別の植物?
身近な人に「植物のヨシとアシはどう違うか?」と問うと、ほぼ半数が「同じ植物さ!」と答えた。「まともに答えるのもヨシアシだなア」という意味不明の答えもあった。2人に1人は別の植物だと思っていたらしい。『漢語林』(大修館書店)によれば「葦」も「芦」も「葭」も、読み方は「あし」と「よし」の2通り。他に「蘆」と書かれることもある。『広辞苑』は「あし」の説明に重点を置き、「よし」の方は「アシの音が<悪ぁし>に通ずるのを忌んで<良し>に因んでいう。あし(葦)に同じ」と簡単に済ませている(第七版)。
イネ科の植物には間違いやすいものが多い。荻(おぎ)とススキは同じススキ属だが、オギは河川敷などの低湿地を好み、ススキは水捌(は)けのよい山地や丘陵を好む。穂の密生度はオギが濃く、ススキはまばらなので、ひと目で区別できる。野口雨情作詞、中山晋平作曲の歌に<俺は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき……>という歌詞の『船頭小唄』(別名『枯れすすき』)があるが、正確に言えば「俺は河原の枯れオギ」だろう。あくまで「正確に言えば」の話で、「同じススキ属なのだから、そこまで厳密にならなくとも良いのでは?」という意見もありそうだ。
茅葺(かやぶき)の茅(かや=「萱」とも書く)もススキのことで、チガヤを含めて茅葺屋根に使う材料を総称する場合もある。ともかくも、そんなふうにイネ科の植物は外観が似ているうえに呼び名と漢字が複数ある例も多いので、よけいに紛らわしい。であればヨシとアシが別々の植物だと勘違いする人がいても不思議ではない。
「悪(あ)し」から「良し」へ
ご存知のように古代の日本は「豊葦原(とよあしはら)の国」(『日本書紀』)だった。低湿地の平野部が多く、アシ野原が一面に広がっていたのだろう。「とよあしはら」のごとく古くは「アシ」であって「ヨシ」ではない。では、いつ頃から「ヨシ」とも呼ばれるようになったのか。「平安時代から」や「江戸期から」などの説があり、一方で「西日本ではアシ、東日本ではヨシと呼ばれた」と地域の違いを指摘する説もある。どちらにしても「アシ」は「悪し」に通じるので縁起が悪く、「ヨシ」なら「良し」だから良い――との考え方が理由となった。
とはいえ植物の名が「アシ」から「ヨシ」に切り替わったということではなく、現代でも「アシ」と「ヨシ」の両方が使われている。言葉は時代とともに変わるものだが、縁起の「良し悪し」が植物の名前にまで影響を及ぼした例は、ほかにあまり聞かない。
今に残るアシ原、渡良瀬遊水地
開発が進んだ現代ではアシ原も少なくなった。昔、旅行記事の取材で琵琶湖水郷(滋賀県近江八幡市)を訪れたことがある。今に残る全国有数のアシ原だ。この地のアシで作った葦簀(よしず)や簾(すだれ)は、かつて近江商人の手により各地に広く流通した。今も西の湖北岸では、アシを加工した高級夏用建具が製造されていると聞いた。葦原を分けて遊覧する観光船に乗ったのは、ちょうど春先の<氷とけ去り アシは角(つの)ぐむ>(『早春賦』)季節。歌詞の通り<春は名のみの風の寒さ>で、湖上を渡る風が刺すように冷たかった。船頭さんの用意してくれた練炭火鉢にしがみつき、船を降りても歯がガチガチと音を立てた。それでも一面のアシ原には日本の原風景を見る楽しさがあった。
関東にも利根川沿いや霞ケ浦などアシ原で知られる地は多い。筆者がよく行くのは栃木、群馬、埼玉、茨城の4県に接する渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)。24、5年前に城山三郎の小説『辛酸』を読んで田中正造という人を知り、荒畑寒村の『谷中村滅亡史』や木下尚江の『木下尚江全集第10巻 田中正造翁』などの関連本を読みあさった。今では足遠くなったが、それでも春夏秋冬の年に4度くらいは行く。旧谷中村の家屋一斉撤去(強制廃村)は1906年6月29日のこと。この季節、梅雨の晴れ間に遊水地内の谷中村跡地を訪れると、アシの高く茂る一面の野で「行行子」の別名もある小鳥のヨシキリが「ギョギョシ、ギョギョシ」と騒がしく鳴いている。ヨシキリはアシの茎を割いて中の虫を食べる習性から「ヨシ切り」の名になったようだ。<能なしの眠むたし我をぎやうぎやうし(行々子)>(芭蕉『嵯峨日記』)の句ではないが、硬骨漢正造が生きた時代に思いを馳せながら木陰で休んでいると、芭蕉の安眠を妨げた「ギョギョシ」の声さえ、平和な世の子守唄のように聞こえる。
遊郭・吉原も元はアシ原
