改竄
森友学園と加計(かけ)学園をめぐるモリカケ問題。次々と明るみに出る財務省の公文書隠しと書き換えに国民は食傷気味だが、これまで知られることのなかった公文書管理の実態には興味をそそられる。権力者の意向と役人の忖度(そんたく)との間で真実は揺らぎ、公文書の内容は微妙に変えられる--。情報過多の現代はともかく、正史と呼ばれる公文書類が歴史を伝える唯一の、あるいは主たる資料だった時代に、このような改竄が頻繁に行われていたとすれば、現代人が知る歴史は、その時代の権力者たちに都合の良い内容ばかりということになる。
改竄の「竄」は、鼠(ねずみ)の字に穴カンムリをかぶせたもの。「竄」には「隠れる」「のがれる」「捨てる」のほかに「改める、文字を入れ替える」の意味も(大修館『漢語林』)。「他人の詩文の一部を盗み取って自分の作とすること」を意味する「竄窃(ざんせつ)」というコトバもある。穴カンムリの理由は「ねずみが穴に隠れる様子から」だ。ネズミのごとき振る舞いなら、エリート官僚らしからぬ行為であることは間違いない。
『続日本紀』にみる虚偽報告の痕跡
筆者は小説『残照はるかに』(2013年、海像社)を書くにあたって『日本書紀』や『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』など、いわゆる正史と呼ばれるものを繰り返し読んだ。古代東北を舞台に大和王権と“先住民”蝦夷(えみし)の戦いを描いた小説だが、ここでも戦果を偽って天皇へ報告した形跡が読み取れた。正史そのものの改竄ではなく、虚偽の報告が正史に記載されたケースである。いつの時代にも「ネズミのごとき振る舞い」は横行していた。以下に概要を紹介する。
東北古代史における蝦夷と大和朝廷の戦いには「三十八年戦争」の語で括(くく)られる期間がある。特筆すべきは延暦年間の3度の激突。とりわけ延暦8年(789年)の最初の戦いだ。朝廷側は兵5万2千8百を動員、うち選抜された計4千余が北上川沿いを北上して千2百の蝦夷軍と戦った。蝦夷軍は攻めては逃げ、追撃が止むと引き返して攻める、という行動を繰り返す。結果、追う朝廷軍は細長く延びて分断され、不利な態勢になったところを北上川に追い詰められて、多数の兵が溺死した。蝦夷軍の巧みな戦いぶりだった。
<延暦年間3度の戦い(『続日本紀』などから>
①延暦8年の戦闘(官側動員5万2千8百、官側トップは征東大使・紀古佐美)▽官側損害=戦死25人、溺死1036人、負傷245人、泳ぎ裸身で帰る者1257人 ▽蝦夷側損害=戦死89人、焼失14村800棟
②延暦13年の戦闘(同10万、同征東大使・大伴弟麻呂)▽官側損害=逃亡340人▽蝦夷側損害=戦死457人、捕虜150人、馬損失85頭、焼失75か所
③延暦20年の戦闘(同4万人、同征夷大将軍・坂上田村麻呂)▽官側損害=なし▽蝦夷側損害=降伏5百人
延暦8年の戦いの後で、征東大使だった紀古佐美(きのこさみ)が奏上した内容が『続日本紀』延暦八年六月三日条にある。一見して奇異の感を覚える数字だ。まず、1の位まで実に細かい数字が並んでいること。次に、溺死者や裸身で帰った兵が多かったこと。3番目に、延暦13年の戦いとは対照的に逃亡兵がいなかったこと、あるいは集計されなかったこと。最後に、惨敗したにもかかわらず戦死者が25人と意外に少なく、これに対して蝦夷側の戦死者は官側の3・5倍の89人だったこと、などだ。
数字の怪と想像力
詳しく検証してみる。まず数字の細かさについて。繰り返すが、この戦いで官側は完敗した。完敗した戦場で、なお敗れた側に犠牲者数を1の位まで細かく確認して帰る余力があるものだろうか。戦後も一帯を支配し続けるほどの、しっかりした勝利であれば、余裕をもって敵味方の犠牲者数を確認出来たかもしれない。しかし大半が溺死したり裸で逃げ帰ったりという大混乱の状況下では、たとえ専任の集計係がいたとしても、留まって犠牲者数を確認して帰ることなど出来ようはずもない。
