堂々たる体躯で精力的に創作
九州旅行の汽車の中。隣り合わせた男は大和田建樹(たけき)が東京の人と知って、しきりに話し掛けてきた。両国の回向院(えこういん)がどうの、四十八手うんぬん、つり出しはなんとか‥‥。
「いや、相撲のことは、よくわかりません」
それまで受け流していた建樹は、たまらず答えた。途端に男の目が丸くなった。
「え? じゃあ旦那は、相撲の親方ではなかったんですかい?」
建樹の堂々とした体躯(たいく)の理由を、男は誤解したらしい。建樹は無言で男を見、苦笑した。相撲取りと間違えられることが初めてでなかったからだ。若き日の建樹のエピソード。学生時代、三晩の徹夜はしばしば。42歳で日記に「五晩くらいの徹夜なら今も平気」と書いた。頑強な体と旺盛な創作活動とは、大和田建樹を知るキーワードである。
一、夕空晴れて 秋風吹き 月影落ちて 鈴虫鳴く 思えば遠し 故郷の空
ああ わが父母 いかにおわす(作詞・大和田建樹、曲・スコットランド民謡)
生涯に作詞した歌が千3百余点。「鉄道唱歌」や「四条畷(しじょうなわて)」、「青葉の笛」も彼の手になる。明治33年に発表した「鉄道唱歌」が今でいうミリオンセラーに。現在では唱歌作者の面ばかりが有名になった。しかし建樹の真の評価は以下のようなものだ。
<明治20年代後半からの国文学漸進時に注釈書、文学史、辞典などを刊行し‥‥着想が新しく、先鞭(せんべん)をつけたものもあり、大きな浸透力を持っていた>(昭和女子大刊『近代文学研究叢書第11巻』大和田建樹の項目)
つまり当時一級の国文学者だった。とりわけ謡曲研究が白眉で、全8巻1616ページの大著『謡曲通解』など多くの著作を残した。英・独・仏・露語に通じた欧米詩翻訳家にして修辞学者、日欧文学史研究者、紀行作家‥‥。残した業績は大きな体にも似て多方面にわたっている。
1日に312首を作る
歌人としての業績も知られる。多作乱作の詠み手として。こんなエピソードもある‥‥。45歳の秋、東京・四谷の友人宅で催された歌会。建樹は朝8時から夕7時過ぎまでに合計312首を作り、居合わせた人々を驚嘆させた。あふれるように言葉が浮かぶ様は、延々と続く「鉄道唱歌」の歌詞を思えば納得がいく。
大和田建樹は安政4年(1857年)、愛媛県宇和島市生まれ。27歳で東京大学古典講習科講師、29歳で高等師範学校教授に任ぜられた。しかし5年ほどで辞め、以後いくつかの私立学校で教壇に立つ。在野の国文学者と言われることもある。
二、澄みゆく水に 秋萩(あきはぎ)垂(た)れ 玉なす露は 芒(すすき)に満つ
思えば似たり 故郷の野辺 ああ わが兄弟(はらから) たれと遊ぶ
「故郷の空」は明治21年に『明治唱歌・第一集』で発表された。建樹と、建樹と同い年の音楽家、奥好義(おく・よしいさ)との共編。五集まで刊行された。「故郷の空」の元歌はスコットランド民謡である。当時の日本では洋楽の作曲水準がまだ低く、ほかにも「庭の千草」や「埴生(はにゅう)の宿」「旅愁」「故郷の廃家」など外国産メロディーの唱歌が多かった。これには「西洋の楽譜に日本語の詞をつけたのでは、よい作はできるはずがない」という批判もあったが、建樹は「よきはよく、あしきはあし。いずれとも限るべからず」と、頓着(とんちゃく)しなかった(大和田建樹著『新文林』から)。
奥好義のバックアップ
ちなみに原題名を忠実に和訳すると「ライ麦畑を通って」。日本では「誰かが誰かと」という題名の、大木惇夫、伊藤武雄両氏の共作詞がよく知られている。
<誰かが誰かと 麦畑 こっそりキスした いいじゃないの‥‥>