鉱毒被害の歴史的経緯もあり渡良瀬遊水地を管理する国交省・関東地方整備局は、アシの植物としての浄化機能を水質改善に生かす「ヨシ原浄化施設」として、アシ原全体を保護している。「アシ」と「ヨシ」の表記が混在して読みにくい点を、ご容赦願いたい。植物学上の正式名称が「ヨシ属」なので、官公庁は「ヨシ」の表記を選択しているのだろう。
葦簀(よしず)も「あし(悪し)ず」では製品の欠陥を認めるようで、商人は売りにくいはずだ。ヨシキリが「アシキリ」では「足切り」になってしまい、いくら鳴き声が騒々しくても可愛い小鳥には残酷かもしれない。
江戸の初期から続いた遊郭・吉原も最初は「葦屋町」(現在の日本橋人形町の一角)にあった。その頃は海岸にも近く、一帯がアシ原の低湿地帯。「葦屋」や「芦屋」はアシで葺(ふ)いた家屋の意で、兵庫県・芦屋市などと同じく「アシ」にちなんだ地名由来である。明暦大火を挟んだ明暦年間、葦屋町の遊郭群は浅草寺に近い元吉原と新吉原とに移る。「アシ」は縁起が悪いと「ヨシ」と読むことになり、やはり吉凶の縁起から「吉」の字が充てられた。遊郭には「悪所(あくしょ)」という婉曲(えんきょく)な呼び名もあり、余計に「悪(あ)し」の字は嫌われたのだろう。古来、日本人は地名などの固有名詞を大事にしてきたから、こうした機会でもなければ、また遊郭のような場所柄でもなければ、変えにくかったかもしれない。
「アシ」派も根強い
植物学上の分類が「イネ目イネ科ヨシ属ヨシ種」でも、日本語としての用法は別である。「吉原」と決めた江戸時代の遊郭関係者のアイデアを受け継がなければならない道理もない。そんな理屈が通じているのかどうか、依然として「アシ」派は根強い。冒頭で紹介した「豊葦原の国」を「とよ“よし”はらのくに」と読む人はいないし、パスカルの<人間は考える葦である>を「考える“よし”」と読む人もいない。城山三郎の小説『辛酸』の表記も「芦(あし)」で統一している。
興味深いのは俳句の季語。『日本大歳時記』(講談社刊)によると、「アシ」と読む季語は「蘆刈(あしかり)」や「葦雀(ヨシキリのこと)」などの24語。一方「ヨシ」と読むのは「葭切(よしきり)」や「葭簀(よしず)」などの16語である。文学や伝統文化の分野では「アシ」派が、わずかに優位のようだ。
身近な人に「植物のヨシとアシはどう違うか?」と問うと、ほぼ半数が「同じ植物さ!」と答えた。「まともに答えるのもヨシアシだなア」という意味不明の答えもあった。2人に1人は別の植物だと思っていたらしい。『漢語林』(大修館書店)によれば「葦」も「芦」も「葭」も、読み方は「あし」と「よし」の2通り。他に「蘆」と書かれることもある。『広辞苑』は「あし」の説明に重点を置き、「よし」の方は「アシの音が<悪ぁし>に通ずるのを忌んで<良し>に因んでいう。あし(葦)に同じ」と簡単に済ませている(第七版)。
イネ科の植物には間違いやすいものが多い。荻(おぎ)とススキは同じススキ属だが、オギは河川敷などの低湿地を好み、ススキは水捌(は)けのよい山地や丘陵を好む。穂の密生度はオギが濃く、ススキはまばらなので、ひと目で区別できる。野口雨情作詞、中山晋平作曲の歌に<俺は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき……>という歌詞の『船頭小唄』(別名『枯れすすき』)があるが、正確に言えば「俺は河原の枯れオギ」だろう。あくまで「正確に言えば」の話で、「同じススキ属なのだから、そこまで厳密にならなくとも良いのでは?」という意見もありそうだ。
茅葺(かやぶき)の茅(かや=「萱」とも書く)もススキのことで、チガヤを含めて茅葺屋根に使う材料を総称する場合もある。ともかくも、そんなふうにイネ科の植物は外観が似ているうえに呼び名と漢字が複数ある例も多いので、よけいに紛らわしい。であればヨシとアシが別々の植物だと勘違いする人がいても不思議ではない。
「悪(あ)し」から「良し」へ
ご存知のように古代の日本は「豊葦原(とよあしはら)の国」(『日本書紀』)だった。低湿地の平野部が多く、アシ野原が一面に広がっていたのだろう。「とよあしはら」のごとく古くは「アシ」であって「ヨシ」ではない。では、いつ頃から「ヨシ」とも呼ばれるようになったのか。「平安時代から」や「江戸期から」などの説があり、一方で「西日本ではアシ、東日本ではヨシと呼ばれた」と地域の違いを指摘する説もある。どちらにしても「アシ」は「悪し」に通じるので縁起が悪く、「ヨシ」なら「良し」だから良い――との考え方が理由となった。
