斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

23 【辛酸入佳境】

2017年05月23日 | 言葉
 田中正造の境地
 ここ3か月ほどの間、明治から大正初めに栃木県・足尾銅山の鉱毒問題で奮闘した田中正造翁の関連本を集中的に読んでいた。城山三郎の『辛酸』や大鹿卓『渡良瀬川』『谷中村事件』、立松和平『毒』『恩寵の谷』といった小説群、木下尚江『田中正造翁』や荒畑寒村『谷中村滅亡史』などのノンフィクションを読み直し、新たに島田宗三著『田中正造翁余録』上下巻、布川了『田中正造と天皇直訴事件』、佐江衆一『洪水を歩む』、東海林吉郎・菅井益郎の共著『通史 足尾鉱毒事件』ほかを読んだ。改めて翁の気骨あふれる生きざまに感動させられた。
 「辛酸入佳境 楽亦在其中」は正造翁が晩年好んで揮毫(きごう)したコトバである。しんさん、かきょうにいる、たのしみまた、そのなかにあり。辛酸は辛(から)く酸っぱいこと。「辛酸をなめる」と言えば、あらゆる苦労を経験し尽くす、という意味だ。「佳境」は「何とも言えず素晴らしい所」(『岩波国語辞典』)、「物事が進行して興趣をそそられるようになった所」(『新明解国語辞典」)の意味だから、「辛酸入佳境」は逆説的な言い方である。後半の「楽亦在其中」は「楽しみは辛酸の中にこそある」の意。自分の死が視野に入ってなお、あえて「辛酸入佳境」と吐露するのは、どんな気持ちだろうか。強靭な精神と覚悟を要するコトバであるのは間違いない。
 生老病死の旅路をたどるのは、生きる者すべての宿命だ。老から病、死への途で万人を待ち受けるのは「辛酸」の境地かもしれない。しかし正造翁の場合、そのような意味合いの「辛酸」とは大いに違った。

 正造翁のたどった道
 明治10年、渡良瀬川の上流で江戸時代から掘削されていた足尾銅山の経営権を政商・古河市兵衛が引き継いだ。以来明治政府の殖産興業政策のもと、陸奥宗光(元外務大臣)や原敬(元内務大臣、首相)らの有力政治家と結び付いた古河市兵衛は、足尾銅山の拡張と増産への道を突き進む。その結果、銅精練の過程で生じた亜硫酸ガスや処理廃液が、渡良瀬川流域一帯の森や農地を汚染し、広い範囲に渡って深刻な健康被害と農作物被害をもたらした。
 田中正造は天保12年(1841年)、栃木県安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)に生まれた。明治13年、40歳で栃木県議会議員初当選。46歳、栃木県議会議長へ。県議時代から反足尾鉱毒闘争の先頭に立ち、50歳で衆議院議員初当選するや、足場を国会に移した。舌鋒鋭い国会質問の数々は、憲政史上に残るものだ。折悪しく日露戦争遂行と国力増強とを急務とした国は、一地方で起きた公害被害になど一顧だにしない。6期務めた正造は国会議員の限界を感じ、明治34年、61歳で衆議院議員を辞した。2か月後、問題の改善を求めて天皇に直訴。議員辞職は、身を軽くしておこうという直訴の伏線だった。世論は沸騰するも一過性に終わり、翁を売名行為と謗(そし)る声も出た。

 細る資金、離反する反対派農民
 天皇直訴をもって田中正造の、人生のピークとする見方もある。衆院の議場を圧した演説が消え、旧谷中村の農民の一人として運動を続けた正造翁だったから、新聞の活字となる機会は激減した。しかし正造翁が真に正造翁らしく変貌するのは、実はこれ以後である。まさに「辛酸入佳境」の境地になってからのことだ。
 その前に2つの出来事に触れておくべきだろう。まず議員歳費辞退がある。明治32年3月、田中正造は第2次山県有朋内閣が提案した議員歳費増加案に対し、憲政本党を代表して反対演説に立った。増税案を通すため見返りに議員歳費を上げて反対意見を抑え込もうとする、姑息な提案だったから、正義漢・正造の反対演説は激越を極めた。しかし憲政本党の反対むなしく歳費増加案は可決。すると正造は衆院議長に「歳費辞退届書」を提出した。増加分ばかりか歳費の一切を返上しようというのだ。このような挙に出た国会議員は正造1人だけ。もとより歳費以外に収入源のない貧乏代議士だったから、たちまち生活に窮した。反対派事務所の維持管理費、東京への汽車賃、裁判のための諸経費、果ては日々の生活費用まで、金がなくては回転しないのが浮世の現実だ。翌34年10月には議員の職までも辞した。
 次の出来事は反対派農民の離反である。明治33年に100人超の逮捕者を出した川俣事件(第4回鉱毒民東京大押し出し)以後、官憲の弾圧は厳しく、ために運動を離れる農民が相次いだ。下流の谷中村廃村や河川改修方法に運動の焦点が移ったという事情もあった。明治38年、国と栃木県は遊水池(貯水池、のちに遊水地)造成に着手。渡良瀬川の洪水により周辺農地が鉱毒に汚染されること防ぎ、下流の首都東京を鉱毒水から守るため、である。貯水池の予定地となる約450戸、人口約2700人(38年の時点で)の谷中村は廃村と決まった。鉱毒被害のツケは、足尾銅山の所有者である古河鉱業でも国でもなく、多大な被害を受けた旧谷中村の農民たちへ押し付けられた。
 旧谷中村1村を犠牲にして遊水池を造れば、周囲町村へ洪水は及ばず、洪水がもたらす鉱毒被害から免れられる。国や県による反対派への分断策でもあり、狙い通り旧谷中村民と、それ以外の住民との間には、微妙な亀裂が生じた。やがて運動を共に戦った隣村の民も、谷中村民に犠牲を強いる考えに傾いた。正造の右腕として奔走していた元学生でさえ、知らぬ間に栃木県の土木吏に採用され、谷中村から農民を追い出す側に回ってしまった。

 正造の「辛酸」と残留農民の「辛酸」
 これより1年前の37年夏、64歳の正造翁は身一つで谷中村に入り、農民の家に寝泊まりしながら、ホームレス同然の身なりで廃村阻止運動の先頭に立っていた。明治40年6月、最後まで移転を拒否して谷中に残った16戸の農家に対し、国と県は家屋を強制撤去する。なおも農民たちは廃材を組んだ仮小屋で谷中村残留を続け、翁も雨漏りする寝床で眠れぬ夜に耐えた。まさに「辛酸」の日々。正造の味わった真の「辛酸」は、国や県の悪政にも増して、かつて翁に従っていた仲間の裏切りに因(よ)るものでもあったのかもしれない。
 仮小屋生活10年目の大正2年9月、正造死去。胃がんだった。享年71。正造に従い「谷中村復活」を信じて残留を続けていた16戸の残留農民たちも、大正6年2月をもって旧谷中村外へ去った。「谷中村復活」は夢で終わった。
 正造の「辛酸」は語られても、夢ついえた16戸残留農民は黙して無念を語らず、舐(な)め尽くしたであろう農民の「辛酸」の数々は見落とされがちだ。たぶん翁のように「佳境」とは受けとめなかったのではないか。ここで1つの疑問がわく。田中正造はリーダーとして、ふさわしかったのだろうか。【続・辛酸入佳境】で考えてみたい。 

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