紀古佐美の深謀
<延暦年間3度の戦い(『続日本紀』などから>(再掲)
①延暦8年の戦闘(官側動員5万2千8百、官側トップは征東大使・紀古佐美)▽官側損害=戦死25人、溺死1036人、負傷245人、泳ぎ裸身で帰る者1257人▽蝦夷側損害=戦死89人、焼失14村800棟
②延暦13年の戦闘(同10万、同征東大使・大伴弟麻呂)▽官側損害=逃亡340人▽蝦夷側損害=戦死457人、捕虜150人、馬損失85頭、焼失75か所
③延暦20年の戦闘(同4万人、同征夷大将軍・坂上田村麻呂)▽官側損害=なし▽蝦夷側損害=降伏5百人
さて、後回しにした逃亡兵の件である。紀古佐美(きのこさみ)が敗戦を奏上(六月三日条)した6日後の6月9日、桓武(かんむ)天皇に征討軍の解散も奏上した。多勢の征討軍を維持し続けるには食糧が不足する。「上奏に対して裁定の返答を待つとなると、その間も食糧が減り続けるので、無駄な費用が増えます。それゆえ今月の10日以前に征討軍を解散して兵士を賊地(胆沢のこと)の外へ出すようにとの書状を、諸軍に送り知らせます」という内容だった。「今月10日以前に、書状を諸軍に送る」ことを9日に奏上しているのだから、事後承諾もいいところ。たとえ桓武天皇が「解散させるな」と命じたとしても、都から陸奥国までは1日やそこらで書状の届く距離ではない。
桓武天皇の怒り
案の定、桓武天皇は怒りに怒り、勅を発した。
「許可が下りて、その後に解散させても決して遅くはない。今、朕に、はっきり分かった。将軍らはうわべだけを飾った言葉で、罪や過失を巧みに逃れようとしているのだ」
戦いの勝敗に劣らぬくらい、大軍維持のための食糧調達は重大事だった。当時は軍事費の大半を食糧費が占めた。以前から桓武が「遅々とした進攻が食糧費増大を招いている」と怒っていることなど古佐美はもちろん承知だ。そこで古佐美は食糧不足を「征討軍の解散」の言い訳にしたのだった。しかし軍の解散は、征討という国家事業そのものの中断を意味する。出先の将軍が事後承諾で軽々に決められる事項ではなかった。紀古佐美にしても、それが分からぬほど蒙昧(もうまい)ではない。ではなぜ、このような独断専行に及んだのか。
虚偽報告の裏側
真相は古佐美の胸のうちに秘されたままだから以下の文は筆者の推測だ。一つ言えるのは、先手を打って軍を解散させてしまえば、戦場からの逃亡兵数は不明のままになる、という事実だ。5万を超える官軍は東国を中心に集めた兵ばかりだったから、混乱に乗じて逃亡し、故郷を目指したとしても不思議はない。むしろ、これほどの敗戦にもかかわらず、また1の位まで細かく集計したにもかかわらず、1人の逃亡兵も出ていないことの方が不自然である。
逃亡兵数をウヤムヤにすれば、戦死者や溺死者数もウヤムヤになる。敗戦の輪郭は不明のままになるから、将軍や副将軍へのペナルティーを下しにくい。先手を打っての軍解散は、考え抜かれた最後の一手ではなかったか。
延暦13年の戦いでも数字の不思議
延暦13年の戦いに移ろう。こちらの数字にも首をかしげざるをえない。蝦夷側を457人も殺害し、150人を捕虜にしたのなら、官軍側の勝利である点は間違いない。この時の官軍側の勝利が7年後の延暦20年に、阿弖流為(あてるい)が5百人を率いて降伏する遠因になったとも考えられ、全体の流れからすれば延暦13年の戦い以後、蝦夷側は劣勢に回ったのだろう。しかし敵を5百人近く殺害しながら、自軍戦死者がゼロというのは、どういうことなのか。たぶん戦死者を340人の逃亡者の中に含めてしまった結果だろう。
