ドスンと乗っかってくる5.3㎏。ウっとなってしまう。
何か文句ある?
こちらは3㎏。静かに。
すばしっこいので、なかなか被写体にはなりません。
孫とはそれぞれ寛ぐ。
暑くなってくると、涼しいところを求めて窓際に。
ところが・・・。
狭いところで身をよじりながら体勢を変えつつ、
飽きてきたようで、上の食事支度のようすを。
そして、お気に入りの場所。
ドスンと乗っかってくる5.3㎏。ウっとなってしまう。
何か文句ある?
こちらは3㎏。静かに。
すばしっこいので、なかなか被写体にはなりません。
孫とはそれぞれ寛ぐ。
暑くなってくると、涼しいところを求めて窓際に。
ところが・・・。
狭いところで身をよじりながら体勢を変えつつ、
飽きてきたようで、上の食事支度のようすを。
そして、お気に入りの場所。
正面に川崎駅付近の高層ビル。
「多摩リバー50㌔(実際は、53㌔)残り4.5㎞た」。
対岸には、「ラジオ日本」の電波塔。
運動広場。ランナーが練習中。
四阿で小休止。
隣の木が気になる。
「ブラシの木」というらしい。
「海から7K」。
道路上に大書。「7.0→」。
東海道線と京急線が並行。
「海から6K」。
ゴルフ練習場。金属音が響きます。
右が東海道線。左が京急線。
六郷橋。
橋のたもとにある「旧六郷橋」。
「六郷土手駅」前の通り。
20年以上昔、この近くに知人が住んでいたので、何度か下車した駅。あまり変わらない印象。
「六郷土手駅」。
散策路の案内図。川べりにあります。
朽ちたような標柱。草むらにポツンと。
「矢口橋」。
「矢口ポンプ所排水樋管」。
「多摩川大橋」が下流に。
橋のたもとの川べりに、
「矢口の渡し跡」解説板。
新田義興(1331~1358)が、 矢口の渡しで討死したといわれるころの渡し場は、現在の新田神社付近であったと思われ、当時の多摩川は 今より東へ大きく湾曲していたと考えられる。
江戸時代に、 平賀源内により浄瑠璃「神霊矢口渡」が作られ、 歌舞伎でも上演されるようになると、この渡しは有名になった。
渡し場は、流路の変遷と共にその位置をいくたびか変え, この付近になったのは江戸中期からであると考えられる。
多摩川に数ケ所あった渡しのうち、ここは区内最後の渡船場として、多摩川大橋が完成する昭和24年(1949)まで利用された。
対岸を望む。
橋の中ほどに「神奈川県 川崎市」の標識が。
※「多摩川大橋」は、「国道1号線(第2京浜)」。
この付近の今昔。
1880年代のようす。
流路が大きく湾曲しているところも。渡し場があります。(「矢口の渡し」)
2010年代のようす。↑が矢口ポンプ所樋管橋。
すぐ下流にある橋は、東京電力とNTTが占有する専用橋。
ケーブルを納める大きな四角の筒が、ブルーのアーチに支えられていて、印象的。
川べりの道を歩きます。
振り返る。
下流を望む。
対岸を望む。
川崎市幸区「川崎競馬場練習馬場」付近?
左手に見えるのは、「アール・エフ・ラジオ日本・川崎幸(かわさきさいわい)放送局」の電波塔のようです。
写真を拡大して見ると、様々な電波塔が立っています。
遠くに川崎市駅付近の高層ビル。
京急線「六郷土手駅」まで、あと少し。
ゴルフ練習場。
「たまリバー 残り9.8K」。
ハマダイコンが咲き乱れる土手。
ハマダイコン(浜大根)は日本全国の海や川沿いの砂地に自生する多年草。野菜の大根と同じアブラナ科の植物ですが、ハマダイコン(浜大根)の根は細くて野菜のダイコンとは全く異なります。ハマダイコン(浜大根)は食用や漢方に用いられます。
花色は薄紫色から白色で、大根の花に似ています。花径は2㎝ほどです。草丈は30~70 cmくらいで、群生して咲きます。咲く前の花芽はお浸しに、葉は塩漬けや炒め物に使えるそうです。ハマダイコン(浜大根)の根は細くて繊維質が多く、野菜の大根のように美味しいものではありませんが、おろすと大根おろしよりさらに辛い大根おろしになると言われています。
ぷっくりしたエンドウ豆のような実(種)ができています。
「海から12K」。
「たまリバー50キロ 残り9.0㎞」。
左手に大きなマンション。
古い石柱(「11.4K」)。保育園児がお散歩中。
振り返る。
対岸の武蔵小杉のタワーマンション群が次第に遠くに。
左に、桜並木の道が。奥は、「キヤノン本社」棟。
振り返る。桜の時期はさぞかし。
「高規格堤防区間」解説板。
荒川や隅田川の一部にある「スーパー堤防」と同様でしょうか?