次の溺死者や裸身で帰った兵が多かったこと。これも最初の疑問に通じる。裸身で逃げ帰った兵の集計なら容易だろうが、川面に浮く溺死者を、どのように数えたのか。溺死者は途中の浅瀬に引っかかったり、川底に沈んでいたり、はるか下流まで流されていたりで、広い範囲に拡散していたはず。倒れたまま動かない地上の戦死者より、死んでなお漂い動く溺死者はさらに数えにくいだろう。
冷静に考えれば明らかな矛盾だが、文献史学の立場からこの点に疑問が呈されたという話は聞いたことがない。虚偽報告が歴史的事実としてまかり通っているなら残念なことだ。
さて、3番目の逃亡兵がいなかったか、あるいは集計されていなかった点。これは後回しにして【続・公文書の改竄(かいざん)】で触れたい。ちなみに惨敗したにもかかわらず戦死者が25人と少なく、対する蝦夷側の戦死者が官側の3・5倍の89人にのぼった理由は何だったのか。真相は不明ながら、このような数字であれば「不利な地形のために不覚を取ったが、本筋の弓矢と刀による合戦では負けていなかった」と弁解する余地が残るだろう。
虚偽報告に怒るも、のちに許した桓武天皇の“事情”
報告を受けた桓武天皇は「虚飾である」「事実からかけ離れた戯言(ざれごと)だ」と怒り狂った。桓武天皇は英明な君主であったから、このような虚偽など容易に見破ったと思われる。トップの古佐美のほか副将の池田真枚(まひら)と安倍墨縄(すみただ)らに「敗戦の責任」を取らせ、処罰すると宣言した。ところが、である。怒りは最初のうちだけで、特に紀古佐美などは罪に問われることがなかった。桓武天皇には桓武天皇の事情があったのだ。(46【続・公文書の改竄(かいざん)】へ続く)
森友学園と加計(かけ)学園をめぐるモリカケ問題。次々と明るみに出る財務省の公文書隠しと書き換えに国民は食傷気味だが、これまで知られることのなかった公文書管理の実態には興味をそそられる。権力者の意向と役人の忖度(そんたく)との間で真実は揺らぎ、公文書の内容は微妙に変えられる--。情報過多の現代はともかく、正史と呼ばれる公文書類が歴史を伝える唯一の、あるいは主たる資料だった時代に、このような改竄が頻繁に行われていたとすれば、現代人が知る歴史は、その時代の権力者たちに都合の良い内容ばかりということになる。
改竄の「竄」は、鼠(ねずみ)の字に穴カンムリをかぶせたもの。「竄」には「隠れる」「のがれる」「捨てる」のほかに「改める、文字を入れ替える」の意味も(大修館『漢語林』)。「他人の詩文の一部を盗み取って自分の作とすること」を意味する「竄窃(ざんせつ)」というコトバもある。穴カンムリの理由は「ねずみが穴に隠れる様子から」だ。ネズミのごとき振る舞いなら、エリート官僚らしからぬ行為であることは間違いない。
『続日本紀』にみる虚偽報告の痕跡
筆者は小説『残照はるかに』(2013年、海像社)を書くにあたって『日本書紀』や『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』など、いわゆる正史と呼ばれるものを繰り返し読んだ。古代東北を舞台に大和王権と“先住民”蝦夷(えみし)の戦いを描いた小説だが、ここでも戦果を偽って天皇へ報告した形跡が読み取れた。正史そのものの改竄ではなく、虚偽の報告が正史に記載されたケースである。いつの時代にも「ネズミのごとき振る舞い」は横行していた。以下に概要を紹介する。