とはいえ植物の名が「アシ」から「ヨシ」に切り替わったということではなく、現代でも「アシ」と「ヨシ」の両方が使われている。言葉は時代とともに変わるものだが、縁起の「良し悪し」が植物の名前にまで影響を及ぼした例は、ほかにあまり聞かない。
今に残るアシ原、渡良瀬遊水地
開発が進んだ現代ではアシ原も少なくなった。昔、旅行記事の取材で琵琶湖水郷(滋賀県近江八幡市)を訪れたことがある。今に残る全国有数のアシ原だ。この地のアシで作った葦簀(よしず)や簾(すだれ)は、かつて近江商人の手により各地に広く流通した。今も西の湖北岸では、アシを加工した高級夏用建具が製造されていると聞いた。葦原を分けて遊覧する観光船に乗ったのは、ちょうど春先の<氷とけ去り アシは角(つの)ぐむ>(『早春賦』)季節。歌詞の通り<春は名のみの風の寒さ>で、湖上を渡る風が刺すように冷たかった。船頭さんの用意してくれた練炭火鉢にしがみつき、船を降りても歯がガチガチと音を立てた。それでも一面のアシ原には日本の原風景を見る楽しさがあった。
関東にも利根川沿いや霞ケ浦などアシ原で知られる地は多い。筆者がよく行くのは栃木、群馬、埼玉、茨城の4県に接する渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)。24、5年前に城山三郎の小説『辛酸』を読んで田中正造という人を知り、荒畑寒村の『谷中村滅亡史』や木下尚江の『木下尚江全集第10巻 田中正造翁』などの関連本を読みあさった。今では足遠くなったが、それでも春夏秋冬の年に4度くらいは行く。旧谷中村の家屋一斉撤去(強制廃村)は1906年6月29日のこと。この季節、梅雨の晴れ間に遊水地内の谷中村跡地を訪れると、アシの高く茂る一面の野で「行行子」の別名もある小鳥のヨシキリが「ギョギョシ、ギョギョシ」と騒がしく鳴いている。ヨシキリはアシの茎を割いて中の虫を食べる習性から「ヨシ切り」の名になったようだ。<能なしの眠むたし我をぎやうぎやうし(行々子)>(芭蕉『嵯峨日記』)の句ではないが、硬骨漢正造が生きた時代に思いを馳せながら木陰で休んでいると、芭蕉の安眠を妨げた「ギョギョシ」の声さえ、平和な世の子守唄のように聞こえる。
遊郭・吉原も元はアシ原
鉱毒被害の歴史的経緯もあり渡良瀬遊水地を管理する国交省・関東地方整備局は、アシの植物としての浄化機能を水質改善に生かす「ヨシ原浄化施設」として、アシ原全体を保護している。「アシ」と「ヨシ」の表記が混在して読みにくい点を、ご容赦願いたい。植物学上の正式名称が「ヨシ属」なので、官公庁は「ヨシ」の表記を選択しているのだろう。
葦簀(よしず)も「あし(悪し)ず」では製品の欠陥を認めるようで、商人は売りにくいはずだ。ヨシキリが「アシキリ」では「足切り」になってしまい、いくら鳴き声が騒々しくても可愛い小鳥には残酷かもしれない。
江戸の初期から続いた遊郭・吉原も最初は「葦屋町」(現在の日本橋人形町の一角)にあった。その頃は海岸にも近く、一帯がアシ原の低湿地帯。「葦屋」や「芦屋」はアシで葺(ふ)いた家屋の意で、兵庫県・芦屋市などと同じく「アシ」にちなんだ地名由来である。明暦大火を挟んだ明暦年間、葦屋町の遊郭群は浅草寺に近い元吉原と新吉原とに移る。「アシ」は縁起が悪いと「ヨシ」と読むことになり、やはり吉凶の縁起から「吉」の字が充てられた。遊郭には「悪所(あくしょ)」という婉曲(えんきょく)な呼び名もあり、余計に「悪(あ)し」の字は嫌われたのだろう。古来、日本人は地名などの固有名詞を大事にしてきたから、こうした機会でもなければ、また遊郭のような場所柄でもなければ、変えにくかったかもしれない。
「アシ」派も根強い
植物学上の分類が「イネ目イネ科ヨシ属ヨシ種」でも、日本語としての用法は別である。「吉原」と決めた江戸時代の遊郭関係者のアイデアを受け継がなければならない道理もない。そんな理屈が通じているのかどうか、依然として「アシ」派は根強い。冒頭で紹介した「豊葦原の国」を「とよ“よし”はらのくに」と読む人はいないし、パスカルの<人間は考える葦である>を「考える“よし”」と読む人もいない。城山三郎の小説『辛酸』の表記も「芦(あし)」で統一している。
興味深いのは俳句の季語。『日本大歳時記』(講談社刊)によると、「アシ」と読む季語は「蘆刈(あしかり)」や「葦雀(ヨシキリのこと)」などの24語。一方「ヨシ」と読むのは「葭切(よしきり)」や「葭簀(よしず)」などの16語である。文学や伝統文化の分野では「アシ」派が、わずかに優位のようだ。
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