貶(おとし)められた蝦夷(えみし)
『日本書紀』によれば第12代天皇の景行(けいこう)天皇は、紀元71年に即位し、同130年に106歳で崩御した。同書の景行天皇紀に蝦夷(えみし)の生活ぶりを描いた、次のような一節がある。蝦夷(みえし)とは古代東北に暮らしていた人たちを指し、蝦夷(えぞ)とは意味するところが異なる。
<其〈か)の東の夷(ひな)は識性(たましい)暴(あら)び強(こわ)し。凌犯(しのぎおかすこと)を宗(むね)とす。村に長(おさ)なく邑(むら)に首(おびと)なし。各境を貪りて並びに相盗(あいかす)む。亦(また)山に邪(あ)しき神あり。郊(のら)に姦鬼あり。ちまたに遮り径を塞ぐ。多(おおい)に人を苦びしむ。其の東の夷の中に、蝦夷は是尤(はなはだ)強し。男女交わり居りて父子別なし。冬は穴に宿(ね)、夏は樔(す)に住む。毛を衣(し)き血を飲みて、昆弟(このかみおとと)相疑う。山に登ること飛ぶ禽(とり)の如く、草を行(はし)ること走(に)ぐる獣の如し。恩を承けては忘る。怨(あだ)を見ては必ず報ゆ。是を以って、箭(や)を頭髻(かみふさ)に蔵(かく)し、刀を衣の中に佩(は)く。或いは党類(ともがら)を聚(あつ)めて辺境を犯す。或いは農桑(なりわいのとき)を伺ひて人民を略(かす)む。撃てば草に隠る。追えば山に入る。故(かれ)、往古(いにしえ)より以来(このかた)、未だ王化(おうか)に染(したが)はず>(景行天皇四十年紀)
景行紀の真の主役は第二皇子の小碓尊(おうすのみこと)こと日本武尊(やまとたけるのみこと)である。紹介した一節は日本武尊の東征に際し、討つべき東国蝦夷の生活実態を描写したものだ。蝦夷(えみし)と呼ばれた人たちがいかに劣等で悪しき民であるかを強調することにより、日本武尊の東征を正当化しようとした。服従させることが敵にとっても救済にもなるというのは、古今東西よく使われてきた征服者の論理。ポイントは、蝦夷と呼ばれた人たちが、かくも後進未開の民だったのか、である。
描写された姿はいつの時代のものか。冒頭の景行天皇の在位期間からすると、紀元1世紀後半から2世紀前半にかけての蝦夷描写と考えるのが妥当だ。ただし当時の日本民族は文字を持たなかったから、文献に記された蝦夷情報ではない。『日本書紀』の成立は、はるか後の養老4年(720年)であり、普通に考えれば編者が見聞した同時代の蝦夷像を基に、想像力を6百年余前に遡らせて創作した、ということになる。要は想像力の産物なので誇張がひどくても不思議はない。
折しも『日本書紀』の成立する頃あたりから、朝廷による東征が本格化した。当然ながら蝦夷たちの抵抗も活発になる。658年、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が東北各地へ遠征する。奈良時代初頭の709年には巨勢麻呂(こせのまろ)が東北の地で軍事行動を展開した。奈良時代も終わりに近い774年に至ると、蝦夷たちが桃生城(ものうのき)を攻めて「三十八年戦争」の発端となった。こういう時代であれば朝廷側からの蝦夷像が「撃(う)ちて取るべき」(二十七年紀)対象として、憎々しくも獣じみて描かれるのは当然だ。
都の貴族たちは遠い北の地で暮らす蝦夷たちについて、描写通りに受けとめたに違いない。しかし現代なら、このような描写も一歩退いて客観的に見詰め直すことが出来る。にもかかわらず「四十年紀」のこの描写が文献に残る一番詳細な蝦夷情報であるため、現代に至るまで蝦夷をイメージする際に参考にされてきた。日本武尊が実在の人物かどうかさえ疑われているのに、想像の産物である蝦夷観が独り歩きしているとしたら、おかしなことだ。