共作詞は原詞に近く、おおらかで明るい内容だ。とはいえ明治もまだ半ば。<こっそりキスした いいじゃないの>では、いいじゃなかった、のだろう。建樹は原詞とはガラリと異なる詞に書き改めた。音楽に明るい人なら,詞だけでなく曲の方も微妙に異なる印象に変わったことに気づくかもしれない。『明治唱歌・第一集』共編者の奥好義が、原曲に顕著な「スコッチスナップ」と呼ばれるリズムを、しっくりと落ち着いたリズムへ修正した。
平凡社刊の『音楽大辞典』によると、スコットランド民俗舞踊のリズムがスコッチスナップ。スコッチの名は付いているが、18世紀イタリアが起源といい、東欧にもこのリズムの音楽が多い。取材でお伺いした宇和島市内の元小学校音楽教師、井上助次郎さんによると、スコッチスナップの原曲は子供が軽くステップを踏んでいる感じ。修正後は、大人が大股で歩いている印象になり、まるで対照的だという。井上さんが指導する宇和島市内の少年少女合唱団では2つのリズムで「故郷の空」を歌い分け、練習の教材にしているという。
もう一つ、奥好義による編曲上の改編は「ヨナ抜き長音階」に作り替えたことだ。どういうことか。ド、レ、ミ‥‥からファとシを抜き、ド、レ、ミ、ソ、ラ、ドで旋律を再構成した。当時はド、レ、ミ、ファをヒ(一)、フ(二)、ミ(三)、ヨ(四)、イ(五)、ム(六)、ナ(七)と表記していた。ファとシに当たるのがヨとナで、この2音階を抜いてド、レ、ミ、ソ、ラ、ドだけで書き直す。こうすると邦楽に似た旋律になり、西洋音楽に不慣れな耳にも馴染みやすい。当時の外国産メロディーの多くはヨナ抜き長音階で、改編は一般的な手法だったようだ。
からりと明るく、リズミカルな元歌の「誰かが誰かと」(原題は「ライ麦畑を通って」)。短歌など日本古来の美意識を感じさせる「故郷の空」。建樹に劣らず曲作りに大きな貢献をした奥好義だが、「編曲・奥好義」として名は残っていない。今となれば少し残念な気もする。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「故郷の空」の項を、書き改めたものです)
九州旅行の汽車の中。隣り合わせた男は大和田建樹(たけき)が東京の人と知って、しきりに話し掛けてきた。両国の回向院(えこういん)がどうの、四十八手うんぬん、つり出しはなんとか‥‥。
「いや、相撲のことは、よくわかりません」
それまで受け流していた建樹は、たまらず答えた。途端に男の目が丸くなった。
「え? じゃあ旦那は、相撲の親方ではなかったんですかい?」
建樹の堂々とした体躯(たいく)の理由を、男は誤解したらしい。建樹は無言で男を見、苦笑した。相撲取りと間違えられることが初めてでなかったからだ。若き日の建樹のエピソード。学生時代、三晩の徹夜はしばしば。42歳で日記に「五晩くらいの徹夜なら今も平気」と書いた。頑強な体と旺盛な創作活動とは、大和田建樹を知るキーワードである。
一、夕空晴れて 秋風吹き 月影落ちて 鈴虫鳴く 思えば遠し 故郷の空
ああ わが父母 いかにおわす(作詞・大和田建樹、曲・スコットランド民謡)
生涯に作詞した歌が千3百余点。「鉄道唱歌」や「四条畷(しじょうなわて)」、「青葉の笛」も彼の手になる。明治33年に発表した「鉄道唱歌」が今でいうミリオンセラーに。現在では唱歌作者の面ばかりが有名になった。しかし建樹の真の評価は以下のようなものだ。
<明治20年代後半からの国文学漸進時に注釈書、文学史、辞典などを刊行し‥‥着想が新しく、先鞭(せんべん)をつけたものもあり、大きな浸透力を持っていた>(昭和女子大刊『近代文学研究叢書第11巻』大和田建樹の項目)
つまり当時一級の国文学者だった。とりわけ謡曲研究が白眉で、全8巻1616ページの大著『謡曲通解』など多くの著作を残した。英・独・仏・露語に通じた欧米詩翻訳家にして修辞学者、日欧文学史研究者、紀行作家‥‥。残した業績は大きな体にも似て多方面にわたっている。
1日に312首を作る
