あの夕日
生まれた家は東京隣接県の農村部に建つ社宅。戦前に急造された2Kの平屋建てで、家の西側は砂利道、その向こう一面には畑が広がっていた。公園にブランコなどの遊具類も無かった時代、砂利道と畑の境界を細長く仕切る生垣が、頃合いの”木登りゲレンデ”になった。昭和20年代の末、筆者が小学校へ入学する前後の話である。
生垣には樹高3メートルほどの落葉樹やサワラの木もあり、子供の木登りには申し分なし。枝に腰掛けながら畑越しに眺めた、冬枯れた雑木林へ沈む夕日が、60年以上経った今でも忘れられない。「あの夕日」。脳裏に刻んだ風景や心象を自分の心のうちだけに呼び覚ますには、言葉を飾らない「あの夕日」がふさわしい。美しい形容詞は何かを少し変えてしまう。そんな幼児体験のためもあってか武蔵野というコトバに人一倍の愛着を覚える。
武蔵野
国木田独歩は『武蔵野』で、武蔵野の雑木林を雄弁に称(たた)えた。冒頭で独歩は文政年間の地図に添えられていたという「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡(いるまごほり)に残れり」という一文を紹介している。「入間郡」は埼玉県南部に位置し、地名としては所沢市の小手指(こてさし)原近辺を挙げた。小手指原は「トトロの森」にも近く、雑木林の多い一帯。ただし独歩自身は入間郡を訪れたことがなく、小説中の描写は当時住んでいた渋谷区松濤町の辺りだと断り書きをしている。
では「武蔵野」は、どの地域を指すのか。新潮文庫『武蔵野』巻末の注釈に、武蔵野の範囲について「広義には武蔵国全体をさすが、狭義には埼玉県川越市以南、東京都府中市までの平野をさす」とあり、『広辞苑』も『大辞泉』もこの注釈と同じく、川越と府中の両地名を入れて「狭義の武蔵野」を説明している。「狭義」の方は多摩川と一部荒川に囲まれた洪積層の武蔵野台地に重なる。
荒川はさらに川越から北へ延びるが、以北では入間川や市ノ川といった荒川支流の水利のおかげで水田が目立つようになり、景観は一変する。台地特有の水利の悪さ、それゆえの畑作農業、雑木林の多さが「狭義の武蔵野」の特徴であると言えそうだ。
雑木林の用途
昔、新聞記者をしていた頃、東京都西部で発行していた地域版「多摩版」に、武蔵野の雑木林について「自然林」と書いたことがあった。数日すると読者から「武蔵野の雑木林は人工林です。自然のままの林ではありません」とのハガキが届いた。杉やヒノキなど建材用の苗木、柿やクリといった果樹収穫用、さらに各種の庭木苗など、多摩地域には苗木畑が多い。多摩地域の山間部は江戸の昔から杉材など建築用材の一大産地だった。それらとは異なり、人の手が入らない自然のままの林だと言いたかったのだが、ハガキは「雑木林は人の手が育てた林です」との指摘だった。
ところで、なぜ武蔵野台地には雑木林が多いのか。いちばんの理由は、多摩川の河岸段丘上にあって昔から水利が悪く、水田開発が不可能だったため。農業といえば畑作ばかり、化学肥料のない時代だから、落ち葉が肥料になった。煮炊きや暖房にも枯れ枝が欠かせない。例えば江戸・元禄年間に川越藩が事業着手した三富開拓(所沢市、入間郡)や、慶長年間に江戸幕府のバックアップで進められた砂川開拓(東京都立川市)。興味深いのは短冊型の細長い区画割りである。三富開拓の場合、各戸5町歩ずつの割り当て地が、メーン道路に面した側から宅地、畑地、雑木林の順で3分割され、雑木林は必須だった。原野時代からの自然林に加え、人工の雑木林も大切にされたから、武蔵野には雑木林が増えた。ちなみに川越といえばサツマイモだが、三富開拓の歴史とは濃い因縁がある。
「はけ」の語源
