おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

JR「久留里線」。その1。(ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-09-13 18:42:38 | ローカル鉄道

JR「久留里線」。存続か廃線か? JR東日本と沿線住民との協議会が始まった久留里線。

8月中旬に出かけました。関東地方のローカル民間電鉄巡りが一段落したので、報告を。

1ケ月前の記録なので、季節感のずれがありますが、ご容赦を。

8月10日(木)快晴。

(「ジョルダン」より)

《往路》・木更津 11:11→久留里 11:55 

    ・久留里 13:53→上総亀山 14:11(木更津から13:01発の列車)

《帰路》・上総亀山 14:27→木更津 15:36  

「木更津」~「上総亀山」。

久留里線の乗客数。

  

   「久留里」から終点の「上総亀山」間が乗車人数の厳しい状態。※直通運転本数の関係もありそうですが。

久留里線は、千葉県が道路事情の悪さを補うために県内各地に敷設した県営鉄道の一つで、1912年に木更津駅 - 久留里駅間が開業した。当時は軌間762mmの軽便鉄道であった。敷設工事は大日本帝国陸軍鉄道連隊によって訓練の一環として行なわれた。1922年に制定された改正鉄道敷設法別表第48号の予定線に「千葉県木更津ヨリ久留里、大多喜ヲ経テ大原ニ至ル鉄道」が挙げられたことから、1923年に国へ無償譲渡され、鉄道省久留里線となった。

1930年には1067mmへの改軌が完成し、1936年には上総亀山駅まで延伸されたが、その先へ伸びることはなかった。この延伸区間は、太平洋戦争中の1944年不要不急線として休止され、戦後1947年に復活するという経過をたどっている[5]。なお、予定線の大原側は、木原線(現在のいすみ鉄道いすみ線)として1930年に開業したが、1934年に上総中野駅まで延長されたに留まり、房総半島を横断するには同駅で小湊鉄道線と乗り継ぐ形となり、久留里線とは接続しなかった。

戦後は京葉工業地域への通勤客が増えるが、それでも閑散線区の域を出なかった。しかし将来性が認められて国鉄諮問委員会による赤字ローカル線廃止勧告は免れた1968年には千葉駅直通列車が廃止された。2009年に全線が東京近郊区間に編入された。

2022年7月28日、JR東日本は利用者の少ない輸送密度2,000人未満の地方在来線区間別収支を発表し、本路線の久留里駅 - 上総亀山駅間の2019年度の収支率[注釈 3]が0.6%とJR東日本管内で最も低いことを明らかにした。2020年度は、160万円の収入を生み出すのに2億7600万円の経費がかかった[7][8][9][10]。2013年以降は平均通過人員(輸送密度)が4年間で半分になるペースで減少している(2013年度216人/日→2017年度103人/日→2021年度55人/日)。

この区間は高速バスが併走しており、久留里線の駅前やその近くから千葉市へ直行できる[11]。その他、君津市デマンドタクシー「きみぴょん号」も運行している

2023年3月、JR東日本が末端区間の久留里駅 - 上総亀山駅についてバス路線への転換も視野に、千葉県や沿線の君津市に協議を申し入れた[14][15]。これに対して君津市役所の担当者は、「乗客の減少は現実問題として受け止めないといけない」としつつ、少ないながらもいる利用者が「不便にならないようにする必要がある」として、廃線などの前提は置かずに協議に臨む方針を示している

(この項、「Wikipedia」より)

      

           単線。千葉県内のJRで唯一の気動車。

             

スタートの周囲は市街地。

しばらくすると、左手に小櫃川。

小櫃川(おびつがわ)千葉県を流れ東京湾に注ぐ二級河川流路延長88kmは、千葉県内では利根川に次いで2番目に長い川である。

鴨川市清澄(房総丘陵)の清澄山系に源を発し、君津市黄和田畑の札郷支川との合流点より二級河川の指定区間となる。君津市、木更津市袖ケ浦市蛇行しながら貫流し、再び木更津市に入って久津間・畔戸で東京湾に注ぐ。下流部は三角州を形成し、河口付近では東京湾内で最大規模となる1,400haの広さの盤州干潟を形成している。

久留里線は、小櫃川を遡るように進みます。

「上総清川」。

「東清川」。

         田園地帯が広がる。                               

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ローカル私鉄の旅。35。「上信電鉄」・富岡製糸場。その6。