ちなみに正史『日本後記』は全40巻のうち30巻分が中世末までに散逸してしまい、後世では散逸部分を『日本紀略』や塙保己一(はなわほきいち)の『類聚国史(るいじゅうこくし)』で補わざるを得なくなった。このため記載が簡略になったと推測される。その点も考慮されるべきだろう。なお、蝦夷側の戦死者以外は5人、10人単位で、勝利を収めたにしては①とは対照的に大雑把な数字である。逆に惨敗の①が5人、10人単位で、勝利の②が1の位までの丁寧な記述だったら、少しは本当らしくなる。
「ネズミのごとき振る舞い」は瑣事? 背景と“事情”
ちなみに延暦13年は西暦794年。ナクヨうぐいす平安京の、あの794年だ。桓武天皇にとって平安遷都と蝦夷征伐は2大事業であったから、2つとも達成した、あるいは達成のメドがついた、という形にしておきたかった。おめでたい席には、おめでたい報告が欠かせない。仮に延暦13年の戦いが官軍側におもわしくない結果であっても、正直な数字が天皇へ報告され、また散逸前の『日本後記』に報告通りの数字が記載されたかは疑問である。
延暦8年の完敗の後、桓武(かんむ)天皇が激怒したことはすでに述べた。「事の経過を追ってみれば、奏上はほとんど虚飾である」「このような根拠のない戯言(ざれごと)は、まことに事実からかけ離れていると言うべきである」(いずれも七月十七日条)と叱責し、トップの古佐美のほか副将の池田真枚(まひら)と安倍墨縄(すみただ)らに「敗戦の責任」を取らせて処罰すると宣言した。墨縄には斬刑をにおわせるが、のちに官位及び位階の剥奪にとどめ、真枚も官職のみの解任とした。トップ紀古佐美への処罰はさらに甘く、「過去の実績を考慮して」という理由で一切罪に問われなかった。過去の実績が考慮されるなら、それなりの功績ゆえに出世した高官たちは皆、たいていの失敗は許される理屈になる。とんでもないオオアマな処分だ。実のところ「ネズミのごとき振る舞い」など、権力者にとれば最初から取るに足りない瑣事だったのかもしれない。
<延暦年間3度の戦い(『続日本紀』などから>(再掲)
①延暦8年の戦闘(官側動員5万2千8百、官側トップは征東大使・紀古佐美)▽官側損害=戦死25人、溺死1036人、負傷245人、泳ぎ裸身で帰る者1257人▽蝦夷側損害=戦死89人、焼失14村800棟
②延暦13年の戦闘(同10万、同征東大使・大伴弟麻呂)▽官側損害=逃亡340人▽蝦夷側損害=戦死457人、捕虜150人、馬損失85頭、焼失75か所
③延暦20年の戦闘(同4万人、同征夷大将軍・坂上田村麻呂)▽官側損害=なし▽蝦夷側損害=降伏5百人
さて、後回しにした逃亡兵の件である。紀古佐美(きのこさみ)が敗戦を奏上(六月三日条)した6日後の6月9日、桓武(かんむ)天皇に征討軍の解散も奏上した。多勢の征討軍を維持し続けるには食糧が不足する。「上奏に対して裁定の返答を待つとなると、その間も食糧が減り続けるので、無駄な費用が増えます。それゆえ今月の10日以前に征討軍を解散して兵士を賊地(胆沢のこと)の外へ出すようにとの書状を、諸軍に送り知らせます」という内容だった。「今月10日以前に、書状を諸軍に送る」ことを9日に奏上しているのだから、事後承諾もいいところ。たとえ桓武天皇が「解散させるな」と命じたとしても、都から陸奥国までは1日やそこらで書状の届く距離ではない。
桓武天皇の怒り
案の定、桓武天皇は怒りに怒り、勅を発した。
「許可が下りて、その後に解散させても決して遅くはない。今、朕に、はっきり分かった。将軍らはうわべだけを飾った言葉で、罪や過失を巧みに逃れようとしているのだ」
戦いの勝敗に劣らぬくらい、大軍維持のための食糧調達は重大事だった。当時は軍事費の大半を食糧費が占めた。以前から桓武が「遅々とした進攻が食糧費増大を招いている」と怒っていることなど古佐美はもちろん承知だ。そこで古佐美は食糧不足を「征討軍の解散」の言い訳にしたのだった。しかし軍の解散は、征討という国家事業そのものの中断を意味する。出先の将軍が事後承諾で軽々に決められる事項ではなかった。紀古佐美にしても、それが分からぬほど蒙昧(もうまい)ではない。ではなぜ、このような独断専行に及んだのか。
