温暖な気候の縄文期
縄文時代の豊穣さが温暖な気候に支えられていたことは、たびたび指摘されてきた。二酸化炭素の急激な排出量増加により、地球温暖化の弊害が指摘される近年。こうした人為的な気候変動要因とは別に、地球それ自体が過去約百万年にわたり、約十万年を一周期として寒冷期(氷期)と温暖期(間氷期)を繰り返してきた(日本第四紀学会編『百年・千年・万年後の日本の自然と人類』より。古今書院刊)。現在の温暖期は約1万年前から続き、縄文前・中期の6千5百年前から5千5百年前にかけて、温暖化のピークに達したと考えられている。その後は一定の周期で、小規模な寒冷と温暖の状態を繰り返した。
縄文時代は1万年以上前から約3千年前まで続いた。つまり縄文人は温暖期の始まる以前から日本列島に定着し、温暖期の進行とともに生きていたことになる。前後の小規模な寒暖の変化を見ると、縄文後期中ごろの約4千5百年前と弥生前期の2千5百年前に、それぞれ寒冷化したことが定説になっている。西暦紀元前後以降は諸説があって不明な点が多いが、低温と温暖を繰り返した後、6世紀ごろから温暖基調になったようだ。特に東北と近畿圏とでは時代区分だけでなく、気候上も異なるものがあったと想像される。
海水面の上昇と下降に関しては、深海底堆積物の分析により地球規模の気候変動を知る研究が近年急速に進み、各年代の様子が分かるようになっている。寒冷化の進んだ約1万年前、海水面は現在より、ほぼ40メートル低かった。ところが温暖化した約6千年前には、現在の海水面より2、3メートル高くなったようだ。6千年前は縄文時代の早期にあたる。発掘された当時の貝塚が現在の海岸線より10キロ以上内陸に入った場所にあることも珍しくなく、温暖化の進行ぶりが分かる。当然ながら地球規模の温暖化は日本列島の植生に変化をもたらした。
古代東北の気候変動
旧石器時代 紀元前10万年~1万年
縄文時代 草創期 前1万2000~1万年 寒冷から温暖へ向かう
早期 前1万~4000年
前期 前4000~3000年 前4500~3500年頃に温暖化
中期 前3000~2000年 温暖化が続く
後期 前2000~1000年 前2500年頃に寒冷期
晩期 前1000~400年 前500年頃から弥生前期まで寒冷期
弥生時代 前期 前400~200年
中期 前200~100年
後期 前100~紀元後200年 紀元前後に温暖化
古墳時代 後200年~ 3、4世紀にかけ寒冷化の後、6、7世紀以降は温暖期
寒暖により森の木の実は豊かに実り、また不作となる。現代人も良く知る事実だ。食糧を山の幸に依存するイノシシやシカも、木の実の出来不出来により、個体数を増やす年もあれば減らす年もあった。この点、古代の東北は総じて温暖で、森の幸も豊かだった。狩猟採集は縄文人たちの日々の生業(なりわい)であるから、数世紀間に及ぶ温暖な気候は何よりの恵みになる。この時期、現代人には想像もつかない変化が実際に起きていた。
豊穣の東北
古代日本列島のイメージは、西日本が比較的豊かで東北は貧しい、というものだ。弥生時代から継続してきたとされる稲作社会が、そのように考える背景にある。品種改良によりコメに耐寒品種が誕生した現代では、北海道や東北でも美味いコメが多く収穫されるようになったが、かつての東北は幾度となく冷害の憂き目に遭ってきた。「東北は貧しい」は、コメが東北では十分に収穫出来なかった時代のイメージなのである。では縄文時代までさかのぼると、南北の貧富はどのような形で現われていたのか。
意外なことに小山修三氏によれば、縄文時代の日本列島では東北や関東地方に人口が集中し、西日本の人口はまばらだったという(『縄文時代』、中公新書)。小山氏は全国を東北、関東、北陸、中部、東海、近畿、中国、四国、九州の九ブロック(北海道は除く)に分け、時代を縄文早期、前期、中期、後期、晩期、弥生、土師の各期に区切って分析を試みた。ブロック内で発掘された遺跡数を集計し、遺跡1か所につき一定の人数を割り当てて算出する方法をとった。時代特定については土器などの出土品から割り出した。
ただし、遺跡の多寡が基準となる小山氏の算出法には当初から批判があった。たとえば同じ遺跡に3代にわたって百年間定住したケースもあれば、3代が30年間ずつ3か所に住んだ場合もあるはずだ。両方のケースを比較すると、実際の人口は同数なのに、結果に3倍の違いが出る。ある時代には多人数で暮らした住居跡が多く、反対に少人数用の住居跡ばかり見つかる期間もあるから、1つの住居につき一律に何人とは言いにくい。これを小山氏も「当然の批判」と認めている。
それらを頭に入れたうえで小山氏の試算に従えば、縄文中期の全国人口は推定約26万人。そのうち25万人が東北を含む東日本に住み、西日本の人口は全体でも1万人に満たなかった。1平方キロメートルあたりの人口密度を見ると、関東は3人で最も高く、次いで中部の2・1人、東北・北陸・東海が1人弱。これに対して近畿は、東北などの10分の1の0・1人、四国や九州に至っては100分の1の0・01人という低さだ。全体の96パーセントが東日本に集中していた。驚くべき数字である。弥生時代になってコメ作りが盛んになると、西日本の人口は急増するが、縄文期の東北の賑わいは何が理由だったのか。食糧が豊富であったという理由以外には考えられない。(続く)
