住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

悩んでいる君に2

2006年07月20日 07時49分26秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
そのお寺のある東大和市役所に電話をして電話番号を聞きました。そして連絡すると、とても気さくなご住職が出られて、すぐにでも会いに来ないさいと言ってくれました。数日して会いに行くと、本当に普通の家の玄関に「観音寺」と寺号が書かれ、8畳ほどの部屋に十一面観音像と不動明王、、弘法大師の御像が祀られていました。金融機関に勤務後高野山に登り専修学院を出られたことなどこれまでのいきさつを伺いました。

この前年だったか、一人年末年始の休暇を利用して高野山に一人で参りました。とても寒い年で、何軒かの宿坊が水道が凍り付き宿泊を断られました。もう諦めかけたとき大圓院というお寺に予約が取れ、その年の12月30日だったでしょうか、一人新幹線に乗り、難波に出て、急行で高野山に行き、バスで山内に入りました。

高野山に行く前には高野山というのは、まったく異界であって、石畳の道で街灯は灯籠だけで、お寺の他には何もないと思っていました。ですから、はじめて行って、ケーブルカーで高野山に上がり、バスで山内に入りましたら、沢山の車が出入りし、また商店もあり、パチンコ屋までがあるのには少し興ざめでした。

それでも荷物を宿坊に置いて一人弘法大師の御廟のある奥の院へ歩いていきましたら、そこはやっぱり別世界でして、深々と冷え、小雪がちらついてきました。戦国武将の五輪塔などを眺めつつ奥の院への道すがら、何か昔からこの道を歩いていたようなそんなおかしな感覚を憶えたことを記憶しています。

そして奥の院の黄色い衣の行法師さんに「坊さんになりたいんですが」とお尋ねしたところ、「専修学院というところを出れば誰でも坊さんになれます」と言われ、何かうれしくなって宿坊に帰ってきたのでした。次の日早速、その専修学院の門まで行ってみました。しかしその時には勿論その5年後に、そこに生徒として入ることなど夢想もしていませんでした。

そして東京に帰ってきて、大学の友人にその時の興奮を新宿の喫茶店で何時間も語りました。そうして、その後東大和のお寺に毎月通うようになるのですが、大学も卒業間際になり、僧侶になりたいと母親に告げると、青天の霹靂と言うのでしょうか、おそらくまったくお寺の世界という俗世間と隔絶した世界に行ってしまうと思ったのでしょうか、大変な騒ぎになり、一晩泣きながら様々なことを話し合ったことを憶えています。

そしてそんなことがあって、取り敢えず、もう少しサラリーマンとして過ごすことになり、そのままそのときいた会社に勤め、その後大学を卒業して暫くして、他の会社、有名な情報出版企業に転職し、そこに3年余り勤務しました。企画、部長付き、営業などの職種を経験した後、その頃には母親も仕方ないかという気持ちにもなっていたこともあり、高野山に行くことになるのです。が、先に言ったとおり、その間のすべてがとても私には、学ぶべきものがあった、とても意味のある、通るべき道のりであった、ありがたい時間であったと思っています。

会社を変わることでとても多くの人たち、今もお付き合いのある魅力ある人たちと出会うことにもなりました。いろいろと回り道をして、そうしなければ得られないものを確かに手にして、いよいよ出家をすることになりました。

そして、東大和のご住職の師僧筋に当たる早稲田のお寺に行き、またそこのご住職の配慮から、高野山高室院住職齋藤興隆前官の弟子として、全雄という名前をいただき、高野山大学の生徒たちとともに集団得度式を受けました。実はそのときはまだ会社に在籍していたのですが、上司の了解を得ていたので剃髪し得度を受け、僧籍に入ることになりました。

ですが、東京に戻ってみると、実際その剃髪した頭で営業に出るわけにもいかず、一週間くらい社内で待機して、少し髪の毛が生え始めた頃営業に出たわけですけれど、どこの会社に営業に参りましても、意外にもとても好評で、その期の目標をすぐに達成してしまいました。その4ヶ月後に退社するときにも、自分のクライアントを受け持ってくれた営業マンには同行し、彼らもすぐに目標を達成してしまったことを憶えています。

退社後、早稲田のお寺に見習いとして仕事をさせていただき、翌年高野山高室院に入り、4月から専修学院に入学。この専修学院での1年は私にとっては誠に充実した一年でした。月々の収入を稼ぐことから解放され、ただ勉強と修行に打ち込むだけでいい有り難い一年間でした。この間のことはまた別の機会に詳しく語りたいと思います。