歌人としての業績も知られる。多作乱作の詠み手として。こんなエピソードもある‥‥。45歳の秋、東京・四谷の友人宅で催された歌会。建樹は朝8時から夕7時過ぎまでに合計312首を作り、居合わせた人々を驚嘆させた。あふれるように言葉が浮かぶ様は、延々と続く「鉄道唱歌」の歌詞を思えば納得がいく。
大和田建樹は安政4年(1857年)、愛媛県宇和島市生まれ。27歳で東京大学古典講習科講師、29歳で高等師範学校教授に任ぜられた。しかし5年ほどで辞め、以後いくつかの私立学校で教壇に立つ。在野の国文学者と言われることもある。
二、澄みゆく水に 秋萩(あきはぎ)垂(た)れ 玉なす露は 芒(すすき)に満つ
思えば似たり 故郷の野辺 ああ わが兄弟(はらから) たれと遊ぶ
「故郷の空」は明治21年に『明治唱歌・第一集』で発表された。建樹と、建樹と同い年の音楽家、奥好義(おく・よしいさ)との共編。五集まで刊行された。「故郷の空」の元歌はスコットランド民謡である。当時の日本では洋楽の作曲水準がまだ低く、ほかにも「庭の千草」や「埴生(はにゅう)の宿」「旅愁」「故郷の廃家」など外国産メロディーの唱歌が多かった。これには「西洋の楽譜に日本語の詞をつけたのでは、よい作はできるはずがない」という批判もあったが、建樹は「よきはよく、あしきはあし。いずれとも限るべからず」と、頓着(とんちゃく)しなかった(大和田建樹著『新文林』から)。
奥好義のバックアップ
ちなみに原題名を忠実に和訳すると「ライ麦畑を通って」。日本では「誰かが誰かと」という題名の、大木惇夫、伊藤武雄両氏の共作詞がよく知られている。
<誰かが誰かと 麦畑 こっそりキスした いいじゃないの‥‥>
共作詞は原詞に近く、おおらかで明るい内容だ。とはいえ明治もまだ半ば。<こっそりキスした いいじゃないの>では、いいじゃなかった、のだろう。建樹は原詞とはガラリと異なる詞に書き改めた。音楽に明るい人なら,詞だけでなく曲の方も微妙に異なる印象に変わったことに気づくかもしれない。『明治唱歌・第一集』共編者の奥好義が、原曲に顕著な「スコッチスナップ」と呼ばれるリズムを、しっくりと落ち着いたリズムへ修正した。
平凡社刊の『音楽大辞典』によると、スコットランド民俗舞踊のリズムがスコッチスナップ。スコッチの名は付いているが、18世紀イタリアが起源といい、東欧にもこのリズムの音楽が多い。取材でお伺いした宇和島市内の元小学校音楽教師、井上助次郎さんによると、スコッチスナップの原曲は子供が軽くステップを踏んでいる感じ。修正後は、大人が大股で歩いている印象になり、まるで対照的だという。井上さんが指導する宇和島市内の少年少女合唱団では2つのリズムで「故郷の空」を歌い分け、練習の教材にしているという。
もう一つ、奥好義による編曲上の改編は「ヨナ抜き長音階」に作り替えたことだ。どういうことか。ド、レ、ミ‥‥からファとシを抜き、ド、レ、ミ、ソ、ラ、ドで旋律を再構成した。当時はド、レ、ミ、ファをヒ(一)、フ(二)、ミ(三)、ヨ(四)、イ(五)、ム(六)、ナ(七)と表記していた。ファとシに当たるのがヨとナで、この2音階を抜いてド、レ、ミ、ソ、ラ、ドだけで書き直す。こうすると邦楽に似た旋律になり、西洋音楽に不慣れな耳にも馴染みやすい。当時の外国産メロディーの多くはヨナ抜き長音階で、改編は一般的な手法だったようだ。
からりと明るく、リズミカルな元歌の「誰かが誰かと」(原題は「ライ麦畑を通って」)。短歌など日本古来の美意識を感じさせる「故郷の空」。建樹に劣らず曲作りに大きな貢献をした奥好義だが、「編曲・奥好義」として名は残っていない。今となれば少し残念な気もする。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「故郷の空」の項を、書き改めたものです)