2023-09-11 18:32:35 | ローカル鉄道

「山名」。

遠くに赤城山。

             

「五感の力を失わない為に出来る事は 意識的に日常生活 体を動かす このコロナ禍の時 期腕をふるって健康作り」

「毎日描いて十五年 うれしい出来事悲しい出来事 花、野菜、果物と恵みを感じる 今年喜寿を迎え コロナに負けず頑張ろう」

榛名山。

赤城山。

「東京農大二高」グランド。

・・・部活動でも野球ラグビー陸上競技の強豪校としても知られ、過去幾度かの全国大会出場経験があるほか、プロ選手も多数輩出している。8つの部活動が強化部に指定されている。

  ※「青山ほとり」=「大根踊り」。

   (「Wikipedia」より)

「烏川・佐野橋」。

新幹線高架。

まもなく高崎駅に。

この先で、「マンナンライフ」仕様の電車に。

「コンニャク」といえば、「マンナンライフの蒟蒻畑」。

コンニャク芋から精製した水溶性食物繊維のグルコマンナンに、ぶどうやリンゴなどの果汁で味付けしたこんにゃくを「蒟蒻畑」という名称で販売している。1992年発売。

 <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/6b/3435e1cbfa030c69700fa1379dc20f23.jpg">                    

沿線に本社・工場がありましたが、写真撮影が間に合わず。ここで遭遇。

              本社。(富岡市富岡)。

TVでおなじみのCMより。

        

              

こうして「高崎駅」に戻ってきました。

    

        

コンコースに「上野三碑」のモニュメントがありました。

中央に最も大きい「多胡碑」。

多胡碑は、奈良時代初めの和銅[わどう]4(711)年に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑です。

建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げて権威付けをはかっています。

多胡郡の範囲は、現在の高崎市山名町から吉井町一帯で、かつて緑野屯倉[みどののみやけ]や佐野屯倉[さののみやけ]というヤマト政権の直轄地が設置されていた領域と重なります。そのため、当時は先進的な渡来系技術が導入され、窯業[ようぎょう]、布生産、石材や木材の産出などが盛んな手工業地域になっていました。

このことから、多胡郡建郡は当時の政府による生産拠点のとりまとめと、それに伴う郡の区割りの見直しが目的であったと考えられます。

碑身[ひしん]に笠石[かさいし]をのせる形状や楷書体[かいしょたい]の文字には、当時最先端の中国文化の影響がみられますが、一方で18世紀以降に多胡碑の拓本が朝鮮通信使を通して中国に渡り、その書風が評価され、後世の日本の書家にも影響を与えました。このように、多胡碑は東アジアの文化交流の様子を示す重要な資料です。

左に「山上碑」。

山上碑は飛鳥時代の681年に建てられたもので、完全な形で残っているものとしては日本最古の石碑です。石をあまり加工しないで使っており、朝鮮半島の新羅[しらぎ]の石碑(6世紀)に類似しています。

碑文には、放光寺[ほうこうじ]の長利[ちょうり]という名の僧が母のために石碑を建てたことと、長利の母方、父方双方の系譜が記されています。長利の母である黒売刀自[くろめとじ]は、ヤマト政権の直轄地である佐野三家[さののみやけ](屯倉[みやけ])の管理者であった健守命[たけもりのみこと]の子孫で、父である大児臣[おおごのおみ]は、赤城山南麓の豪族とみられる新川臣[にいかわのおみ]の子孫です。

前橋市総社町にある山王廃寺[さんのうはいじ]から「放光寺」の文字を刻んだ瓦が出土しているため、長利が勤めた放光寺は山王廃寺であると推定されています。放光寺が東国有数の大寺院であったことや、仏教が当時の先進的な思想であったことから、長利はかなりの知識人であったと思われます。

こうしたことから、長利は母である黒売刀自を供養するとともに、上野国の有力豪族の子孫であり、大寺院の僧でもある自らの存在を後世に伝えるために碑を建てたと考えられます。

