はるかなる内モンゴル
多くの日本人はモンゴル(モンゴル国、旧称・モンゴル人民共和国)という大草原の国に親近感を抱いているかもしれない。人類学では日本人のルーツを蒙古方面とする学説が有力であるし、日本人とモンゴル人とは顔つきが似ている。大相撲で白鵬や日馬富士を筆頭にモンゴル出身の人気力士たちが活躍していることも親近感の理由だろうか。
これに対して「内モンゴル」と聞いて、すぐイメージがわく日本人は少ないに違いない。映画好きならサイフーとマイリースの内モンゴル出身夫妻が共同監督した作品『天上草原』(Heavenly Grassland、2002年)を思い浮かべるかもしれない。正確には中華人民共和国・内モンゴル自治区(南モンゴル自治区)、つまり中国の一地域である。名の通りモンゴル国のすぐ南に隣接し、中華人民共和国(中国)でも最北に位置する。中国側の統計が正確なら人口2千4百万人弱、ほぼ8割が漢人(漢民族)で、モンゴル人(モンゴル民族)は4百万人強と2割に満たない。漢民族の比率が多い理由は、中国共産党の一貫した移民政策の結果で、ここに内モンゴルの悲劇があるのだが、詳しくはのちに述べる。ちなみに内モンゴルのすぐ北の独立国・モンゴル国の人口は3百万人強だから、実は中国・内モンゴルに住むモンゴル人の方が多いことになる。
民族分断の悲劇
分断国家という言葉から日本人が想像するのは南北ベトナムや東西ドイツ、南北朝鮮の3つのケースだろう。しかしモンゴルの事情は大いに異なる。3つのケースでは分断された双方が国家として存続したため、民族の独自性を保つことが出来た。だがモンゴルの場合は一方がモンゴル国という独立国家で、他方は中国の一部なのである。問題は後者の内モンゴルだ。漢民族が圧倒的な中国にあっては、それでなくとも少数派モンゴル人の影は薄れがち。内モンゴル自治区内では、さらに国の同化政策により漢人を大量に移民させ、両民族の人口比を逆転させたうえで、漢人を「自治区」の共産党幹部や高官に就けた。少数民族を多数民族から保護することが「自治区」本来のあるべき姿なのに、中国と中国共産党のとって来た政策は真逆だ。いかにして内モンゴルの地をモンゴル民族から奪い取るか――が、共産党政権の一貫した対異民族戦略だった。ひそかな狙いは豊富に眠る地下資源の可能性である。
漢民族の大量移民による異民族同化政策は、中国・チベット自治区におけるチベット民族に対する手法と、まったく同じ。現在も独立への動きが激しいチベットについては改めて触れるが、事態を抑え込もうとする中国当局の、チベット問題に関する言い分は「中国がチベット民族を仏教の呪縛から解放した。宗教はアヘンと同じ」だ。国家とは何か、なぜ国家という形の枠組みが必要か――は、政治学の教科書を持ち出さずとも皆が知るところだが、中国にはそうした常識が通じない。19世紀のマルクス主義的宗教観が大手を振るい、多様な価値観を認めようとしない。特に諸民族の自主性を矮小化し、あるいは否定する。それならそれでチベットを他国として手放せばよいものを、なおも自国領土として留めおこうとする貪欲さは、悪しき社会帝国主義の見本と言える。チベット人を「呪縛」しているのは、宗教でなく漢民族という存在であり、チベット人が心から願うのは漢民族からの「解放」の方である。
もう一つの文化大革命・内モンゴル人大量虐殺
現在では記憶も薄れがちな中国の文化大革命。当時の日本の知識層の中には「造反有理」のスローガンとともに、腐敗した「実権派」一掃のキャンペーンとして好意的に受け止める人が多かった。終わってみれば紅衛兵という少年少女を巻き込んでの権力闘争以外の何ものでもなかったわけだが、文化大革命下の内モンゴル自治区でモンゴル人が大量虐殺されていた事実を、一般の日本人はほとんど知らない。日本のメディアは報道しなかったし、日本に数多いはずの中国研究者たちも実態をリポートしなかった。
筆者のような門外漢にまで広く知られるようになるのは、内モンゴル自治区オルドス生まれの静岡大学教授、楊海英(よう・かいえい、モンゴル名はオーノス・チョクト)氏が、2009年に岩波書店から『墓標なき草原(上)(下)――内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』を出してからだ。翌2010年に同書が司馬遼太郎賞を受賞して話題になり、追って刊行された『続・墓標なき草原』(岩波書店、2011年)や『チベットに舞う日本刀――モンゴル騎兵の現代史』(文芸春秋、2014年)でも、モンゴル民族受難の歴史が明らかにされた。
ご存知のように文化大革命は1966年5月16日付の「中国共産党中央委員会通知」いわゆる「五・一六通知」が、中国共産党中央政治局拡大会議で採択されたことにより始まる。この時、同じ北京市内で中国共産党華北局会議も開催され、内モンゴル自治区成立以来、自治区の党と人民政府、軍のトップにあったモンゴル人指導者ウラーンフー(雲澤)が、劉少奇と鄧小平らに吊るし上げられて失脚した。楊氏によれば、この時に15ページの公文書で明らかにされたウラーンフーの罪状は①1955年の四川省チベット民族の反乱鎮圧に際して「少数民族と戦うのは下策だ」と主張した②内モンゴルの牧畜地域で搾取階級の家畜を再分配しなかった③モンゴル人民共和国の修正主義者たちと呼応するため、モンゴル人指導者が交通事故で入院すると単独で見舞いに行き、へつらった――などだったという。
ちなみに①のチベット反乱鎮圧では、中国伝統の「夷を以って夷を征す」方針が実行され、もっぱら内モンゴル兵に出兵命令が下された。ところが兵を送り出す立場のウラーンフーは、むしろ同じ少数民族のチベット族に同情を寄せていた。②についてもモンゴル人の生業である牧畜では一定頭数以上の家畜が欠かせず、所有は「搾取階級」の裏付けとはならない。農耕民族の漢人たちは、その点を理解しようとしなかった。
ウラーンフー失脚に端を発したジェノサイド(大量虐殺)は、内モンゴル自治区のモンゴル人幹部から一般モンゴル人に及び、犠牲者は10万人とも30万人とも言われる。モンゴル人たちの間の民族主義的傾向が標的だったが、民族主義とは何の関係もない7歳の男子までもが殺された。次々に拷問を受け、男は焼けた鉄棒を肛門に入れられ、頭に釘を打ち込まれた。女も輪姦されたうえで陰部に赤く焼けた鉄棒を指し込まれた。ナチスドイツを含め、かくも残虐な大量虐殺の例は歴史上にない。次回【続・内モンゴル】では、虐殺の詳細と背景について触れたい。
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