斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

82 【古代朝廷のフェイク作戦・中】

2021年04月17日 | 言葉
 
 あえて侮蔑的な表現
 時に集団同士の争いごとが起こるのは農耕民の社会も同じはずである。「不利と見れば退却」するのも農耕民と遊牧民に違いはあるまい。逃走も戦術のうちであって、卑怯云々といった次元の問題ではない。農耕社会では上下を問わず「個人的利益」に無関心かと問えば、「然り」と答える農耕民は皆無だろう。「礼儀とか道義とかを知らない」も同様で、古今東西どの社会にも程度の差こそあれ礼儀や道義をわきまえた人もいれば、わきまえない人もいる。

 草原の民は穀物を作らず、衣や食は動物に依存する。低温寒冷の地で身体を酷使する毎日では、肉や乳製品が効率的な活力源となり、皮革や毛織は防寒性にすぐれた服になる。広大な草原で激しく馬を駆る日常だから、目一杯に体を酷使して働く若者が食の面でも優先され、あまり働けない老人は二の次になっても仕方がない。遊牧民たちの厳しい自然環境を考えることなく、年長者を敬う儒教道徳を持ち出しても始まらない。
 
 要は遊牧民と農耕民とでは生活の条件や基盤が異なるのだ。『史記』は農耕民である漢民族の視点に立つ書だから、紹介したような表現になるのも当然だろう。留意すべきは『史記』と『日本書紀』との描写の違い、トーンの違いである。お気づきの方もおられようが、異なる民に対する侮蔑的な色合いは『日本書紀』の方が甚だしい。『史記』は北方遊牧民の風変わりな生活ぶりを、漢民族の一方的な視点で伝えてはいるが、意図的な侮蔑の念までは読み取れない。ところが『日本書紀』の蝦夷は最初から「撃(う)ちて取るべき」対象であったため、征討を正当化すべく、意図的に獣じみた存在として描いている。
 
 フェイク情報の意図するもの
 このように『日本書紀』に描かれた蝦夷像は「想像の産物」であり、『史記』の表現を真似ないし参考にした形跡が見て取れる。この時代にあって事実を捏造する(フェイクする)目的は、現代のように広く国民に流すことで世論を誘導し、選挙の一票に結び付けようとするためでは、もちろんない。大和朝廷の正当性とそれゆえの正統性とを、後世に長く主張するためのものだ。

 「毛人」から「蝦夷」へ
 「夷」は中華思想の「東夷」からとった。「蝦」については説が分かれる。「蝦」にはエビおよびガマガエル(ヒキガエル)の意味がある。蝦蟇(がま)の「蝦」。エビ(海老)説の方が有力で、エビには長いヒゲがあることから、多毛が特徴の蝦夷になぞらえた、と。江戸期の国学者・本居宣長も著書の『古事記伝』の中で、この説を支持している。
 どちらが本当だろうか。ガマガエルの連想は「蝦蟇」の字面(じづら)だけが根拠のようで、説得力は感じられない。体の特徴から言えば、多毛を根拠としたエビ説の方が納得しやすい。蝦夷と書く以前は「毛人」と書いて「エミシ」と読んでいた。高橋富雄氏は、『日本書紀』で「毛人」を使ったのは一例だけで、次の正史である『続日本紀』では「蝦夷」の表記のみとなり、「毛人」の使用はない、と指摘している(中公新書『蝦夷』)。工藤雅樹氏も、漢字表記が「毛人」から「蝦夷」に変わるのは7世紀後半からだと書いている(『古代蝦夷』、吉川弘文館刊)。なぜ「毛人」から「蝦夷」の表記へ変わったのか。戦闘を通じて接触の機会が増え、倭人側がエミシの真の姿を認識するようになった、とは言えまいか。

 「毛人」の表記も模倣?
 さらに「毛人」の起源については興味深い事実がある。中国の戦国時代から漢代にかけて成立した地理書の『山海経(せんがいきょう)』の中で、東の辺境に住む異民族に「毛民(毛人)」の字が使われていることだ。日本で当初「毛人」と表記された理由は、ここが起源とも考えられる。そして、この書が起源だとすれば別の疑問も生じる。大陸東方の辺境に多毛の異民族がいたとして、倭国の東北にも同じように多毛の「蝦夷」がいたというのは、話として出来過ぎではないか。偶然の一致か、それとも無理を承知の創作だったのか。
 ここに蝦夷は必ずしも多毛ではなかったと推測する余地が、あるように思われる。もともと体質的に多毛だったのではなく、顔などのヒゲを剃らずに伸ばしておく習慣によって多毛に見えた、ということだ。現代人でもヒゲを伸ばし放題にしている人は多毛に見える。まして北国の蝦夷と都の倭人とでは、接触機会が少ないぶん正確な認識は得にくい。この推測が成り立つなら、日中両国の古文献がともに東方の民を「毛人」と記した偶然(?)も『続日本紀』から「毛人」の表記が消えた理由も、どちらも納得がいく。

 蝦夷=エミシは当て字
 本題に戻ろう。蝦夷の「蝦」も「夷」も、どちらも本来「エミシ」とは読まない。広い意味の当て字、いわゆる熟字訓(じゅくじくん)である。海老をエビ、小豆をアズキ、桜桃をサクランボ、また銀杏をイチョウと読ませる類(たぐい)だ。『礼記』王制篇には「夷とは根本の意味である」と書かれいる。そのような良い意味がある一方で『後漢書』には「夷を以て夷を制す」(異民族を利用して異民族をおさえる=『大辞林』三省堂)の言葉もある。日本同様に「夷」が野蛮人や辺境の民の意味で使われる場合が多かった。
 日本では「東夷」を「あずまえびす」と読み、京の都を遠く離れた東国の田舎者や荒くれ者、東国武士などを指した。「夷」も「狄」も「えびす」と読むが、七福神の恵比寿様とは関係がない。「夷」は「妖夷(ようい)」の「夷」で、妖夷すなわち狢(むじな)の意。匈奴や蒙古を指した「北狄(ほくてき)」の「狄」には犬の意味もある。どちらもケモノヘンが付き、人間ではない。実態を見ることなく、字義だけから判断して倭国側が「東夷」を獣のごとく描写したのには、このような理由や背景があった。(続く)

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