碑文は、すべて漢字で書かれていますが、日本語の語順で読むことができます。現在につながる日本独自の漢字の使用法が確認できる非常に貴重な史料です。

このように、山上碑からは、ユーラシア大陸から伝わった漢字文化と仏教信仰が日本の古代社会に根付いていく様子をうかがい知ることができます。

右に「金井沢碑」。

金井沢碑は、奈良時代前半の726(神亀[じんき]3)年に三家氏[みやけし]を名乗る豪族が、先祖の供養と一族の繁栄を祈って建てた石碑です。三家氏は、佐野三家[さののみやけ]を管理し、山上碑[やまのうえひ]を建てた豪族の子孫であると考えられます。

碑文には、三家氏を中心とした9人の名前が記されています。碑を建てたのは三家子□(□は欠字)という人物で、上野国群馬郡下賛郷高田里[こうずけのくにくるまのこおりしもさぬのさとたかだのこざと](現在の高崎市上佐野町・下佐野町周辺か)に住んでいたようです。続いて、三家子□の妻と娘[物部君[もののべのきみ]氏に嫁ぐ]、孫3人の名前が登場します(グループ1)。この6人ほか、同族とみられる三家毛人[みやけのえみし]・知万呂[ちまろ]の兄弟と礒部君身麻呂[いそべのきみみまろ]の3人の名がでてきます(グループ2)。

碑文からは、女性が結婚後も実家の氏の名で呼ばれていること、子供達と共に実家の祖先祭祀に参加していることがわかり、家族のつながりに女性が大きな役割を果たしていたと考えられます。

さらに、地名の表記などからは、当時の行政制度(国郡郷里[こくぐんごうり]制)の整備状況が分かります。ちなみに、碑文に出てくる「群馬」の文字は、県内では最古の事例であり、群馬県の名前のルーツを知る上で非常に重要な資料です。

このように、金井沢碑からは、古代東国での仏教の広がり、家族関係、行政制度の実態などを知ることができます。

(この項「」HPより)

駆け足でしたが、「上信電鉄線」を終了。

群馬県内では「わたらせ渓谷鉄道」が残っています。

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ローカル私鉄の旅。34。「上信電鉄」・富岡製糸場。その5。

2023-09-04 18:34:54 | ローカル鉄道

左手が鏑川、右手が山。くねくね曲がりながら高度を上げます。

    

「千平(せんだいら)」。

               群馬県富岡市南蛇井乙2038

           

                   次が終点「下仁田」です。

「下仁田」。

          群馬県甘楽郡下仁田町下仁田甲374-4。明治30年9月25日開業。

  12時少し前に到着。

            JR上野駅から、普通電車で約3時間の旅。  

駅周辺を少し歩きます。 

              「こんにゃく料理・常盤旅館」。なかなか趣のある佇まい。 

鏑川を望む所へ。

上流方向。

           

                  日本の地質100選「跡倉クリッペ」

目の前に見える変わった形の山々は、地元では「根なし山(クリッペ)」と呼ばれる山々です。これらの山々は、一般的な山の出来方が違い、下のイラストのように山の下と上で地層が異なります。オレンジ色で塗った上の地層は、地殻変動によって緑色の地層の上に覆い被さるようにのっかり、その後、川によって削られて、現在のような孤立した山々になったといわれています。下仁田ジオパークには根なし山ができたときの痕跡が点在しているので、散策しながらダイナミックな大地の生い立ちを感じてみて下さい。

「しののめ信用金庫」。

群馬県富岡市に本店を置く、群馬県内最大手の信用金庫である。2007年平成19年)11月26日に、かんら信用金庫、多野信用金庫ぐんま信用金庫が合併して発足した。北関東では第2位の預金量を誇り、県内では第1位である。

折り返しの電車に乗って「上州富岡」まで戻るので、下仁田からはお別れ。こんにゃく料理や下仁田ネギの美味しい時期にまた来るつもりです。

          

             上毛かるた 「ね」「ねぎとこんにゃく下仁田名産」。

「下仁田ジオパーク」。

標高253㍍。

            

                

 高崎行きに乗って戻ります。

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ローカル私鉄の旅。33。「上信電鉄」・富岡製糸場。その4。

2023-09-03 13:35:54 | ローカル鉄道

「鏑川」。上流方向。

        「上信電鉄」線は、鏑川沿いに進んで行きます。

「東富岡」。

              

「上州富岡」。

下仁田ネギ等の広告。

下仁田ネギ下仁田ねぎ(しもにたねぎ)