大岡昇平の小説『武蔵野夫人』の主人公は「はけの家」に住む。河岸段丘の武蔵野台地が多摩川に接する、崖状の急斜面がハケ。立川市から国立市、国分寺市、府中市、小金井市と続く崖地は、地質学的には国分寺崖線(がいせん、通称ハケ)と呼ばれ、古代の多摩川が蛇行し、左岸が武蔵野台地を削っていた痕跡である。現在の多摩川左岸からは、ずいぶん離れた場所に位置するので、古代多摩川のダイナミックな蛇行ぶりに驚かされる。ちなみに筆者の現在の自宅にも近く、土地の人は「ハケは、ガケのこと」と説明する。
ハケの語源はいくつかあり、ガケ説もその1つだろう。今年1月28日付けの読売新聞多摩版は、ハケとは「吐け」、すなわち段丘の地層から水が浸み出す(吐き出す)窪地--との説を紹介していた。湧水(絞り水)による池ないし湿地である、と。そうであれば野川(世田谷区で多摩川に合流)の源流である恋ヶ窪(国分寺市)は典型的なハケということになるが、地元の人はこの池をハケとは呼ばない。
「捌(は)け」が有力
実はハケという言い方は国分寺崖線近辺に限らない。『広辞苑』は「(関東から東北地方にかけて)丘陵山地の片岸。ばっけ」と説明している。千葉県我孫子市の手賀沼にも「はけの道」があり、段丘と湧水など国分寺崖線によく似た景観だ。『広辞苑』は別項で「捌(は)け」の語についてを「水捌(は)けがよい」や「商品の捌(は)けがよい=よく捌(さば)ける」の用例も挙げている。国分寺崖線ではハケ下に「ハケ道」「ハケの小路」が延び、小道沿いに湧水を流す小川が掘られていることが多い。この光景から「水捌けがよい」と「ハケ」との関連説が浮かび上がる。「吐け」が点なら「捌け」は線というわけ。もっか、この説が最有力のようだ。
ハケの語源として3例を挙げてみた。ある人は「崖(がけ)が訛(なま)って」と、ある人は「吐け」や「捌け」と信じてこのコトバを使い、周囲や子孫へ伝えて来たのだろう。いくつもの語源説に支えられ、「ハケ」という1つのコトバが存在した。今後有力な材料が出ない限り、1説のみを語源だと主張することは無意味かもしれない。
生まれた家は東京隣接県の農村部に建つ社宅。戦前に急造された2Kの平屋建てで、家の西側は砂利道、その向こう一面には畑が広がっていた。公園にブランコなどの遊具類も無かった時代、砂利道と畑の境界を細長く仕切る生垣が、頃合いの”木登りゲレンデ”になった。昭和20年代の末、筆者が小学校へ入学する前後の話である。
生垣には樹高3メートルほどの落葉樹やサワラの木もあり、子供の木登りには申し分なし。枝に腰掛けながら畑越しに眺めた、冬枯れた雑木林へ沈む夕日が、60年以上経った今でも忘れられない。「あの夕日」。脳裏に刻んだ風景や心象を自分の心のうちだけに呼び覚ますには、言葉を飾らない「あの夕日」がふさわしい。美しい形容詞は何かを少し変えてしまう。そんな幼児体験のためもあってか武蔵野というコトバに人一倍の愛着を覚える。
武蔵野
国木田独歩は『武蔵野』で、武蔵野の雑木林を雄弁に称(たた)えた。冒頭で独歩は文政年間の地図に添えられていたという「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡(いるまごほり)に残れり」という一文を紹介している。「入間郡」は埼玉県南部に位置し、地名としては所沢市の小手指(こてさし)原近辺を挙げた。小手指原は「トトロの森」にも近く、雑木林の多い一帯。ただし独歩自身は入間郡を訪れたことがなく、小説中の描写は当時住んでいた渋谷区松濤町の辺りだと断り書きをしている。
では「武蔵野」は、どの地域を指すのか。新潮文庫『武蔵野』巻末の注釈に、武蔵野の範囲について「広義には武蔵国全体をさすが、狭義には埼玉県川越市以南、東京都府中市までの平野をさす」とあり、『広辞苑』も『大辞泉』もこの注釈と同じく、川越と府中の両地名を入れて「狭義の武蔵野」を説明している。「狭義」の方は多摩川と一部荒川に囲まれた洪積層の武蔵野台地に重なる。
