おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その6。野山北・六道山公園。

2023-01-14 13:31:23 | 都県境を探る

「村山温泉かたくりの湯」バス停から再開。

狭山丘陵一帯には、5つの都立公園があります。都県境にもなっている「狭山公園」「八国山公園」とたどってきました。

ここからは、「野山北・六道山公園 」。

野山北・六道山公園は、首都圏に残された「緑の島」都立狭山自然公園の西端にあり、雑木林と谷戸(丘陵に切れ込んだ谷間)の組合せによって、豊かな自然が残された都立で最大の都市公園です。
カタクリの群生地やホタルの生息地、里山民家や岸たんぼといった、貴重な里山の風景が広がっており、里山の生活や文化を体験できるほか、ハイキングや野鳥観察、森遊びなど様々な楽しみ方ができる公園となっています。

(この項、「」HPより)

「冒険の森」脇の山道を進み、尾根道へ。

右手の道を進む。

尾根道の途中までが、都県境になっています。

藤棚の休憩広場付近で丘陵地帯に入った都県境と合流。 

アップダウンがほとんどなく、快適な散策路。行き交う人も多い。

「標石標示 東京都」。

                     

左手に「あそびの森」。

   眼下に広がる。

右手は、「狭山湖」水源用地。

「狭山湖堰堤から4.4㎞」。

広場に出てきます。

                   「六地蔵」が中央に。

「野山北・六道山公園 インフォメーションセンター」。

公園案内板。

穏やかな日差しを浴びて。

谷戸への道。

※「谷戸」とは?

谷戸(やと)とは、丘陵地浸食されて形成された状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。(や、やと)・谷津やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本関東地方東北地方)の丘陵地で多く見られる。なお、同じ地形について、中国九州などの西日本では迫・佐古(さこ)、岐阜県では(ほら)と呼ぶ

多摩丘陵三浦丘陵狭山丘陵房総丘陵武蔵野台地下総台地といった関東丘陵地・台地の縁辺部が、長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形は、谷戸・谷津・谷地などと呼ばれている。

これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)または「谷」(や)を、東北地方では「谷地」(やち)を使う場合が多い

これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している

多摩丘陵・三浦丘陵における谷戸地形の成因は、主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進み、谷あいの平坦面が形成されたと考えられている

大量のを使う水稲耕作において水利の確保は重要な課題のひとつとなるが、日本列島において稲作が始まってからしばらくの間は利水治水技術が発達していなかった。当初の製品は朝鮮半島からもたらされる希少なものであり、農具製が多く、用水路開削などには多大な労力を要した。その頃には、集水域で湧水が容易に得られ、しかも洪水による被害を受けにくい谷戸は、排水さえ確保できれば稲作をしやすい土地であった。そのため丘陵地内で谷戸では古くから稲作が営まれており、中世までには開発が進んでいたものと考えられている

こうした土地は森林が近接する谷あいの農地であることから、田に近接する斜面では日照を確保するため「あなかり」などと呼ばれる下草刈りが定期的に行われており、また近接する森林ではなどを取ることができ、そうした行為には慣例として入会権が認められていた。労力さえかければ生活に必要な食糧・燃料・道具などの材料を調達するに適した土地であったと考えられている。

反面、こうした場所は尾根筋に挟まれた狭隘な地形であるために日照時間が短く、水はけが悪い場合には湿地状態となることが多い。また湧水地に近接する谷戸田へ農業用水を直接引き入れると、水温が上がらないうちに田に入ってしまうこととなり(多摩地域では谷戸に流れる冷たく分解前の腐植質が混じる水を「黒水」と呼んだ)、水を引き回すなどして温める工夫が求められる上、収穫されるの食味が悪くなるとの指摘がある

戦国時代以降になると治水・利水技術が進展し、諸大名石高向上のための稲作振興策を推進したため、関東においても新田開墾が進み、沖積平野での稲作が盛んになった。

明治以降になると中央集権化が進められ、それまで地域毎に主導で行われていた農業振興策が縮小・廃止されるようになり、戦後高度経済成長」期になると農機化学肥料の導入をはじめとする集約農業化が進められ、エネルギー源も薪から化石燃料へと転換した。その影響を受けて、前述のような谷戸地形の優位性が失われるとともに欠点が目立つようになり、谷戸田は衰退することとなった。また湿度が高く宅地とするにも不向きであることから、耕作放棄後には荒れ地になっていたり、建設残土などにより埋め立てられている場合すらある

しかしながら、都市化が進む地域においては緑地水源地としての希少性・貴重性が認められ、谷戸の自然を保全する動きが出てくるとともに、生態系上の価値も認められるようになっている。

生物多様性の重要性が認識されるようになるとともに、独特の条件がある谷戸の生態系に注目が集まるようになった

たとえば、トウキョウサンショウウオヤマアカガエルなどの絶滅危惧種や地域固有種が、開発を逃れた谷戸に生息していることが多い。また、急激な都市化が進められた関東地方において従来の生態系が残っている場合があることから、里山雑木林などとともに価値が見直されはじめている。

(この項、「Wkipedia」参照)

尾根道。<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/7a/f2bca10ed314d2af1ce8288c8cbdb25c.jpg">

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ある日のソウタ。現在、体重5.2㎏。好奇心旺盛。

2023-01-12 18:32:31 | 我が家の猫たち

        人なつこいソウタ。かまって欲しい。

パソコンをやっていると、ドッサリと座り込む。

           と、

テレビの向こうが気になるのか。

何にもないや。

重たいので、しなっている。

 

何やっているの?

                

TVをチラッと見て、

                

つまらないや。

アンズに近寄ってきて、

何かあるの、この下に、と。

宅配便が届くと、空箱にスッポリ。

        箱の中から。

箱から出て。

再び箱の中に。<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/9d/d1036e138c486e699171912172c84e9c.jpg">

 

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その5。かぶと橋。落ち葉の散策路。

2023-01-11 06:36:20 | 都県境を探る

「多摩湖通り」に沿った道を進むと、右手に「藤棚の休憩広場」。

           来た道を振り返る。

この付近で、都県境は西へ進み、狭山丘陵の中に入り、野山北・六道山公園の尾根づたいになります。

そこまでの道は歩けないので、「多摩湖通り」から分かれ、右の道を進みます。

「かぶと橋」「武蔵野の森」。

           頭上にカブトムシのモニュメント。

振り返る。

          

「境界点標示 東京都」。

                 

尾根道(都県境)直下にある「村山温泉かたくりの湯」方面に進まず、そのまま坂を下ってしまいます。

すぐ、住宅地へ。

来た道を振り返る。

     

住宅地の坂道を下る。

武蔵村山市のマンホール。

          中央に市章、下に「ひがしむらやま」。亀甲模様?

武蔵村山市全図。

「石橋供養塔」。

                  近くを流れる「空堀川」に関係するものか?

青梅街道へ。

武蔵村山市役所。

ここまで順調に着きました。まだお昼前。さてどうしたものか? 

運良く「村山温泉かたくりの湯」へ向かうバスが来たので、それに乗って「かたくりの湯」へ。

もう少し都県境を探索することにします。

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その4。狭山湖(山口貯水池)。くぬぎ橋。

2023-01-10 18:35:10 | 都県境を探る

狭山湖(山口貯水池)に向かう道路。

狭山湖(山口貯水池)は、ここからは望むことは出来ません。

狭山湖(山口貯水池)

埼玉県の南中部に位置する所沢市と入間市の境界にまたがり、東京都の水がめとして昭和9年に完成した人造湖で、正式名称は「山口貯水池」です。
周辺は県立狭山自然公園になっており、春はソメイヨシノやヤマザクラなどの2万本もの桜、秋は紅葉、湖面に映る木々や富士山、さらにバードウォッチングなども楽しめます。四季の美しい情景は、埼玉の「自然百選」や「ダム湖百選」に選ばれています。

           (「埼玉県公式観光サイト」より)

狭山湖の歴史

狭山湖(山口貯水池)は、はじめから湖だったのではないことを知っていましたか?市内を流れる柳瀬川の上流をせき止めて作られた人造湖(じんぞうこ)なのです。そもそも、狭山湖の底には勝楽寺村(しょうらくじむら)と山口村の一部があったのです。

 昭和2年に東京市民(当時)の水がめとして多摩湖(村山貯水池)が完成しましが、東京市の人口が急激に増えたため、その水だけでは水量が足りなくなり、狭山湖も作られることになり、狭山湖は昭和9年に完成しました。