虚偽報告の裏側
真相は古佐美の胸のうちに秘されたままだから以下の文は筆者の推測だ。一つ言えるのは、先手を打って軍を解散させてしまえば、戦場からの逃亡兵数は不明のままになる、という事実だ。5万を超える官軍は東国を中心に集めた兵ばかりだったから、混乱に乗じて逃亡し、故郷を目指したとしても不思議はない。むしろ、これほどの敗戦にもかかわらず、また1の位まで細かく集計したにもかかわらず、1人の逃亡兵も出ていないことの方が不自然である。
逃亡兵数をウヤムヤにすれば、戦死者や溺死者数もウヤムヤになる。敗戦の輪郭は不明のままになるから、将軍や副将軍へのペナルティーを下しにくい。先手を打っての軍解散は、考え抜かれた最後の一手ではなかったか。
延暦13年の戦いでも数字の不思議
延暦13年の戦いに移ろう。こちらの数字にも首をかしげざるをえない。蝦夷側を457人も殺害し、150人を捕虜にしたのなら、官軍側の勝利である点は間違いない。この時の官軍側の勝利が7年後の延暦20年に、阿弖流為(あてるい)が5百人を率いて降伏する遠因になったとも考えられ、全体の流れからすれば延暦13年の戦い以後、蝦夷側は劣勢に回ったのだろう。しかし敵を5百人近く殺害しながら、自軍戦死者がゼロというのは、どういうことなのか。たぶん戦死者を340人の逃亡者の中に含めてしまった結果だろう。
ちなみに正史『日本後記』は全40巻のうち30巻分が中世末までに散逸してしまい、後世では散逸部分を『日本紀略』や塙保己一(はなわほきいち)の『類聚国史(るいじゅうこくし)』で補わざるを得なくなった。このため記載が簡略になったと推測される。その点も考慮されるべきだろう。なお、蝦夷側の戦死者以外は5人、10人単位で、勝利を収めたにしては①とは対照的に大雑把な数字である。逆に惨敗の①が5人、10人単位で、勝利の②が1の位までの丁寧な記述だったら、少しは本当らしくなる。
「ネズミのごとき振る舞い」は瑣事? 背景と“事情”
ちなみに延暦13年は西暦794年。ナクヨうぐいす平安京の、あの794年だ。桓武天皇にとって平安遷都と蝦夷征伐は2大事業であったから、2つとも達成した、あるいは達成のメドがついた、という形にしておきたかった。おめでたい席には、おめでたい報告が欠かせない。仮に延暦13年の戦いが官軍側におもわしくない結果であっても、正直な数字が天皇へ報告され、また散逸前の『日本後記』に報告通りの数字が記載されたかは疑問である。
延暦8年の完敗の後、桓武(かんむ)天皇が激怒したことはすでに述べた。「事の経過を追ってみれば、奏上はほとんど虚飾である」「このような根拠のない戯言(ざれごと)は、まことに事実からかけ離れていると言うべきである」(いずれも七月十七日条)と叱責し、トップの古佐美のほか副将の池田真枚(まひら)と安倍墨縄(すみただ)らに「敗戦の責任」を取らせて処罰すると宣言した。墨縄には斬刑をにおわせるが、のちに官位及び位階の剥奪にとどめ、真枚も官職のみの解任とした。トップ紀古佐美への処罰はさらに甘く、「過去の実績を考慮して」という理由で一切罪に問われなかった。過去の実績が考慮されるなら、それなりの功績ゆえに出世した高官たちは皆、たいていの失敗は許される理屈になる。とんでもないオオアマな処分だ。実のところ「ネズミのごとき振る舞い」など、権力者にとれば最初から取るに足りない瑣事だったのかもしれない。
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