時代の難局を乗り越えてまいりたいと思う。


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