甲板に出ると、昨日よりは風が弱い。
それでも船は、そこそこの速さで進んでいた。
舳先に立つ男が、二人に気づいて快活に笑う。
「おはようございます。昨日は有難うございました」
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
ルージュサンもテンポよく返す。
「お陰様ですっかり。お連れの方ですか?
」
「はい。僕はセラン=コラッドといいます。貴方も揺れに弱いそうですね」
「俺はナザルといいます。父が船乗りだったので酔わないだろうと。甘かったです」
ルージュサンがナザルの左に付き、その左にセランが付いた。
三人並んで海を眺める。
「お父上の跡は継がなかったのですか?」
ルージュサンが尋ねる。
「次男だったし、馬が好きなので馬番になりました」
「今も馬番なんですか?」
今度はセランが聞く。
興味津々だ。
「小間使いです。たまにお嬢様の使い走りをしていたら、そちらが本職になってしまいました」
「この旅も使い走りで?」
「ええ、まあ」
ナザルが苦笑する。
「そちらはどうなんですか?」
「僕はルージュサンに付いて来ました。僕達はあんまり、離れるべきじゃないんです。彼女は運命の相手ですから」
「運命の相手なら、離れても問題ないんじゃないですか?」
ナザルは不思議そうだった。
セランが少し驚いて、早口になる。
「とんでもない。宿命じゃなくて運命ですから。僕は『お互いの休日が合って、ルージュサンの賛歌を思い付いたら、歌いに行っていい』ことになっていますが、それも彼女の身内のトラブルに関わった直ぐ後に、弱味につけ込んだからなんです」
言ってしまって、はっとしたけどもう遅い。
ルージュサンは作り笑顔で、話の続きを促している。
セランは焦りながら話し続けた。
「休日を無理矢理合わせ、歌が無ければ絞り出し、愛を訴え続けて来たのです。そしてそれは・・・」
セランがうっとりと宙を見上げた。
「愛する人と共に過ごせる、目眩がするほど幸福な時間でした。しかも、他の男を寄せ付けない、素晴らしい効果が・・・」
セランは再び我に返った。
ルージュサンの作り笑顔が怖い。
「少し、分かります」
ナザルが笑いを噛み殺し、相槌を打った。
「分かってくれますか!」
セランの顔が輝いた。
「滅多にいないんです。貴方とは気が合いそうだ。一緒に酔った仲ですし」
揉み手をしながらにじり寄る。
ナザルが思わず後退った。
「お嬢様はどんな方なんですか?」
ルージュサンが間に入る。
ナザルがほっとして答えた。
「そうですね。責任感が強くて、聡明な方です」
「では、ルージュサンに似ているかもしれません。やっぱり僕達は」
ナザルが慌てて遮った。
「あ、平日はどうなんですか?」
「大丈夫です。都は狭いし彼女は有名人です。何かあったらすぐ、僕の耳に入ります」
ナザルの頭に変質者という文字が浮かんだ。
「これでは逃れようがありませんね」
ナザルが気の毒そうにルージュサンに言う。
「私はたまに領地に行きます。セランの勤務先に時々通う方もいらっしゃるのですが、家族揃って学者肌で、俗事には疎いのです。彼から情報を集めていても、無駄でしようね」
セランの口が『い』の形になった。
ルージュサンの作り笑いが益々怖い。
「ところでどちらに行かれるんですか?」
普通の顔に戻って、ルージュサンが訊ねる。
「カナライです。そこに住んでます」
国の名を口にする時、目元が弛む。
「私達もそこに行くのです。不案内なので色々教えて頂けますか?」
「勿論です。まずは何から?」
ナザルは嬉しそうだ。
四十手前に見えるが、笑うと若い。
「有難うございます。私達はムール街道を行く予定だったのですが、もっと良い道はありますか?」
「いや、あの道にも危ない場所があるが、他の道はもっと危ない」
「ほら、僕が付いてきて良かったでしょう」
セランが得意気に言った。
「セランさんは、武術がお得意なんですか?」
少し意外そうにナザルが問う。
「いいえ、全く。でも大丈夫。剣ならルージュサンが百人力です」
ナザルが不思議そうにセランを見る。
「何か?」
セランも不思議そうにナザルを見返す。
「いえ、少し心配になって」
ルージュサンが口を挟む。
「では、もしよろしければ、ご一緒して頂けませんか?。お会いして早々厚かましいお願いですが、ナザルさんは腕に覚えがありそうです」
ナザルが又笑顔になった。
「喜んで。俺で良ければ」
船は七日でジャナの港に着いた。