よく似た『史記』の描写
中国・前漢時代に司馬遷がまとめた歴史書『史記』に、よく似た描写が登場する。
〈平和な時代には家畜について移動し、鳥や獣をとって生活の糧(かて)とした。危機が訪れると、人々は武器をとり侵入と略奪に出るのがふつうであった。かれらの兵器には遠距離用としては弓矢、白兵戦用としては刀と鉾(ほこ)があった。形勢有利とあれば進撃し、不利と見れば退却し、平気で逃走した。個人的利益だけに関心をもち、礼儀とか道義とかを知らなかった。酋長以下、みな家畜の肉を食べ、その皮革を着、毛織の上衣をまとった。若者たちがうまいものを食べ、老人たちはその残り物を食べた〉(世界古典文学全集『史記列伝』より、筑摩書房刊)
北方遊牧民の英雄群像を内容とする「匈奴列伝」の冒頭部分である。農耕民族の目を以って北方遊牧民族の暮らしを見れば、一切は物珍しく映る。寒い北の地では定住せず「家畜について移動」することが遊牧民の理にかなう生活方法であっても、居を定めて農耕生活を送る漢民族の目には野蛮な生活に見えたはずだ。
想像の産物、他書からの書き写し
話は戻る。『日本書紀』に描かれた蝦夷像が「想像の産物」であることは、すでに述べた。それだけでなく『史記』の表現を真似、あるいは参考にした形跡が見て取れる。一定しない住居や皮革を材料とした衣装、家族関係、モラルの欠如、肉食、さらに戦闘における強さと俊敏さなどである。項目ばかりか、書き進める順序まで酷似している。『史記』を下敷きにしていなかったと考えることの方が不自然だろう。重要なのは『日本書紀』の蝦夷情報は編者の想像の産物というばかりでなく、他書からの書き写しでもあるという事実。蝦夷の実態に近い描写ではなく、意図的・政治的に歪(ゆが)められたフェイク情報なのである。(続く)
『日本書紀』によれば第12代天皇の景行(けいこう)天皇は、紀元71年に即位し、同130年に106歳で崩御した。同書の景行天皇紀に蝦夷(えみし)の生活ぶりを描いた、次のような一節がある。蝦夷(みえし)とは古代東北に暮らしていた人たちを指し、蝦夷(えぞ)とは意味するところが異なる。
<其〈か)の東の夷(ひな)は識性(たましい)暴(あら)び強(こわ)し。凌犯(しのぎおかすこと)を宗(むね)とす。村に長(おさ)なく邑(むら)に首(おびと)なし。各境を貪りて並びに相盗(あいかす)む。亦(また)山に邪(あ)しき神あり。郊(のら)に姦鬼あり。ちまたに遮り径を塞ぐ。多(おおい)に人を苦びしむ。其の東の夷の中に、蝦夷は是尤(はなはだ)強し。男女交わり居りて父子別なし。冬は穴に宿(ね)、夏は樔(す)に住む。毛を衣(し)き血を飲みて、昆弟(このかみおとと)相疑う。山に登ること飛ぶ禽(とり)の如く、草を行(はし)ること走(に)ぐる獣の如し。恩を承けては忘る。怨(あだ)を見ては必ず報ゆ。是を以って、箭(や)を頭髻(かみふさ)に蔵(かく)し、刀を衣の中に佩(は)く。或いは党類(ともがら)を聚(あつ)めて辺境を犯す。或いは農桑(なりわいのとき)を伺ひて人民を略(かす)む。撃てば草に隠る。追えば山に入る。故(かれ)、往古(いにしえ)より以来(このかた)、未だ王化(おうか)に染(したが)はず>(景行天皇四十年紀)
景行紀の真の主役は第二皇子の小碓尊(おうすのみこと)こと日本武尊(やまとたけるのみこと)である。紹介した一節は日本武尊の東征に際し、討つべき東国蝦夷の生活実態を描写したものだ。蝦夷(えみし)と呼ばれた人たちがいかに劣等で悪しき民であるかを強調することにより、日本武尊の東征を正当化しようとした。服従させることが敵にとっても救済にもなるというのは、古今東西よく使われてきた征服者の論理。ポイントは、蝦夷と呼ばれた人たちが、かくも後進未開の民だったのか、である。