「たまリバー50キロ」案内板。
ガス橋。
多摩川に架かる「ガス橋」は、1929年(昭和4年)、東京ガスの神奈川の工場から東京へガスを送るために、東京都大田区・神奈川県川崎市の間で架設されました。
当初はエネルギーの供給という機能のみの「ガス導管専用橋」として計画されていたものの、両岸の地域住民により一般の人も渡れるようにしたいと要望があがり、点検用の仮橋を人が往来できるよう1メートルの幅を持たせる計画に変更し、1931年(昭和6年)9月に瓦斯人道橋となりました。
昭和はじめの大田区下丸子付近には、白洋舎、日本精工、三菱精機などの工場ができ、川崎に住む工場で働く人々にとっては、それまで多摩川を渡るには下流の六郷橋か上流の丸子橋の他は船で渡るしかなく、「ガス橋」は大変便利な橋として重宝されました。
一方、もともと人が渡ることを想定して計画されたものではなかったため、最低限の幅しか設けていなかったにも関わらず自転車で渡る人やリヤカーを引いて渡る人などもおり、たびたび争いが起こっては近くの店の店主が仲裁に入ることもあったそうです。「けんか橋」の別名もありました。
1950年代になると多摩川をはさんで大工場が続いて建設され、ますます増大してきた交通需要にこたえるため、車の通行が可能な新たな「ガス橋」に架け替えることが計画されました。・・・1960年(昭和35年)6月に完工しました。
「ガス橋」は幅12メートル、橋長388メートルの大きな橋に生まれ変わり、今でも神奈川と東京都を結ぶ重要な交通路として活躍しています。
橋の下部にはガス管が通されており、東京ガスのパイプラインの動脈となっています。
建設当時の写真。
(この項、「東京ガス」HPより)
この当時の工場も一部を残して移転し、跡地は、大きなマンションになっています。
2010年代のようす。ガス橋付近。右手に「キヤノン」本社。
対岸。
多摩川清掃工場。
振り返る。多摩川清掃工場。
森が多摩川に迫ってきます。
釣り人。
上流を望む。
東急線の橋梁。
手前には、
「東京都水道局調布取水所」。
調布取水堰は、多摩川から取水した原水を調布浄水場および玉川浄水場に送る施設で、大田区田園調布に玉川水道株式会社によって昭和11年(1936)に完成した。
取水堰。
東急線。左に「多摩川駅」。
多摩川園(たまがわえん)は、東京都大田区田園調布にかつて存在した遊園地である。現在の東急電鉄多摩川駅の駅前に正面入口があり、面積は約5ヘクタールであった。
1925年(大正14年)12月23日に「温泉遊園地 多摩川園」としてオープン。同年には丸子多摩川花火大会も開始されている。園内には、飛行塔、お化け屋敷、メリーゴーランドの遊戯施設があり、菊人形展でも多くの客で賑わった。また多摩川駅の反対側の台地にも、付属施設として展望塔や「松の茶屋」が設けられた。入場者数の減少等により、1979年(昭和54年)6月3日に閉園。・・・
1964年(昭和39年)の東京オリンピックの年には、年間入場者数約100万人を記録した。そのころには観覧車、丘陵地に登るリフトと滑り台(大山滑り)、野球用軟球を玉に使ったバズーカ砲、ウヰスキーの樽を模した車体のジェットコースターなどの遊戯施設があった。南東側には大きな池がありボートも漕げたが、後に駐車場にするため埋め立てられた。また大規模な室内催事場「読売館」も設置され、夏季の納涼スリラーショー(お化け屋敷)、秋季の菊人形展が人気を集めていた。
しかし1968年(昭和43年)には道路交通への影響を理由に、京浜地域の大イベントであった丸子多摩川花火大会が中止され、観光地としての多摩川園周辺には痛手となる。1970年代には、遊園地に面する集合住宅の増加による近隣紛争や景観の悪化、世相の変化によるレジャーの多様化などから入場者も減少に転じ、周辺道路の渋滞に対する苦情もあって、1979年(昭和54年)6月3日に閉園した。
(この項、「Wikipedia」より)
対岸を望む。右に「新丸子駅」。
対岸のタワーマンション群。
取水堰を望む。
丸子橋。
丸子橋は、丸子の渡しがあった場所からおよそ200メートル上流に中原街道の新橋として、1934年(昭和9年)に完成した。完成当時は片側一車線道路の橋で、その後、老朽化と交通量増大に対応するため、東京都と川崎市が共同で架け替え事業に着手し、2000年(平成12年)5月に片側2車線の新しい橋への架け替えが完成した。これが現在の丸子橋である。
2002年(平成14年)に丸子橋北詰付近にアザラシのタマちゃんが出現し、マスコミで取り上げられ、見物客も訪れ賑わった。
様々なテレビドラマ等のロケ地としてよく使用される。また、丸子の渡しに通じていた中原街道旧道の坂道部分は桜坂と名付けられ、歌謡曲にも取り上げられて桜の名所となっている。
2013年(平成25年)4月29日未明、ウクレレ漫談家の牧伸二がこの橋の付近で投身自殺を図り死亡した。
丸子の渡し
古代から多摩川のこの地に丸子の渡しと呼ばれる渡し舟が存在した。府中市史によると承和2年(835年)には既に運航されていたとの記述がある。東京方面への唯一の交通機関だったが、悪天候の日には運航中止となるため、1884年(明治17年)から橋の建設のための運動が行われた。
その後、架橋により丸子の渡しは1934年(昭和9年)12月に廃止された。2006年に地域住民により「丸子の渡し復活協議会」が結成され、2014年から年に一度「丸子の渡し」を再現するイベントが開催されている。
(この項、「Wikipdia」より)
この先、下流に東海道新幹線と横須賀線の橋脚が見えてきます。
品川に向かう新幹線。
新幹線橋脚。
「JR東海 立入禁止 新横浜保線所」。
右が新幹線、左が横須賀線。
先に進みます。