荒川はさらに川越から北へ延びるが、以北では入間川や市ノ川といった荒川支流の水利のおかげで水田が目立つようになり、景観は一変する。台地特有の水利の悪さ、それゆえの畑作農業、雑木林の多さが「狭義の武蔵野」の特徴であると言えそうだ。
雑木林の用途
昔、新聞記者をしていた頃、東京都西部で発行していた地域版「多摩版」に、武蔵野の雑木林について「自然林」と書いたことがあった。数日すると読者から「武蔵野の雑木林は人工林です。自然のままの林ではありません」とのハガキが届いた。杉やヒノキなど建材用の苗木、柿やクリといった果樹収穫用、さらに各種の庭木苗など、多摩地域には苗木畑が多い。多摩地域の山間部は江戸の昔から杉材など建築用材の一大産地だった。それらとは異なり、人の手が入らない自然のままの林だと言いたかったのだが、ハガキは「雑木林は人の手が育てた林です」との指摘だった。
ところで、なぜ武蔵野台地には雑木林が多いのか。いちばんの理由は、多摩川の河岸段丘上にあって昔から水利が悪く、水田開発が不可能だったため。農業といえば畑作ばかり、化学肥料のない時代だから、落ち葉が肥料になった。煮炊きや暖房にも枯れ枝が欠かせない。例えば江戸・元禄年間に川越藩が事業着手した三富開拓(所沢市、入間郡)や、慶長年間に江戸幕府のバックアップで進められた砂川開拓(東京都立川市)。興味深いのは短冊型の細長い区画割りである。三富開拓の場合、各戸5町歩ずつの割り当て地が、メーン道路に面した側から宅地、畑地、雑木林の順で3分割され、雑木林は必須だった。原野時代からの自然林に加え、人工の雑木林も大切にされたから、武蔵野には雑木林が増えた。ちなみに川越といえばサツマイモだが、三富開拓の歴史とは濃い因縁がある。
「はけ」の語源
大岡昇平の小説『武蔵野夫人』の主人公は「はけの家」に住む。河岸段丘の武蔵野台地が多摩川に接する、崖状の急斜面がハケ。立川市から国立市、国分寺市、府中市、小金井市と続く崖地は、地質学的には国分寺崖線(がいせん、通称ハケ)と呼ばれ、古代の多摩川が蛇行し、左岸が武蔵野台地を削っていた痕跡である。現在の多摩川左岸からは、ずいぶん離れた場所に位置するので、古代多摩川のダイナミックな蛇行ぶりに驚かされる。ちなみに筆者の現在の自宅にも近く、土地の人は「ハケは、ガケのこと」と説明する。
ハケの語源はいくつかあり、ガケ説もその1つだろう。今年1月28日付けの読売新聞多摩版は、ハケとは「吐け」、すなわち段丘の地層から水が浸み出す(吐き出す)窪地--との説を紹介していた。湧水(絞り水)による池ないし湿地である、と。そうであれば野川(世田谷区で多摩川に合流)の源流である恋ヶ窪(国分寺市)は典型的なハケということになるが、地元の人はこの池をハケとは呼ばない。
「捌(は)け」が有力
実はハケという言い方は国分寺崖線近辺に限らない。『広辞苑』は「(関東から東北地方にかけて)丘陵山地の片岸。ばっけ」と説明している。千葉県我孫子市の手賀沼にも「はけの道」があり、段丘と湧水など国分寺崖線によく似た景観だ。『広辞苑』は別項で「捌(は)け」の語についてを「水捌(は)けがよい」や「商品の捌(は)けがよい=よく捌(さば)ける」の用例も挙げている。国分寺崖線ではハケ下に「ハケ道」「ハケの小路」が延び、小道沿いに湧水を流す小川が掘られていることが多い。この光景から「水捌けがよい」と「ハケ」との関連説が浮かび上がる。「吐け」が点なら「捌け」は線というわけ。もっか、この説が最有力のようだ。
ハケの語源として3例を挙げてみた。ある人は「崖(がけ)が訛(なま)って」と、ある人は「吐け」や「捌け」と信じてこのコトバを使い、周囲や子孫へ伝えて来たのだろう。いくつもの語源説に支えられ、「ハケ」という1つのコトバが存在した。今後有力な材料が出ない限り、1説のみを語源だと主張することは無意味かもしれない。
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