謁見室の天井は、恵みの緑に繁栄の赤が鮮やかだった。
黄金の彫金囲まれた玉座では、王が眉間に皺を寄せていた。
「陛下!フィリアの子をフレイアの代わりに差し出すというのは、、本当ですか?」
デザントの口調も刺々しい。
「赤い巻き毛で名前も同じだ。王女であることも変わりがない。後から苦情が来ても言い抜けられるし、こちらには正式な夫人の子が残る。問題があるかね」
デザントがたじろいだ。
「・・・寝耳に水、だったので。陛下はいつからご存知だったのですか?」
「フィリアに子がいることは、知ったばかりだ」
デザントは三日前から、ダリアが会おうとしないのを思い出した。
久々に月のものが来て、気分が悪いと聞いていた。
あの日の昼、ダリアは実家に行っていたはずだ。
「ダリアですね?」
王が僅かに目を細めた。
「王太子が第三夫人の姉まで望んで逃げられた。と、都中の笑いの種だ。私も伯爵に合わす顔がない。黙っていれば分からないとでも思っていたか?ダリアを責めるよりも先ず、己の行いを恥じるがよい!」
デザントが顔を赤く染め、むっつりと黙り込む。
「話はそれだけか?」
デザントは下を向いたままだ。
「二十七歳にもなって情けない。もう、戻るがよい」
王の目配せで、侍従が扉を開けた。
デュエールは馬を駆っていた。
小雨に打たれた煉瓦の、匂いにさえ気付かない。
王宮を離れて以降、世事には一層疎くなっていた。
カナルの件で、フレイアを寄越せと詰め寄られていると、耳に入るなり飛び出したのだ。
もう、かなりの日数が経ってると聞いた。
その間、ダリアはどんな思いで過ごしただろう。
いてもたってもいられなかった。
デザントを通している暇は無い。
直接王に、自分の策を上奏するのだ。
アダタイ国の王は高齢で、三人の王子には、全員男子がいる。
フレイアの幼さを理由に、金銭で時間を稼ぎ、裏工作で仲違いをさせればよい。
アダタイ国が分裂し、小国となれば、この先カナライが脅かされることも減るであろうと。
フィリアは夜明け前に港町を出た。
肩から掛けた布を外して、外套を着る。
思い切って北に向かった。
裏をかくつもりだった。
途中で少し山に入れば、古い炭焼き小屋もあるはずだった。
カナライからジャナに向かう途中、蹄の音に驚いて、見付けたのだ。
暫くそこに身を隠し、追っ手をやり過ごす。
そしてフレイアを置いてきた船の母港に向かい、その消息を探るつもりだった。
腕の傷からはまだ、血が滲む。
けれど、痛みは感じなかった。
フレイアは自分と一緒に、陸に逃げたと思わせなければならない。
町外れまでは、何とか誘導出来ていたように思った。
けれどまだまだ、見つかるわけにはいかない。
一昼夜歩き通して、フィリアはやっと、目当ての小屋に着いた。
フィリアは大きく息を吐いた。
建て付けの悪い、木の扉を開ける。
少し、暖かい。
奥で何かが、もそりと動いた。
フィリアは総毛立って身を翻した。
ほんの数歩で、左手を捕られる。
強く引かれて体が反った。
痛みで、うめき声が漏れる。
「怪我をしているのか」
年配の男だった。
フィリアの左腕を見つめていた。
「この小屋には、傷を負った獣が逃げて来ることがある。俺は手当てして治るまで置いておく。それでいいか?」
顔を上げてフィリアを見た。
色は黒く、皺は深いが、意外に肌に艶がある。
フィリアは無言で頷いた。
男は次の日、近くのに出掛け、敷布と掛け布団を担いで帰ってきた。
部屋の奥に藁を積み上げ、敷布で覆い、布団を乗せる。
壁に紐を渡し、布を留めて言った。
「ここから奥はあんたの場所だ」
フィリアがしきりに恐縮すると、男は軽く笑った。
その笑顔は、フィリアの祖父に少し似ていた。
「俺は自分でしたいことしかしない。すまながったり、遠慮したりする必要はない」
フィリアは傷に響かない範囲で家事をこなし、男は残りの雑事と炭焼きを続けた。
二人はただ静かに働き、眠った。
それは穏やかで、満ち足りた時間だった。
フレイアのことさえなければ。
三度目に町から帰って来た日、男がフィリアに告げた。
「カナライは半月前に諦めて引き上げたそうだ。王女のアダタイ行きは、金を払って引き伸ばしたらしい」
フィリアの瞳は喜びに輝き、次いで、寂しさに翳った。
男はフィリアの目指す港に、変わり者の知人がいると言って、手紙を書いてくれた。
フィリアは半月かけて、目的の都に着いた。
ここなら、あの船の話が聞けるはずだ。
紹介状を持って訪ねた相手は、白髪混じりの漁師で、皿洗いを探している、宿屋を紹介してくれた。
フィリアはハミと名乗った。
宿屋の主人は恰幅と愛想がよく、料理人のマセラは痩せて無口だった。
干物を作っていたことを伝えると『捌いてみろ』と、魚を預けられた。
銀色の細い魚に、同じ色に光るナイフを走らせていると、フィリアはふいに、不思議な感覚に陥った。
二年前、なんのあてもなく港に着いた自分に、サミは暮らしの基盤を作ってくれ、友人になってくれた。
職場の女達も、なにかと親身になってくれ、だからこそ、子供が宿ったと分かった時の空恐ろしさも、不安も、乗り越えられたのだ。
フレイアが生まれた時は、皆、我が事のように喜んでくれ、一緒に育ててくれた。
追っ手からも上手く逃れられ、山小屋では助けてもらった上、紹介状も書いてくれた。
そして今ここで、干物屋で学んだことが、役に立っている。
全てが偶然で、必然だったような気がする。
自分は、ずっと恵まれていた。
沢山の人と運に、守られ、与えられ、助けられていたのだ。
だからきっと、大丈夫。
フレイアも、きっと。
フィリアは手元が滲んでしまい、肘の内側で目頭を拭いた。