群馬県甘楽郡下仁田町冬季の特産品である。現在は別の地域でも栽培されているが、本来は群馬県西部の下仁田町を含む甘楽郡と富岡市の地域で栽培された江戸時代からすでに栽培が行われており、徳川幕府大名への献上品とされていた。一本ネギとしては太くて短いずんぐりした姿が特徴で、生だと非常に辛味が強いが、加熱すると甘味が引き出されてやわらかい食感になる

素晴らしいネギの味を、江戸の将軍にも味わってもらおうと幕府にも献上され、下仁田ネギは別名殿様ネギと呼ばれる。(ネギの中の殿様という意味もある)。

下仁田ネギ(安中産)

なお、下仁田ネギという名称の名付け親は、牧野富太郎である。オオネブカまたはシモニタネギと命名され、以後市場でもこの名で取引されている

1873年(明治6年)、ウィーン万国博覧会に国産の絹糸が出品され、それを機に富岡製糸場に関係者が訪れるようになる。関係者へのお歳暮・お土産に利用された

大正時代になると、栽培地が山間から平地の馬山地区などに移り、品種改良が進んで、この地区は下仁田ネギの主産地となる

また上毛かるたに「ねぎとこんにゃく下仁田名産」と詠まれて知名度が高くなった

戦後の1952年(昭和27年)から品種改良に取り組み、5年をかけて固定品種として復活した

秋まきで冬がとなり、特に霜に当たってからは味がのって美味しさが増すといわれている

下仁田町や富岡市の西部一帯は、年間平均気温が12度前後、土壌は礫を含んだ粘土質で水はけが良く、根深ねぎ類の栽培には適した環境といわれている

下仁田ネギは、播種から収穫まで14 - 15か月を要する。11月下旬から1月までが収穫期間で、この時期のネギが味ものって美味しくなる

(この項、「Wikipedia」による)

          

世界遺産・「富岡製糸場」の下車駅。帰りに寄る予定。

「西富岡」。

「上州七日市」。

「上州一ノ宮」。

なかなか立派な駅舎。

太陽光パネル。

              遠くには、妙義山?

「神農原(かんのはら)」。

「次は南蛇井」。

                  さて、何と読むか? 答えは帰途で。

    

            

「上信越自動車道」。

     

「南蛇井」。

山深くなっていきます。

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ローカル私鉄の旅。32。「上信電鉄」・富岡製糸場。その3。

2023-09-01 18:35:48 | ローカル鉄道

「山名(やまな)」。

集落のところに駅。

「鏑(かぶら)川」。 

群馬県下仁田町と長野県佐久市との境にある物見山に源を発し南東に流れ、下仁田市街地付近で南牧川を合わせ東へ流路を変える。富岡盆地を経て、高崎市阿久津町付近で烏川合流する。おおむね平坦地であり稲作、こんにゃく芋栽培が盛んな流域である。上信電鉄線は、ほぼこの河川に沿って敷設されている。

※「鏑(かぶら)」=矢の先と鏃との間につけて射たときに鳴るように仕掛けた卵形の装置。

                

「吉井」。

      

一斉に飛び立つ、シラサギ、カラス。

           「西吉井」。

屋上のモニュメントは?

            「めんたいパーク群馬」。

めんたいパークは
明太子の老舗かねふくが運営する
明太子専門テーマパークです。

来て楽しい、知って楽しい、食べて楽しい。
できたて明太子の直売店やフードコーナーなど。
家族連れやカップルでも、大人から子供まで楽しめます。
ぜひ、めんたいパーク群馬までお越しください!

       

「上州新屋(じょうしゅうにいや)」。

          

「上信電鉄」の各駅は、新装された駅舎・ホームが目立つ。

古い駅舎が多い「上毛電鉄」と比べると、経営状態がいいのか?

駅の高崎側に川が流れておりホームはその崖の上まで達しているが、この川の名前は三途川である。やや上流には三途橋という橋がある。たもとには仏教説話における三途川で、六文銭の徴収係を務めているとされる奪衣婆が祀られている。

           

上州福島(じょうしゅうふくしま)」。

        

              使われていない側線があり、下仁田側終端部には2両の貨車が放置されている。

次第に賑やかな街並みに。

「ウイングプラザとみおか(富岡市勤労青少年ホーム)」

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