描写された姿はいつの時代のものか。冒頭の景行天皇の在位期間からすると、紀元1世紀後半から2世紀前半にかけての蝦夷描写と考えるのが妥当だ。ただし当時の日本民族は文字を持たなかったから、文献に記された蝦夷情報ではない。『日本書紀』の成立は、はるか後の養老4年(720年)であり、普通に考えれば編者が見聞した同時代の蝦夷像を基に、想像力を6百年余前に遡らせて創作した、ということになる。要は想像力の産物なので誇張がひどくても不思議はない。
折しも『日本書紀』の成立する頃あたりから、朝廷による東征が本格化した。当然ながら蝦夷たちの抵抗も活発になる。658年、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が東北各地へ遠征する。奈良時代初頭の709年には巨勢麻呂(こせのまろ)が東北の地で軍事行動を展開した。奈良時代も終わりに近い774年に至ると、蝦夷たちが桃生城(ものうのき)を攻めて「三十八年戦争」の発端となった。こういう時代であれば朝廷側からの蝦夷像が「撃(う)ちて取るべき」(二十七年紀)対象として、憎々しくも獣じみて描かれるのは当然だ。
都の貴族たちは遠い北の地で暮らす蝦夷たちについて、描写通りに受けとめたに違いない。しかし現代なら、このような描写も一歩退いて客観的に見詰め直すことが出来る。にもかかわらず「四十年紀」のこの描写が文献に残る一番詳細な蝦夷情報であるため、現代に至るまで蝦夷をイメージする際に参考にされてきた。日本武尊が実在の人物かどうかさえ疑われているのに、想像の産物である蝦夷観が独り歩きしているとしたら、おかしなことだ。
よく似た『史記』の描写
中国・前漢時代に司馬遷がまとめた歴史書『史記』に、よく似た描写が登場する。
〈平和な時代には家畜について移動し、鳥や獣をとって生活の糧(かて)とした。危機が訪れると、人々は武器をとり侵入と略奪に出るのがふつうであった。かれらの兵器には遠距離用としては弓矢、白兵戦用としては刀と鉾(ほこ)があった。形勢有利とあれば進撃し、不利と見れば退却し、平気で逃走した。個人的利益だけに関心をもち、礼儀とか道義とかを知らなかった。酋長以下、みな家畜の肉を食べ、その皮革を着、毛織の上衣をまとった。若者たちがうまいものを食べ、老人たちはその残り物を食べた〉(世界古典文学全集『史記列伝』より、筑摩書房刊)
北方遊牧民の英雄群像を内容とする「匈奴列伝」の冒頭部分である。農耕民族の目を以って北方遊牧民族の暮らしを見れば、一切は物珍しく映る。寒い北の地では定住せず「家畜について移動」することが遊牧民の理にかなう生活方法であっても、居を定めて農耕生活を送る漢民族の目には野蛮な生活に見えたはずだ。
想像の産物、他書からの書き写し
話は戻る。『日本書紀』に描かれた蝦夷像が「想像の産物」であることは、すでに述べた。それだけでなく『史記』の表現を真似、あるいは参考にした形跡が見て取れる。一定しない住居や皮革を材料とした衣装、家族関係、モラルの欠如、肉食、さらに戦闘における強さと俊敏さなどである。項目ばかりか、書き進める順序まで酷似している。『史記』を下敷きにしていなかったと考えることの方が不自然だろう。重要なのは『日本書紀』の蝦夷情報は編者の想像の産物というばかりでなく、他書からの書き写しでもあるという事実。蝦夷の実態に近い描写ではなく、意図的・政治的に歪(ゆが)められたフェイク情報なのである。(続く)