宿の部屋に部屋に戻ると、サキシアは髪留めを引き抜いた。
「大収穫だわ」
そう言うと満足気に肩を上下させ、ベッドに腰掛ける。
「沢山の人が布に興味を持ってくれたわね。何と言っても鋳型の名人と話せたのが良かったわ。渡りに船ってこのことね」
「サキシアが考えたことは、いつも魔法みたいに上手く行くね。来て良かった?」
ギャンも隣に腰を下ろす。
「そうね。お義母さん達には迷惑をかけているけど、期待以上の成果を持って帰れそうよね?」
「お義母さんは孫といられて大喜びだよ。それよりもサキシア」
ギャンが真顔でサキシアを見た。
「昔、王宮で何があったの?」
サキシアから笑みが消えた。
ほんの数秒、襲ってきた過去。
ギャンが名を呼ばれて、散り去っていった痛み。
それで終わりだと思っていたのだ。
「新国王の張り紙を見た時、サキシアは様子がおかしかった。それらは平気なふりしてるけど、王宮の話が出る度、体が硬くなる。立派なお墓を建てたのだってそうだ。王妃がゴミだと思ってくれたものが、高く売れたからって言ってたけど、サキシアの性格だったら、全部自分のものにはまずしない。一体何があったの?」
ギャンにとっては長年の疑問でも、サキシアには藪から棒の話だった。
どうして今までおくびにも出さずに、突然こんな風に問い詰めるのか。
サキシアは事態に着いていけずに、返答が出来なかった。
「ううん。言わなくてもいい。でも、どうしたらサキシアの傷が癒えるの?俺も手伝いたいんだよ」
「手伝うって・・・」
「周りはなるべく巻き込みたくないけど、俺はいいんだ。サキシアが心の底から幸せになれるなら。サキシアを幸せにすることが、俺の幸せなんだから」
ギャンの口調は穏やかで、目は静かだった。
彼がとっくの昔に、覚悟を決めていたことを、サキシアは覚った。
そして、言葉を探す。
今の真実を、確実に伝える言葉。
「私に見る目が無かったのよ」
沈黙の後、サキシアが答えた。
言葉は気持ちに輪郭を与え、声は質量を明確にする。
「一人よがりに信じて、傷ついただけ。それだけのことなの。だけどもう、夢にも見なくなったわ。貴方のお陰よ、ギャン」
サキシアはギャンに抱き付いた。
「私は今、幸せなの。毎日楽しいことで一杯で、過去のことなんて構ってられないわ。さっきは古傷がちょっと疼いただけ。今までずっと、見守ってくれていたのね、有難う。でももう、大丈夫。安心してね」
「本当に?」
ギャンが静かに確かめる。
「本当に」
サキシアはギャンの左肩に、頬を擦り付けた。
『この国の道理は解らない』
それはこの十年ですっかり、王弟妃リリアの口癖になっていた。
隣国の王は、ラウルの父親が不明であるという情報を得、第二王女をあえて、弟のバシューに嫁がせたのだ。
けれど十年前、王妃の不貞が正当化されたばかりか、ラウルが王位に着いた。
父母に色々と言い含められて嫁いだリリアにとっては、まるで話が違ってしまったのだ。
その上バシューが十五才の時、高熱を出したことを告げられた。
リリアは呆然とした。
王太后になる僅かな望みさえ、絶たれたのだ。
その途端、身に纏っていた妖艶な香りも、侍女に習った媚態も、恐ろしく愚かで、滑稽なものに思えて来た。
その羞恥心はバシューへの怒りに変わり、リリアは彼を遠ざけた。
そんな時、リリアは従姉妹のパーティーで恋に落ちた。
従姉妹のサリは奔放な未亡人で、リリアの会瀬にも協力的だった。
貴族の火遊びは、子さえ出来なければ容認され易い。
リリアは解らない筈のこの国の道理にかこつけて、危うい会瀬を重ね続けた。
婚礼の日、バシューはリリアから値踏みするように見られても、特に何も感じなかった。
政略結婚の始まりなど、そんなものだろうと思っていたのだ。
リリアが見せる妙な媚びも、子が欲しいからだと、可愛く感じた。
リリアが変わってしまったのは、ラウルの即位が決まってからだ。
次第に蔑むような雰囲気が混じりだし、やがて怒りが加わった。
十五歳の時、流行り病で高熱を出したことがあるバシューは、負い目を感じ、萎縮していった。
そしてリリアの浮気を知っても、黙認を続けた。