縄文時代の豊穣さが温暖な気候に支えられていたことは、たびたび指摘されてきた。二酸化炭素の急激な排出量増加により、地球温暖化の弊害が指摘される近年。こうした人為的な気候変動要因とは別に、地球それ自体が過去約百万年にわたり、約十万年を一周期として寒冷期(氷期)と温暖期(間氷期)を繰り返してきた(日本第四紀学会編『百年・千年・万年後の日本の自然と人類』より。古今書院刊)。現在の温暖期は約1万年前から続き、縄文前・中期の6千5百年前から5千5百年前にかけて、温暖化のピークに達したと考えられている。その後は一定の周期で、小規模な寒冷と温暖の状態を繰り返した。
縄文時代は1万年以上前から約3千年前まで続いた。つまり縄文人は温暖期の始まる以前から日本列島に定着し、温暖期の進行とともに生きていたことになる。前後の小規模な寒暖の変化を見ると、縄文後期中ごろの約4千5百年前と弥生前期の2千5百年前に、それぞれ寒冷化したことが定説になっている。西暦紀元前後以降は諸説があって不明な点が多いが、低温と温暖を繰り返した後、6世紀ごろから温暖基調になったようだ。特に東北と近畿圏とでは時代区分だけでなく、気候上も異なるものがあったと想像される。
海水面の上昇と下降に関しては、深海底堆積物の分析により地球規模の気候変動を知る研究が近年急速に進み、各年代の様子が分かるようになっている。寒冷化の進んだ約1万年前、海水面は現在より、ほぼ40メートル低かった。ところが温暖化した約6千年前には、現在の海水面より2、3メートル高くなったようだ。6千年前は縄文時代の早期にあたる。発掘された当時の貝塚が現在の海岸線より10キロ以上内陸に入った場所にあることも珍しくなく、温暖化の進行ぶりが分かる。当然ながら地球規模の温暖化は日本列島の植生に変化をもたらした。
古代東北の気候変動
旧石器時代 紀元前10万年~1万年
縄文時代 草創期 前1万2000~1万年 寒冷から温暖へ向かう
早期 前1万~4000年
前期 前4000~3000年 前4500~3500年頃に温暖化
中期 前3000~2000年 温暖化が続く
後期 前2000~1000年 前2500年頃に寒冷期
晩期 前1000~400年 前500年頃から弥生前期まで寒冷期
弥生時代 前期 前400~200年
中期 前200~100年
後期 前100~紀元後200年 紀元前後に温暖化
古墳時代 後200年~ 3、4世紀にかけ寒冷化の後、6、7世紀以降は温暖期
寒暖により森の木の実は豊かに実り、また不作となる。現代人も良く知る事実だ。食糧を山の幸に依存するイノシシやシカも、木の実の出来不出来により、個体数を増やす年もあれば減らす年もあった。この点、古代の東北は総じて温暖で、森の幸も豊かだった。狩猟採集は縄文人たちの日々の生業(なりわい)であるから、数世紀間に及ぶ温暖な気候は何よりの恵みになる。この時期、現代人には想像もつかない変化が実際に起きていた。
豊穣の東北
古代日本列島のイメージは、西日本が比較的豊かで東北は貧しい、というものだ。弥生時代から継続してきたとされる稲作社会が、そのように考える背景にある。品種改良によりコメに耐寒品種が誕生した現代では、北海道や東北でも美味いコメが多く収穫されるようになったが、かつての東北は幾度となく冷害の憂き目に遭ってきた。「東北は貧しい」は、コメが東北では十分に収穫出来なかった時代のイメージなのである。では縄文時代までさかのぼると、南北の貧富はどのような形で現われていたのか。
意外なことに小山修三氏によれば、縄文時代の日本列島では東北や関東地方に人口が集中し、西日本の人口はまばらだったという(『縄文時代』、中公新書)。小山氏は全国を東北、関東、北陸、中部、東海、近畿、中国、四国、九州の九ブロック(北海道は除く)に分け、時代を縄文早期、前期、中期、後期、晩期、弥生、土師の各期に区切って分析を試みた。ブロック内で発掘された遺跡数を集計し、遺跡1か所につき一定の人数を割り当てて算出する方法をとった。時代特定については土器などの出土品から割り出した。
ただし、遺跡の多寡が基準となる小山氏の算出法には当初から批判があった。たとえば同じ遺跡に3代にわたって百年間定住したケースもあれば、3代が30年間ずつ3か所に住んだ場合もあるはずだ。両方のケースを比較すると、実際の人口は同数なのに、結果に3倍の違いが出る。ある時代には多人数で暮らした住居跡が多く、反対に少人数用の住居跡ばかり見つかる期間もあるから、1つの住居につき一律に何人とは言いにくい。これを小山氏も「当然の批判」と認めている。
それらを頭に入れたうえで小山氏の試算に従えば、縄文中期の全国人口は推定約26万人。そのうち25万人が東北を含む東日本に住み、西日本の人口は全体でも1万人に満たなかった。1平方キロメートルあたりの人口密度を見ると、関東は3人で最も高く、次いで中部の2・1人、東北・北陸・東海が1人弱。これに対して近畿は、東北などの10分の1の0・1人、四国や九州に至っては100分の1の0・01人という低さだ。全体の96パーセントが東日本に集中していた。驚くべき数字である。弥生時代になってコメ作りが盛んになると、西日本の人口は急増するが、縄文期の東北の賑わいは何が理由だったのか。食糧が豊富であったという理由以外には考えられない。(続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます