世界観とイデオロギー
「世界観」の意味は「世界を全体として意味づける見方。人生観よりも包括的」(『広辞苑}』第7版)だ。「包括的」とは「一つに合わせて、くくること」(同辞書)。コトバとしての「世界観」は、ドイツ観念論哲学のカントが、1790年の著『判断力批判』で使ったのが最初とされる。現代でも哲学のほか宗教学や文学、政治学、社会学などで広く使われ、意味も少しずつ異なるようだ。しかし、こう説明すると、かえって分かりにくくなる。ここでは字面(じづら)どおり「世界をどう観るか」の意味と理解しておきたい。
さて、政治や思想の次元で考えると、似たコトバに「イデオロギー」がある。こちらの初出は19世紀初め、フランスの哲学者デステュット・ド・トラシ著の『イデオロジー要論』という本だった(有斐閣『社会学小辞典』より)。ナポレオンがトラシの説を「空論」と批判したことから、このコトバには「根拠の無い虚偽・空論」というイメージが付いて回るようになった。さらに19世紀半ば、マルクスとエンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』を著(あらわ)し、ヘーゲル左派流の観念論を「イデオロギー」と呼んで「偏った虚偽意識である」と揶揄(やゆ)・批判した。以後マイナスイメージの語として定着した。
しかし現代では「共産主義イデオロギー」など、マルクス主義そのものを指す場合が多くなった。コトバの変転はアイロニカルだ。ここでは「転じて、単に思想傾向、政治や社会に関する主義の意」(『広辞苑}』第7版)との理解で十分だろう。
「世界観政党」の例
「世界観」も「イデオロギー」も、人と時代により異なる意味で用いられてきた。現在も変化し続ける、生きたコトバである。トランプ政権下の米国内でベストセラーになった『全体主義の起源』(日本では、みすず書房刊)という本で、著者ハンナ・アーレントは「全体主義は国家でなく運動だった。ナチスは、運動の初期の段階で人種や民族という概念を世界観に持ち込み、それを統治の原理に組み込んだ」と書いている。
第1次世界大戦の敗北で国力を落とし、疲弊の極にあったドイツ国民は、勝者である英米仏の背後でユダヤ系資本が策動したから負けた、と信じていた。陰謀論がドイツ国民の「世界観」だった。ヒットラーは「ユダヤ人のいない世界」への道筋を示し、扇動(運動)した。「世界観」の染み込んだ国民は、虐殺という暴挙に疑問を抱くことなく加担した。
世界観政党が勢力を増し、権力を握って世界観国家となった例には、ナチス・ドイツや旧ソ連などがある。戦前の日本も<大東亜共栄圏>や<八紘一宇(はっこういちう)>の「世界観」を戴いて、破滅への道を突き進んだ。歴史をさかのぼれば中世ヨーロッパのキリスト教諸国家が、現代ならイスラム教強硬派の国家群が、典型的な世界観国家だと言える。
なぜ「世界観政党」が問題か
世界観国家の危険は以下の点だ。至上とする「世界観」がアプリオリ(先験的に、事前に)に存在するため、もはや国政の場で「あるべき国の姿」(たとえば「完全な共産主義社会」や「神の国」)を追い求める努力は不要になる。時にはアンタッチャブルでさえある。議論の対象は、もっぱら「世界観」に反しない政策であるか否か、だ。反する意見(異見)は「反革命」であり「異端」であるから、時に存在そのものまでが排除される。
さらに問題は「反するか否か」が「一党独裁」や「宗教裁判所」の名のもと、幅広い国民の議論を経ることなく、少数の権力者たちで決められる点。権力側の言い分は「反するか否かの判断には高度な知識が必要で、衆愚政治の多数決には馴染(なじ)まない」である。この論理から最終的には独裁政治が生まれる。
付け加えると「一党独裁」はマルクス主義の本義ではない、とする考え方もある。説いたのは「プロレタリアートによる階級独裁」であった。複数の階級政党による合議制とする方が理に適(かな)うし、チエも出やすい。「一党独裁」と「階級独裁」とでは、まるで違う。
日本での「世界観政党」論
日本での世界観政党論議で筆者が真っ先に思い浮かべるのは、1966年に河出書房新社から刊行された『現代日本の革新思想』という本だ(現在は岩波現代文庫に上下巻で収録)。政治学者の丸山真男、マルクス主義哲学者の梅本克己、構造改革派系経済学者の佐藤昇の3氏が、半世紀余前の日本の思想状況について鼎談(ていだん)した。
東西冷戦も真っ盛りの半世紀前のことだから、鼎談のポイントは旧ソ連共産党など当時の共産圏諸国の「一党独裁」に行き着く。丸山氏は戦後民主主義を代表する政治学者、梅本氏は非共産党系のマルクス主義学者、佐藤氏はトリアッティの流れをくむ構造改革派の経済学者。ともに当時気鋭の論客たちだったから論議は多岐にわたり、しかも濃かった。しかし50余年の時を経て、どのテーマも”解答”の出ぬまま薄れてしまった観が否めない。
筆者個人としては「世界観政党」も「世界観国家」も、ずっと胸の中で蟠(わだかま)り続けて来たコトバだった。そして今、世界では、香港や台湾の人々を「一党独裁」政治が追い詰め、頑強頑迷なイスラム原理主義運動が猛威をふるっている。2つのコトバを、再び俎上(そじょう)に載(の)せるべき時であるように思えてならない。(「下」に続く)
