「西武園駅」。
下車した中高年の男性が次々と向かう先は、右手にある「西武園競輪場(場外)」。
それを横目に見ながら先に進みます。この付近からは、この道路が都県境になっています。
右が埼玉県所沢市、左が東京都東村山市。
右に「西武園ゆうえんち」。
眼下に西武線「多摩湖駅」。
駅周辺には、住宅地が広がっています。
(「Wikipedia」より)
村山貯水池・多摩湖周辺の鉄道の変遷。そういえば、少年時代、「ユネスコ村」に来たことがあります。
「狭山公園」。
「排水路トンネル」。
トンネルの向こうに、
「多摩湖・村山貯水池」。
新東京百景、東やまと20景として東大和市のシンボルとなっている多摩湖は、桜と紅葉の名所として知られ、憩いの場として親しまれています。大正5年から昭和2年の間に建設され、水没移転や経済面で非常に歴史的な価値の高いものです。また、水源涵養保安として周辺環境や生態系への配慮がなされています。バードウォッチング、縄文式住居跡などを目的に、多くの人々が訪れます。
(この項、「」HPより)
《歴史》
明治以降、人口増加及び水道改善目的で東京市は1898年(明治31年)12月1日に淀橋浄水場を竣工させ、1911年(明治44年)3月まで施設能力を増強させたが、それでも市民の増加及び一人当たりの使用量の増加に対応しきれなかった。そのため、東京市の人口増加に対応した水源確保のため、貯水池を新設することとなった。新設は中島鋭治の調査にて、西多摩郡大久野村(現・日の出町)か北多摩郡の6村(清水村、狭山村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村)(現・東大和市)にまたがる狭山丘陵の二案が検討され、内部がすり鉢の窪地のため工費が安いという理由で、狭山丘陵に建設することが決定した。(「Wikipedia」より)
半世紀以上、来たことがありません。印象的な風景です。
「中野昇君之碑」。
大正2年(1913)、東京市は水道事業の規模拡大を行いました。当時、工学士中野昇氏が担当の技師に任命され、工学博士中島鋭治氏の指導を受けて、その実務に当たることになります。特に、最も困難とされた村山貯水池の工事にあたっては、自らを省みず懸命に努力し、その結果、大正14年7月4日病により亡くなりました。後の時代に貯水池の偉容を見る人は、それがどのようにしてなされたかを考え、水道事業に尽くした中野氏のことを忘れてはなりません。(口語訳)
さて、都県境にも当たる「多摩湖自転車歩行者道」を歩くことにします。
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