ちょっとマニアックな英語ネタ。
新渡戸稲造もアダム・スミスも間違える。
言葉は時代によって変わる。だから昔の人が言った言葉は、今の用語ではなく、当時の文脈から解釈しないといけない。
「罪と恥」を研究していて、新渡戸稲造が『武士道』で「廉恥心」という言葉を使っていると発見した。
「廉恥心」のままでは海外に通じないから、新渡戸はRenchishinという説明もしているが、彼のボキャブラリーではSense of shameって英語を使っている(この本は英語が原文)。
でも、廉恥心は今の英訳ではSense of honorとかSense of dignity.
だから新渡戸稲造は間違っている。
ま、新渡戸はこの廉恥心を、武士の、家に対する名誉の文脈で使っているので、読みように依っては廉恥心ではなく羞恥心っぽい受け取り方もできなくはない。
だからあながち「新渡戸の英語が間違いだ」とは言わない。間違いだという解釈もできる、という問題提起だけさせていただく。
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似た例が、アダム・スミス。
国富論・神の見えざる手でも知られるけど、最近は『道徳感情論』で共感を説いたとして評価されている。
その「共感」って、文脈上Empathy かと思ったら、スミスはSympathyを使っている。これは今のボキャブラリーだと間違い。
ただ、Empathyなんてここ30年に使われた用語で、私が大学受験時には聞きもしなかった。英語も進化している。
だから300年前の1723年に生まれたアダム・スミスの英語が間違っている、とは言わない。
300年前はEmpathyなんて英語はなかった、あっても使われなかった、ってことでしょう。
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今は「僕・わたし」というけど、江戸時代の侍が「それがし・拙者」と使っていたのを、間違いだと言わない。
古典を学ぶということは、こうやって「かつて使われていた言葉の意味を、その当時の人の立場になって考える」ってこと。
言葉一つを取っても、なんでも今の立場からだけ判断してはいけない。自戒を込めて。