斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

76 【東北、縄文時代の豊穣⑤】

2020年08月01日 | 言葉
 朝廷を狂喜させた金の産出
 生活への影響という点では米作に及ばないが、陸奥国での日本最初の産金も、古代東北の豊かさを示すものだろう。『続日本紀』天平21年(749年)2月22日条に、陸奥国からの黄金貢進の記事が初めて載った。聖武天皇の喜びようはひと通りでなく、天皇は年号を天平勝宝元年と改めた。   
 記事の内容は、陸奥国守を務めていた百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が、この地で採れたとして9百両分の黄金を献じた、というもの。産出した場所は現在の宮城県遠田郡涌谷(わくや)町黄金迫(こがねはざま)だった。1両41グラムで計算すると、9百両は約3・7キロに相当する。これだけの量の砂金を採取するには、相応の年月が必要だ。奈良まで運ぶ手間まで考えると、実際の発見は、9百両献上の2年くらい前までさかのぼると推測される。

 東大寺・大仏建立に使われた黄金
 折から聖武天皇は東大寺に大仏を建立中であり、当時メッキに使う金は中国大陸からの輸入に頼るほかに方法がなかった。そこへの突然の産金だったから、天皇にとっても日本国にとっても、天からの恵みになった。聖武天皇は仏教による鎮護国家を目指して全国に国分寺と国分尼寺を建立するほど信心深く、特に東大寺は全国国分寺の中心の寺として位置づけられていた。聖武天皇が突然の産金を奇跡的な出来事として受けとめ、神意ならぬ「仏の意志」と感じたのは当然だ。『万葉集』の編纂者である大伴家持は次のような歌を残している。
 <天皇(すめろぎ)の御代(みよ)栄えむと東(あづま)なる陸奥山(みちのくやま)に黄金(くがね)花咲く>     
 聖武天皇は奇瑞(きずい)を感謝する詔を発した。そのなかに大伴・佐伯の両氏を褒(ほ)める詞章があった。家持は感激して長大な長歌を作った。紹介したのは、その反歌の部分。聖武天皇を始め朝廷忠臣たちの喜ぶさまが、よく伝わっている。

 大仏製作で水銀中毒の余談
 ちなみに当時のメッキ技術では、金と水銀を1対5の割合で加熱して溶かし、アマルガムにして銅の大仏に塗り付けた後、再び加熱して水銀を溶かし落とした。再加熱の際に大量の水銀蒸気が発生するため、吸い込んだ工夫(こうふ)たちは、のちに奇病に苦しんだ。水銀中毒である。文献によると、使用された金は合計4千187両分。最初の9百両分だけでは不足だから、その後も長く採掘が続き、奈良へ送られたはず。ここで採れた金だけで奈良大仏の必要量すべてをカバーし得たのか、それとも一部を中国大陸からの輸入で手当てしたのかは不明である。
 時代が下って平泉の藤原氏、江戸期の伊達氏による金採掘が盛んになると、東北各地に金山が続々と誕生する。しかし、この時はまだ蝦夷たちの時代。伊東氏はその後の発掘調査の際に砂金を採集した経験を『古代東北発掘』で披露している。容易に採取出来るほど砂金が豊富だったうえ、大学に持ち帰って分析してもらうと、非常に高純度だった。だとすれば黄金迫の金はすっかり採り尽くされたわけでなく、さらに産出する余力の残していた可能性がある。夢のふくらむ大きな話だ。

 江戸時代、産金の地を黄金迫でなく宮城県石巻市の金崋山とする説が有力だった。しかし江戸後期の国学者・沖安海(やすみ)が神社の礎石や古瓦などを証拠に文化7年(1810年)、『陸奥国小田郡黄金山神社考』を著し、黄金迫の金産出説を唱えた。沖は伊勢白子(現・三重県鈴鹿市)の人。家は代々、染型紙の販売を業とし、沖も東北地方を行商して回ることが多かった。行商の傍ら史跡を巡り歩き、黄金迫にも立ち寄りって役所跡と瓦などを見つけ、産金地であることを確かめた。

 縄文の宝石、琥珀(こはく)
 さて、金と並ぶ古代東北産の宝物といえば、岩手県久慈産の琥珀である。松柏科植物の樹脂が化石化し、鉱物並みの硬度を持つに至ったものが琥珀だ。黄色から黄褐色、赤褐色まで、黄から赤への微妙な色調が美しく、古代には棗(なつめ)玉や丸玉、勾玉の形で装飾品として使われた。宝石には真珠やサンゴなど動物由来のものもあるが、大半は鉱物で、植物由来の琥珀は珍しい。中国では虎が死ぬと琥珀になるとの言い伝えがあり、琥珀の「琥」はそれに因(ちな)む。
 国内の琥珀産地は現在、久慈のほかに北海道石狩地方や福島県いわき市、千葉県銚子市、岐阜県瑞浪市、神戸市などが知られ、国内では10か所前後の地で産出が確認されている。とりわけ久慈は産出量が多く品質も良かった。久慈市教育委員会の千葉啓蔵氏がまとめたリポート『久慈市平沢Ⅰ遺跡の概要』によると、同市の平沢Ⅰ遺跡では縄文時代後期から平安時代にかけて琥珀加工工房(玉作遺跡)に使用された多数の竪穴住居跡が確認されているという。同じ久慈市長内の中長内遺跡と1キロほど離れた場所にあり、ともに加工工房跡が出土した。

 加工工房であると分かる理由は、出土する琥珀が発掘したままの塊や加工の際に生じる破片、さらに未完成品ばかりであるため。収集品の出土なら完成品が大半になるはずだが、完成品は出土していない。完成品はすべて出荷されたか、半製品の段階まで加工され、その後奈良などの消費地で最終的に加工されたのだろう。集落全体が加工業に携わっていたとすれば、小さな工場の様相を呈していたかもしれない。周辺遺跡からの琥珀出土が確認されていないので、両遺跡が独占排他的な加工専業集落だった可能性もあるという。縄文人が狩猟採集の民というだけでなく、カルテルの必要まで考えた工業の民だったとすれば、まさしく驚きである。(続く)