東北古代史における蝦夷と大和朝廷の戦いには「三十八年戦争」の語で括(くく)られる期間がある。特筆すべきは延暦年間の3度の激突。とりわけ延暦8年(789年)の最初の戦いだ。朝廷側は兵5万2千8百を動員、うち選抜された計4千余が北上川沿いを北上して千2百の蝦夷軍と戦った。蝦夷軍は攻めては逃げ、追撃が止むと引き返して攻める、という行動を繰り返す。結果、追う朝廷軍は細長く延びて分断され、不利な態勢になったところを北上川に追い詰められて、多数の兵が溺死した。蝦夷軍の巧みな戦いぶりだった。
<延暦年間3度の戦い(『続日本紀』などから>
①延暦8年の戦闘(官側動員5万2千8百、官側トップは征東大使・紀古佐美)▽官側損害=戦死25人、溺死1036人、負傷245人、泳ぎ裸身で帰る者1257人 ▽蝦夷側損害=戦死89人、焼失14村800棟
②延暦13年の戦闘(同10万、同征東大使・大伴弟麻呂)▽官側損害=逃亡340人▽蝦夷側損害=戦死457人、捕虜150人、馬損失85頭、焼失75か所
③延暦20年の戦闘(同4万人、同征夷大将軍・坂上田村麻呂)▽官側損害=なし▽蝦夷側損害=降伏5百人
延暦8年の戦いの後で、征東大使だった紀古佐美(きのこさみ)が奏上した内容が『続日本紀』延暦八年六月三日条にある。一見して奇異の感を覚える数字だ。まず、1の位まで実に細かい数字が並んでいること。次に、溺死者や裸身で帰った兵が多かったこと。3番目に、延暦13年の戦いとは対照的に逃亡兵がいなかったこと、あるいは集計されなかったこと。最後に、惨敗したにもかかわらず戦死者が25人と意外に少なく、これに対して蝦夷側の戦死者は官側の3・5倍の89人だったこと、などだ。
数字の怪と想像力
詳しく検証してみる。まず数字の細かさについて。繰り返すが、この戦いで官側は完敗した。完敗した戦場で、なお敗れた側に犠牲者数を1の位まで細かく確認して帰る余力があるものだろうか。戦後も一帯を支配し続けるほどの、しっかりした勝利であれば、余裕をもって敵味方の犠牲者数を確認出来たかもしれない。しかし大半が溺死したり裸で逃げ帰ったりという大混乱の状況下では、たとえ専任の集計係がいたとしても、留まって犠牲者数を確認して帰ることなど出来ようはずもない。
次の溺死者や裸身で帰った兵が多かったこと。これも最初の疑問に通じる。裸身で逃げ帰った兵の集計なら容易だろうが、川面に浮く溺死者を、どのように数えたのか。溺死者は途中の浅瀬に引っかかったり、川底に沈んでいたり、はるか下流まで流されていたりで、広い範囲に拡散していたはず。倒れたまま動かない地上の戦死者より、死んでなお漂い動く溺死者はさらに数えにくいだろう。
冷静に考えれば明らかな矛盾だが、文献史学の立場からこの点に疑問が呈されたという話は聞いたことがない。虚偽報告が歴史的事実としてまかり通っているなら残念なことだ。
さて、3番目の逃亡兵がいなかったか、あるいは集計されていなかった点。これは後回しにして【続・公文書の改竄(かいざん)】で触れたい。ちなみに惨敗したにもかかわらず戦死者が25人と少なく、対する蝦夷側の戦死者が官側の3・5倍の89人にのぼった理由は何だったのか。真相は不明ながら、このような数字であれば「不利な地形のために不覚を取ったが、本筋の弓矢と刀による合戦では負けていなかった」と弁解する余地が残るだろう。
虚偽報告に怒るも、のちに許した桓武天皇の“事情”
報告を受けた桓武天皇は「虚飾である」「事実からかけ離れた戯言(ざれごと)だ」と怒り狂った。桓武天皇は英明な君主であったから、このような虚偽など容易に見破ったと思われる。トップの古佐美のほか副将の池田真枚(まひら)と安倍墨縄(すみただ)らに「敗戦の責任」を取らせ、処罰すると宣言した。ところが、である。怒りは最初のうちだけで、特に紀古佐美などは罪に問われることがなかった。桓武天皇には桓武天皇の事情があったのだ。(46【続・公文書の改竄(かいざん)】へ続く)