石長松菊園・お宿いしちょう 許せぬ罪

いきなりいしちょう首になった悔しさに裁判をしました!
職場復帰の約束を守ってもらえず、いきなり電話一本で首でした。

今だから。

2016年09月29日 | 裁判


20年間いしちょうでの生活を振り返り、どうして復職を認めないのか、どう して その訳を言えないのかをこれから私の感じたままに書きます。 もちろんいしちょうの社長や専務、総務のかたたちもこれを読んでいただいている と思い ますので良く理解して欲しいと思います。
まず、いしちょうと言う旅館が良く おわかりいただいていないと話が解らなくなる のでそのあたりも含めて書きた いと考えています。
今から約30年前の事ですが、京都の老舗旅館やお土産店 などが集まり、京都への 観光客誘致促進する為に「京都文化協議会」と言う民 間団体が発足し、サービス業 界のトップの方々が結集され京都市や京都仏教会 やJR各
などと一緒になってイベントを催していました。 その中に私も 参加していましたので、皆様とは懇意になり雑用から手配事や運営を お手伝い するようになり、 今は亡きいしちょうの会長と知り合う事になりました、その うちに話しがあり「うちにき てもっと自由に企画販売をやってみないか。」と声がかかり、タイミングもちょうど良 かった事もあり、引き抜きと言う形でいしちょう
にお世話になることになりまし た。
その後社内では、いままでの京都ではできなかった、舞妓さんとのひとときを楽しめるようにをいち早くプランニングして昼食のお客様 やご宿泊のお客様のいしちょうへの誘導に成功し、その傍らでは、「京だよ り」と言うミニコミしを全国に向けて京都を楽しむ為に、詳しく最新の発信し続けていました。
今から20年ほど前にはまだ珍しいネットでの販売を手掛け、京都ではい ち早くホーム ページも作成運営をしていました。もちろんその頃からわたしが 中心となり、今回 の裁判に至るまでは館内の予約システムや防犯カメラの設定、毎日のメールの チェックなどほぼひとりでやっていましたし、もちろんプ ランニングも合わせて運営をしていました。そうそう京都の宿泊施設ですき焼きやしゃぶしゃぶ食べ放題、と言う企画もいしちょうがトップを切って始めましたし、京の体験の宿としてオ リ ジナルプランをお守り袋の手作りや和菓子の手作りプランなど15種類ほど作ってきました。
そんな中で、会長に私が再婚をしますと報告にいった時の事は忘れもしません、「あの女だけはだめだ。」と言われてしまい唖然としていました、どうしてなのか聞いて も言ってもらえず、それでも私の個人的なことだと結婚に至りました。 会長 は変わらず対応していただけたのですが、ところがそのあたりから、今の家内が嫌いだと噂があった大女将の 態度が変わりだしたのを覚えています。事故を起こすまでは仕事の内容はそんなに変化もなく、会社へ出勤してメール チェックと処理、その日の予定をこなして行く、週に一度は館内のパソコンの清 掃とチェック、忙しいときは予約センターの電話対応お手伝い、ホームページ用 お写真撮影に外出や、館内で料理写真撮影をしたりで、毎日なにがしの仕事がありました、ただ社内の皆さんからしたら何をしている人なのか、館内をうろうろ して何をしているのか、そんな声も聞こえて来ていたことは確かですが、夏と冬 の企画の説明会などを開催していたので、何となくでも私の仕事は解っていただ いていたと思っていました、でも会長が亡くなってからは私の存在が中に浮いた様に感じられる時がありました、と言うのも噂でしょうか、三代目の社長に一族 の長男が就任してからと言うものの、あちこちからの風当たりが強くなり、会長 がいなくなったから、あの人はもう長くないなんて陰口さえ聞こえて来るように なりました。 確かに給料も徐々に下がり、昇給などは十何年していません。 私の仕事が評価されていないのか、会社が儲かっていないのか、そんな事を長く 考え続けていましたが、給料は仕事の仲間の皆さんより高かったのが一つあると思いますし、会長 と言う重しがなくなり立場が弱くなってきたので、大女将からの無言の圧力、そんな ものが一気に今回の事に繋がっているように思います。 会社に復職させてもらえなかった私なりの感じている事のすべてです。会社から言ってもらえない理由も大女将と社長によく思われていない事が一つ、 給料が皆より多かった、私の仕事を他の人に変えて社長の思い通りにしたかっ た、など思い当たる事がここにある様に感じています。
今だから書いておきたくて書きました。