積み荷を手早く引き渡すと、その晩は船乗り達とルージュサン、セランで居酒屋は満席になった。
「ドラフさん、次の仕事はいつなんですか?」
「明日から半月は休みだ。その後、又、貸切りだ」
「では、心置き無く飲めますね」
「そういやルーと飲んだことはなかったな。よし。今夜はとことん飲もう!。全員分、俺の奢りだっ!」
店中で歓声が上がる。
最後には店主も合流し、酒樽が空になるまで、飲み明かした。
翌朝、船乗り達に別れを告げ、ルージュサンとセランはナザルと落ち合った。
会話を弾ませながらも、セランがステップを踏むこともなく、道は捗った。
順調にいけば、三日目にカナライの都に着く。
山の入口にある宿場町で夕暮れを迎え、三人は宿に入った。
年長のナザルが女将に聞く。
「部屋は三つ、空いていますか?」
「生憎、二部屋しかないんです。お二人様は同じ部屋でいかがですか」
「勿論。彼女は僕の最愛の人ですから」
にこにこと口を出すセランを、ナザルが遮った。
「ですから、一人でゆっくりと休ませてあげて下さい」
三人を見比べ、女将が大きく頷いた。
「よく分かりました」
ルージュサンがナザルに礼を言う。
「有難うございます。お言葉に甘えます」
「当然です。ご婦人なんですから」
「それもそうですね。ナザルさん、宜しくお願いします」
「こちらこそ。俺は寝相があまり良くない」
「そうなんですか?僕は毎朝ベッドの真ん中で目が覚めますよ」
ルージュサンが目を丸くして、セランを見た。
夕食は煮込んだ麺だった。
一日歩き通した身体に、滋養が染み渡るようで、満腹して床に着くと、ナザルは直ぐに眠りに落ちた。
寝入り端で深かった眠りが、徐々に浅くなる途中。
"ガコンッ"
鈍い物音に目が覚めた。
月明かりに照らされた部屋の中、寝台の足元に何かが転がっている。
セランだった。
右隣の寝台に寝ていた筈だ。
横に落ちているならまだ分かる。なぜ足元なのか。
見ているとゴロゴロと扉側の壁まで転がっていく。
そこに"ゴッ"と膝をぶつけると、左の壁に行き、左手を"バチッ"と打って右の壁に向かい、"ゴッ"と、右のかかとで蹴る。
そして又、ゴロゴロと自分のベッドに戻って行くと、"ゴンッ"と頭を打ち付けて止まった。
どうしたものかと覗き込んでいると、ずるずると自分の寝台に這い上がり、静かな寝息をたて始めた。
薄い光に照らされて、その鼻筋も、眉の下の翳りも、教会の浮き彫りのように美しい。
ーこの眠りを邪魔するなんてー
ナザルは先程のルージュサンの驚きと、その後の「船の上だけならいいのですが、もしもの時は、遠慮なく使って下さい」と、渡された縄の意味を理解した、つもりだった。
まさかそれが、一晩に四回繰り返されるとは、思ってもみなかったのだ。
セランは気持ちよく、寝台の真ん中で目が覚めた。
「お早うございます。よく眠れましたか?」
底抜けに爽やかな笑顔をナザルに向ける。
「お早うございます。爽やかな朝ですね」
ナザルは少し疲れた笑みで答えた。
食堂で顔を合わせるなり、ルージュサンが言った。
「やはり、私が一緒に寝れば良かったですね」
セランの顔から血の気が引いた。
「寝るっ?ナザルさんとっ?駄目ですっ!。淑女が夫以外の男性とっ!。僕は貴女をそんな風に育てた覚えはありません!」
ナザルが宥める。
「一緒にって、セランさんとですよ」
「そうなんですか?」
不安顔のセランにルージュサンが答える。
「はい。けれど私を育てたのは船乗りですから、港毎に恋人がいても、問題ない育ちです」
「ええっ!?」
頭を抱えてしゃがみ込み、分かり易くセランが悩み始めた時、女将が朝食を持って現れた。
「お早うございます。よくお休みになれましたか?。出発は早い方がいいですよ」
「山賊が出ると聞いていますが」
ナザルが答える。
「そうです。それに狼も出るんです」
「狼?いつからですか?」
「二年前です。恐ろしい金狼で、首筋を噛み切ろうとするんです」
「二年前・・・この一帯で飢饉があった頃ですね」
「あの時は、酷かったです」
女将は顔をしかめた。
「国からの配給で、何とか乗り切れたけど・・・最近やっと落ち着いてきたんで、そろそろ山狩りを、って話なんですけどね」
そこまで言って、女将はぱっと明るい顔になった。
「まあ、ナザルさんは腕がたちそうだから、大丈夫でしょ。山賊だって大人しくしてれば、命迄とりゃしないしね」
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