おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その3。大師橋。高速大師橋リニューアル工事。羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革。羽田の渡し。

2023-05-15 18:49:07 | 都県境を探る

「大師橋」。

                橋の下の干潟で貝採り?

大師橋

東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線産業道路)を通す。名称の由来である川崎大師は大師橋の南西約1キロメートルのところにある。同橋は川崎市が管理している。

中央の両側に建てた二つの塔から左右に7本ずつ、計28本で橋桁を吊る斜張橋。

        

※「斜張橋」と「吊り橋」の相違。(「Wikipedia」より)

左奥は、「首都高横羽線」橋脚。         

          右が「大師橋」、左が「高速大師橋」。

上流を望む。

羽田第二水門。

「高速大師橋」。

          大規模なリニューアル工事中。

1968年の開通から50年以上が経過し劣化が著しいため、橋梁の架け替え工事が2018年1月から行われている。

「多摩川八景・多摩川の河口」。

旧大師橋の親柱。

                  昭和14(1939)年に開通した当時の遺構。

「羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革」解説板。

1 度重なる水害に苦しめられた羽田地区 
 羽田は多摩川河口の砂洲の上にあったことからたびたび水害が発生していました。天正17年(1589)から安政6年(1859)の間に62回の大洪水があったと記録されています。明治以降、明治11年(1878)、17年(1884)、40年(1907)、43年(1910)の洪水は甚大な被害をもたらしました。 
 
2 羽田レンガ堤の建設 
「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正6年(1917)内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完成(工期16カ年)しました。
「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所・昭和1010月発行)には「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡張する計画であったが、土地の状況を考慮して工法を変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガ胸壁(赤レンガ堤防)を築き、所々に陸閘を設け、堤上は道路に利用するとして河川住民及び一般の利便を増進させた」と記されています。また人が堤防をまたぐため階段も設けられました。
 
3 羽田レンガ堤と人々の暮らし 
 レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ桟橋、造船所、生簀、材木置場、作業所があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などが住んでおり、船宿もありました。昭和20年(1945921日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。
レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水災害もなく安心した生活を過ごすことができました。そして昭和20415日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害から、そして、戦災から多くの人々の生命財産を守りました。
昭和48年(1972)高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。
 
※レンガ堤の遺構が、羽田地区内各所に残っているようです。

「羽田の渡し」解説板。

古くから、羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が存在していたという(現在の大師橋下流、羽田三丁目で旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので、「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は約四○間(約八○m)ぐらいで、「オーイ」と呼ぶと対岸まで聞こえたという。
 その昔、徳川家康が狩りに来た帰りに、お供の者と別れて一人でこの渡し場に来たところ、船頭は家康とは知らずに馬のアブミを取ったという伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は、二○~三○人の人々が乗れるかなり大きなもので、この船を利用して魚介類、農産物、衣料品など、生活に必要な品々が羽田と川崎の間を行き来していた。
 江戸の末には、穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が、のどかで野梅の多かった大森から糀谷、羽田を通り羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差しつかえるので、この渡しの通行を禁止してほしいと公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
 また、明治後期から昭和初期にかけて、川遊びをする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく、人々の生活、文化の交流など大きな貢献をしてきた羽田の渡しは、時代の変化とともに多くの人々に利用されたが、昭和十四年に大師橋が開通したことにより廃止された。  大田区

この付近の今昔。

                      1880年代のようす。

「羽田渡船場」がある。多摩川は「六郷川」と記されている。川幅に注目。

                      2010年代のようす。

二つの「大師橋」。湾曲していた流路が広く、直線化している。

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