ダリアが女児に恵まれたのは、それから二ヶ月後のことだった。
王宮を訪ねた男爵夫妻は、喜びながらも、孫同士が似ていることに驚いた。
ダリアは有頂天だった。
「可愛いでしょう?次は王子を産むの」
そう言って無邪気に笑う。
重圧から解放されたデザントが、その様子を愛しそうに見つめる。
赤ん坊が王から賜った名前は、偶然にも『フレイア』だった。
男爵夫妻は安堵しながらも、胸騒ぎを押さえ切れなかった。
半年後、東の大国アダタイと、国境のカナルで争いがあった。
アダタイは和平の証として、フレイア王女を寄越すようにと迫った。
王子の嫁という名目だったが、事実上の人質だった。
デザントはダリアに「王が決めてしまえば、誰も逆らえぬ。覚悟しておくように」と、言った。
次の日ダリアは実家を訪ねた。
突然の訪問に使用人は慌てて、男爵夫妻を出先から呼び戻しに行った。
三年ぶりの実家は、変わっていなかった。
懐かしさに席をたち、自分が使っていた部屋を見に行く。
そこも全くそのままだった。
子供を産んだ自分が、ここに帰されることはもうないだろう。
ダリアは、くすぐったいような気持ちで部屋を眺め、廊下へ出た。
隣はフィリアの部屋だった。
王宮を出ると同時に、自ら姿を消したという。
模範生の姉が思い切ったことをしたものだ。
どんな理由か知らないが、迷惑なことだ。
ダリアはその部屋の中へ入った。
思った通り、フィリアの部屋もそのままだった。
フィリアは何を考えていたのだろう。
ダリアはチェストの引き出しを開けた。
中には、十通足らずの手紙が入っていた。
フィリアからの手紙だった。
ダリアは夢中で読み漁る。
頭がカーッと、熱くなった。
ー未だに、未だに私だけ除け者にして!ー
「やっぱり帰るわ!」
執事にそう言い捨てて、ダリアは宮殿に戻り、その足で王に拝謁を願い出た。
「アミ!開けて!」
押さえた叫び声と共に、フィリアは夜中に扉を叩かれた。
アミの声だ。
フィリアは飛び起き、扉を開ける。
「カナライの男達が何人も、 あなたと子供を探してる。 きっと役人だ。ここにもすぐに来る」
アミが早口で忠告をする。
アダタイとカナライの話は、フィリアの耳にも入っていた。フレイアを捜す理由には、すぐに思い当たった。
「ありがとう。助かったわ」
そう言いながらフィリアは身支度を整え、フレイアをショールでくるんで麻袋に入れ、 長い布で斜め掛けにした。
アミは皮袋に巾着と食料を詰め込んで、逆の肩に掛けてやる。
「何もかも、本当にありがとう。きっと、幸せでいてね」
「アミ、負けないで」
フィリアが頷いて 借家を後にする。
小路を通って、街を出るつもりだった。
けれどすぐに、人影を認めた。
その人影が走り出す。
次の横道に入って、 やり過ごそうとした。
「いたぞっ!」
抜けた先にも人影があった。
又、 小路に入る。
隠れる物陰が見つからない。
方向を選ぶ余裕はなかった。
フレイアが泣き出さないか、 ヒヤヒヤしながら 小走りで逃げ惑う。
どこを走っているのか、どこに向かっているのかさえ分からなくなってくる。
やがて、 港へ出た。
大きな船が、 何隻も泊まっている。
その中の一つのデッキに、 木箱が積まれていた。
サミが言っていた船だった。
サミの故郷が母港で、子供達とよく遊んでくれた船員が、 船長と副船長になったという。
再会して嬉しかったが、 翌朝発ってしまうと。
その時、フィリアの腕の中から声が聞こえた。
フレイアがぐずりだしたのだ。
その声は小さなものだったが、フィリアには何倍も大きく聞こえた。
今まで大人しくしてくれていたのが、大きな幸運で、それが長く続かないことを、フィリアに覚らせたのだ。
フィリアは賭けることにした。
近くの小舟に乗り込んで、堤防に繋がれた縄を解き、櫂を握る。
船を目指して必死に、けれど静かに漕いだ。
船の舳先に近付くと、縄の先を輪にして、高く投げる。
一回、二回。
三回目で上手く掛かった。
フレイアをしっかりと背にくくりつけ、縄をよじ登る。
何度か手を滑らせて、皮が剥けたが、かまってはいられなかった。
舳先に取り付き、腕の力を振り絞って、同時に船の側面を蹴る。
木箱の陰に駆け込んで、座り込むと、フレイアの顔を麻袋から出し、乳を含ませた。
一度寝たら、なかなか起きない子だ。だから仕事場の隅に寝かせてもおけたのだ。
フィリアはフレイアを寝かし付け、麻袋に入れた。
辺りを見回した。
小さな鍼が目に入る。
左手首の上に当て、歯をくいしばって右に引く。
滴り出した血を絞り『救けて』と、麻袋に書いた。
これで差し迫った危険から、この子を置いたことを察してくれるに違いない。
一番上の木箱を開け、そっと、そっと、置く。
右手をフレイアの胸に当て、祈りを込めて、息を吐いた。
布袋から上着を取り出し、端を裂いて左腕を縛った。
他は丸めて斜め掛けした袋に詰める。
心臓を引き剥がすように、フレイアは小舟へと急いだ。
小舟を元に戻したら、追っ手を連れてこの場から離れるのだ。
もし捕まって拷問されても、絶対にこのことは話さない。
フィリアは縄から小舟に飛び降りた。
節度は守っていた。
乳兄妹とはいえ身分が違う。
とはいえ、生まれてすぐに亡くなったという妹への思いも、重ねていなかったとは言い切れない。
王太子の第二夫人になると聞いた時は、王妃になれるかもしれないと、無理に自分を納得させた。
けれども、王太子は二年で彼女を見限り、その一年後、五番目の夫人を迎える為に、里に帰した。
『どこに出しても恥ずかしくない姫君』を『子が出来ずに帰された女』にして。
今、捕らえられようとしているのも、貴族の姫君だった女性だ。
それが身一つで国を捨て、子を産み育てた苦労は、並大抵のことではあるまい。
なのに連れ戻され、子を奪われようとしている。
この女性も同じ犠牲者だ。
あの男と不条理の。
だから、言ったのだ。
あの人が逃げた逆を指差し。
「あっちに行ったぞっ!!」
と。
あの人が逃げた抜け道に向かって。
「私があの道を見張ります」
と。
翌朝、知らせを受けた船長は、急いで船に向かった。
そこで赤ん坊と血文字を目にすると、出港時刻を繰り上げて早早に港を後にした。