「世界観」の意味は「世界を全体として意味づける見方。人生観よりも包括的」(『広辞苑}』第7版)だ。「包括的」とは「一つに合わせて、くくること」(同辞書)。コトバとしての「世界観」は、ドイツ観念論哲学のカントが、1790年の著『判断力批判』で使ったのが最初とされる。現代でも哲学のほか宗教学や文学、政治学、社会学などで広く使われ、意味も少しずつ異なるようだ。しかし、こう説明すると、かえって分かりにくくなる。ここでは字面(じづら)どおり「世界をどう観るか」の意味と理解しておきたい。
さて、政治や思想の次元で考えると、似たコトバに「イデオロギー」がある。こちらの初出は19世紀初め、フランスの哲学者デステュット・ド・トラシ著の『イデオロジー要論』という本だった(有斐閣『社会学小辞典』より)。ナポレオンがトラシの説を「空論」と批判したことから、このコトバには「根拠の無い虚偽・空論」というイメージが付いて回るようになった。さらに19世紀半ば、マルクスとエンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』を著(あらわ)し、ヘーゲル左派流の観念論を「イデオロギー」と呼んで「偏った虚偽意識である」と揶揄(やゆ)・批判した。以後マイナスイメージの語として定着した。
しかし現代では「共産主義イデオロギー」など、マルクス主義そのものを指す場合が多くなった。コトバの変転はアイロニカルだ。ここでは「転じて、単に思想傾向、政治や社会に関する主義の意」(『広辞苑}』第7版)との理解で十分だろう。
「世界観政党」の例
「世界観」も「イデオロギー」も、人と時代により異なる意味で用いられてきた。現在も変化し続ける、生きたコトバである。トランプ政権下の米国内でベストセラーになった『全体主義の起源』(日本では、みすず書房刊)という本で、著者ハンナ・アーレントは「全体主義は国家でなく運動だった。ナチスは、運動の初期の段階で人種や民族という概念を世界観に持ち込み、それを統治の原理に組み込んだ」と書いている。
第1次世界大戦の敗北で国力を落とし、疲弊の極にあったドイツ国民は、勝者である英米仏の背後でユダヤ系資本が策動したから負けた、と信じていた。陰謀論がドイツ国民の「世界観」だった。ヒットラーは「ユダヤ人のいない世界」への道筋を示し、扇動(運動)した。「世界観」の染み込んだ国民は、虐殺という暴挙に疑問を抱くことなく加担した。
世界観政党が勢力を増し、権力を握って世界観国家となった例には、ナチス・ドイツや旧ソ連などがある。戦前の日本も<大東亜共栄圏>や<八紘一宇(はっこういちう)>の「世界観」を戴いて、破滅への道を突き進んだ。歴史をさかのぼれば中世ヨーロッパのキリスト教諸国家が、現代ならイスラム教強硬派の国家群が、典型的な世界観国家だと言える。
なぜ「世界観政党」が問題か
世界観国家の危険は以下の点だ。至上とする「世界観」がアプリオリ(先験的に、事前に)に存在するため、もはや国政の場で「あるべき国の姿」(たとえば「完全な共産主義社会」や「神の国」)を追い求める努力は不要になる。時にはアンタッチャブルでさえある。議論の対象は、もっぱら「世界観」に反しない政策であるか否か、だ。反する意見(異見)は「反革命」であり「異端」であるから、時に存在そのものまでが排除される。
さらに問題は「反するか否か」が「一党独裁」や「宗教裁判所」の名のもと、幅広い国民の議論を経ることなく、少数の権力者たちで決められる点。権力側の言い分は「反するか否かの判断には高度な知識が必要で、衆愚政治の多数決には馴染(なじ)まない」である。この論理から最終的には独裁政治が生まれる。
付け加えると「一党独裁」はマルクス主義の本義ではない、とする考え方もある。説いたのは「プロレタリアートによる階級独裁」であった。複数の階級政党による合議制とする方が理に適(かな)うし、チエも出やすい。「一党独裁」と「階級独裁」とでは、まるで違う。
日本での「世界観政党」論
日本での世界観政党論議で筆者が真っ先に思い浮かべるのは、1966年に河出書房新社から刊行された『現代日本の革新思想』という本だ(現在は岩波現代文庫に上下巻で収録)。政治学者の丸山真男、マルクス主義哲学者の梅本克己、構造改革派系経済学者の佐藤昇の3氏が、半世紀余前の日本の思想状況について鼎談(ていだん)した。
東西冷戦も真っ盛りの半世紀前のことだから、鼎談のポイントは旧ソ連共産党など当時の共産圏諸国の「一党独裁」に行き着く。丸山氏は戦後民主主義を代表する政治学者、梅本氏は非共産党系のマルクス主義学者、佐藤氏はトリアッティの流れをくむ構造改革派の経済学者。ともに当時気鋭の論客たちだったから論議は多岐にわたり、しかも濃かった。しかし50余年の時を経て、どのテーマも”解答”の出ぬまま薄れてしまった観が否めない。
筆者個人としては「世界観政党」も「世界観国家」も、ずっと胸の中で蟠(わだかま)り続けて来たコトバだった。そして今、世界では、香港や台湾の人々を「一党独裁」政治が追い詰め、頑強頑迷なイスラム原理主義運動が猛威をふるっている。2つのコトバを、再び俎上(そじょう)に載(の)せるべき時であるように思えてならない。(「下」に続く)