 狭山湖を作るためには、勝楽寺村と山口村の一部が湖の底に沈むことになり、282戸、1720人が住みなれた土地を手放して村を離れることになりました。村を離れた人々は、ほかの山口村、小手指村、村山村(武蔵村山市)などへ移転していきました。
 当時のこの村では、農業での生活が苦しかったので、織物製造業(おりものせいぞうぎょう)を営んでいましたが、不況で大変貧しい時代であったため、ある人々は土地を手放したお金で、少しでも豊かな場所で生活できることを夢見て、またある人は狭山湖を造ることになればその工事現場で働けることを聞いて土地を手放しました。しかし、皆それぞれ口では言い表せない苦労を味わったそうで、そのことが「湖底(こてい)のふるさと」(昭和58年調査同好会発行)という本に書かれています。

 現在は、狭山湖の湖底を見ることはできませんが、取水塔(しゅすいとう)の修理のときなどには湖底が現れたことがありました。湖底が現れると、当時の道の跡や、道の分かれ目を示す石柱、柳瀬川の本流の跡など、勝楽寺村の地形をみることができました。

                     太い破線が都県境。

「狭山湖堰堤から1㎞」。

道路の向こうも遊歩道になっています。

この先、「東京都」の標示。

「こなら橋」。

       振り向くと、埼玉県 所沢市」の標示。

都県境を歩いています。

        「ねむのき橋」。

「ほおの木橋」。

「多摩湖自転車歩行者道」。

「えごの木橋」。

      「くぬ木橋」。

「くぬぎ橋」の先で、道は二手に分かれます。

右の広い道路脇に、「500m先 かたくりの湯」と標示があります。

地図上で都県境は、左の道に沿っているようなので、左の坂を上がっていきます。

              

             「自転車歩行者道」が続きます。

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その3。多摩湖橋。慶性門。

2023-01-09 13:43:35 | 都県境を探る

小さな河川が貯水池に流入します。そのため、この先、けっこうたくさんの橋が出てきます。

「こぶし橋」。

ただ水面は見えません。周辺の木々になぞらえて付された橋の名のようですが。それにふさわしい絵柄。

   伐採した木がたくさん。

右手に長屋門が見えてきます。

左手遠くに湖面。

「多摩湖橋」を渡ります。

「慶性門」。

慶性門
明治45年(1912年)、ここに貯水池が建設されることになりました。
村山貯水池(多摩湖)になったところに住んでいた人々は、移転しなければなえりませんでした。
上貯水池は大正13年(1924年)に、下貯水池は昭和2年(1927年)に完成しましたが、その間に湖底にあった160戸余りの家々が移転してきました。
慶性門は、石川の谷(現在の上貯水池の西部)にあった慶性院山門で、寺院の門としてはあまり一般的ではなく「長屋門」の形式をとっています。最近では、ほとんど見られない門構えの形です。
大正11年(1922年)、慶性院が現在の芋窪に移転したとき、山門はそのまま取り残されてしまいました。
昭和29年(1954年)、貯水池愛護会の有志は荒れ果てた山門の姿に心を痛め、ここに移転し修復しました。
このときに、この山門が文久元年(1861年)に建てられたことがわかりました。
この移転から40年近くが経過した平成3年(1991年)、再び修理をし建設当時の姿を現しました。
東大和市は、まちの歴史の象徴として、この建造物を永く保存することにしました。(「東大和市」HPより)

      

この付近は、「湖底の村広場」として、埼玉県所沢市に入りこんだ、東京都東大和市になっています。また、「ダイダラボッチ像」がある、とのこと。マニアの間では、心霊スポットとして存在しているようです。

※「ダイダラボッチ」は、日本の各地で伝承される巨人。 類似の名称が数多く存在するが、以下では便宜的にダイダラボッチと呼称する。 山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられている(鬼や大男などの妖怪伝承が巨人伝承になったという説もある。)。(「Wikipedia」より)

(「Googleマップ」より)

実は、この建物が見え始めた頃から、どこからともなく笛の音が聞こえてきました。哀愁を帯びた調べ。激しく行き交う車の列ですが、それとは異空間のような雰囲気で、しばらく聞き惚れてしまいました。

           信号機の脇にいる方が吹いています。

多摩湖の湖面。

案内板。

         「保谷狭山自然公園自転車道全体図」。多摩湖を一周し、東に向かいます。

所沢市側に家並みが。

               「restaurant teicintei(堤新亭)」。

「奥之院五重塔」。

「竹亭」。 

「さくら橋」。 <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/2b/0b8315e53c98cd10523fa6ae03a61771.jpg">

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