とにかく、私の場合は、そうして自分が関心の向く方向へ動くことで出会いが生まれ、自らまったく未知の進路を切り開いて来れたと思っています。その後、インドに行ったり、阪神大震災でボランティアに行ったりとその都度たくさんの人たちと出会い、その方々のお蔭で自分の世界を広げて来れたと思います。そうした出会いによって知り合えた人たちが、そののちに様々な場面で手助けして下さる機縁もいただけたのではなかったかと思います。

こうしたたくさんの人のお世話になり、その方々のお蔭で今があると思います。感謝してもしきれません。疎遠になってしまった人もあり申し訳なく思うこともしばしばです。誰もが誰かのお世話になり、またお世話をしつつ成長していきます。より多くの人たちとの交流はそれだけ大きな世界をもたらしてくれることにもなります。外の世界への働きかけはとても大切なことです。

そして、時間は過ぎ去っていくものです。逆戻りは出来ません。今の自分はいまだけのものです。いまを大切にして欲しいと思います。大切なことは自分の世界、俺の世界があると自信を持って信じることです。進路を変更することに躊躇してはいけません。

今のあなただから出来ることがあるはずです。すべきことがあるはずです。将来に繋がることが。それを探して欲しいと思います。とにかく自分で動くことです。誰に指示されるでもなく、自分が思うことをしなければいけない。人に指図されてうれしいはずがない。自分の思いに自信を持って動いて欲しい。そう思います。
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空の思想は空論か

2006年07月19日 08時54分14秒 | 仏教に関する様々なお話
ある方のベストセラー本にこんな件(くだり)があった。他のことを推奨するのに仏教に触れて、お釈迦様は崇高な思想を説いた、そして仏教は「この世の一切は空であるという大変優れた思想である。色即是空と言い、人間世界のすべては無に帰る。だから現世の欲を捨てて出家者はひたすら修行せよと言われる。しかし、出家者以外には現実味のない、無理の多い思想だ」と結論している。

一流の文化人においてもこうした解釈に留まっていることに些かの焦燥感を抱く。こうした一方的な仏教解釈のまま世に書籍として出回り人々の目に触れ、なにがしかの影響をもたらすことにいらだちを禁じ得ない。しかしこうした仏教理解をもたらしている仏教界の存在、今の法を説くべき人々の責任も痛感する。

まったく余談になるが少し前に比叡山で暴力団元組長の法要が行われた際、世間から非難を受けた比叡山側の弁明の中に、「死者はすべて仏なのですから、平等に扱われるべきではないか」というような説明があったことを記憶している。死者はすべて仏なのですからと簡単に当たり前のように述べてしまい、それをそのまま何の疑問を感じることなく報道される日本の仏教に問題があると私は思った。

何故に死者はみな仏なのか?そんなことを誰が言い出したのか。死ねば仏ならば、葬式も何もする必要も無かろう。難しい教理も必要なければ、戒も、修行も何も必要ない。さらには何をしようがおかまいなし、無法状態の世の中になっても仕方あるまい。何をしてもどんな悪いことをしても死ねば仏なのだから、せいぜいお縄にならない程度あくどいことをして金をつかみ、いい思いをすればいいという人生観になろう。

しかし一方で私たちはそんなうまい話はなかろう。やはり悪いことをしていれば報いはあるはずだというまっとうな考えを持つ、世の中を清らかなものにする人々の思いもある。そのどちらを仏教は支持するのかといえば、比叡山式に、つまり今の日本仏教の通念からすれば、前者の無法者を支持していることにはならないか。

やはり仏教は業論を説き、それに従って輪廻を説く。因果応報を説くのが仏教ではないか。森羅万象すべての因と縁、縁起を説く。そこから空という思想も発達してきたのであろう。だから、主題に戻ると、空とはただ無に帰するということではない。無くなってしまうということではない。何か無の世界というような不確かな超越したところに向かうということでもない。

今私たちが目にしている世界、存在する現象そのもののことだ。実体として存在するかのように思ってしまっている物も自分も実は仮の存在に過ぎない。因と縁、ある条件の下に存在しているだけだということ。それはなぜかと言えば、みんなその物一つ、一人だけでは存在していないから。他があって、他の作用によって、他の助けによって存在している。

みんな他に依存しているということ。他とともにある。すべての存在は繋がっている。共存しているとも言えよう。それは、つまりそのものだけで存在できるものなど無いということにもなる。だから、自分だけよくありたい、自分だけいい思いをしたい、自分だけ幸せに、金持ちになりたいと言ってもダメだよということになる。

私、私、どこまでいっても自分を第一に考えてしまう私たちではあるけれども、また、自分のものと思い、永遠に自分というものがあるように思ってしまうけれども、そんなものも幻想にすぎない。

では、私一人がよくあるためにはどうあればいいか、と考えたとき、やはり周りの人たちがよくあらねばならない、周りの人たちがよくあるためにはすべての生きとし生けるものたちの存在が必要だと気づく必要がある。ではどうすべきかということを教えるのが空という思想になるのではないか。決して出家者だけのものではないし、現実味のない教えではない。

しかし、最後に空が仏教の中心課題でもないことを付け加えておくことも必要であろう。日本仏教は、般若心経、それに導かれるように空ということを誇大宣伝しすぎではないか。漢字になった仏教要語を振りかざすことで何か崇高な思想が分かったような気にさせてしまい、それが実践に結びつかないことに問題があるのではないかと思う。

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はじめて比丘になった人-釋興然和上顕彰7

2006年07月15日 10時40分03秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
「西遊日記」によれば、宗演は、セイロンの僧院で、昼間はパーリ語の戒本を読み、経典を素読し、晩には1、2時間、他の住僧と共に、パーリ語の礼拝、経文の読誦に励んでいた。興然も同様であったであろう。おそらく当時はインド式の、昔の日本で言えば読書百遍意自ずから通ずという古式に則った勉学に励んでいたと思われる。

ところで、戒本とは、パーリ・パーティモッカ(patimokkham波羅提木叉)であり、比丘が守るべき227の戒律について説示したものである。パーティモッカには、まず、性行為、盗み、殺人、悟ったと嘘を言うことなど4つのパーラージカ、つまり比丘をやめ僧伽を追い出される極重罪について規定してある。

次にサンガーディセーサ、欲の心から陰茎を弄し漏精することや女性に触ること、事実無根で他の比丘を非難し追放しようとするなどを戒めたもので、謝罪して他の比丘20人の許しをもって僧伽にとどまる13の重罪を説示する。また女性と一つの部屋に入りふしだらな行為に及ぶなど2のアニヤター、その行いによってパーラージカかサンガーディセーサか、次のパーチッティヤかを決める罪を決めていない戒を説示する。

そして、袈裟や臥具や金銭など持ち物の不正な取得について規定する30のニッサッギャ・パーチッティヤが説示される。これは不正所得の財を棄捨して告白懺悔することで許されるものである。また嘘を言う、他の比丘を罵る、午後食事を摂る、酒を飲むことなどを戒める92のパーチッティヤ、これは他の比丘の前で懺悔すればよい禁戒。

それから、無病の比丘が親族でもない比丘尼から手渡しに食事を施されるなど4のパーティデーサニヤーが規定される。これは一人の比丘に向かって告白することで許されるもの。そして、袈裟の着仕方や在家者の家に出向くときの規定、食事の仕方など学ぶべき75のセーキヤーがある。そして最後に僧伽の争い事の裁決の仕方を説く7のアディカラナサマタが説示され、併せて227の戒律が定められている。

これらの戒律が守られている聖域にともに暮らす僧団を比丘僧伽といい、お互いを善友という。この僧伽の中で共に暮らす、15才以上20才に満たない見習い僧を沙弥という。又は比丘になる前に数ヶ月から数年沙弥として見習い期間を過ごす場合もあるようだ。

沙弥は比丘に比べると遙かに少ないが、不殺生、不偸盗、不淫、不妄語、不飲酒に加え、正午を過ぎて固形物を食さない、歌舞音曲を鑑賞しない、装飾品、化粧などをしない、高い臥具大きな臥具を用いない、金銭を受け取らないという10の戒を守り、比丘になるための修養を積むことになっている。

興然も宗演も日本では既に四分律の大戒を受けていたであろうが、改めてパーリ律を守る上座部仏教僧伽で暮らすために取り敢えず沙弥として黄色い袈裟を纏い、僧院で研鑽を積んだのであろう。
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