写真・岩手県釜石鉱山跡
軍隊出動、釜石鉱山労働者6千名ストライキ
1919年11月の労働争議(読書メモ・・・大原社研「日本労働年鑑」1920年版)
1919年11月10日岩手県釜石鉱山約6千名は賃金15割増給及び待遇改善を鉱業主に提出した。同鉱山の現在の労働環境は劣悪で、労働時間は12時間、賃金は最高70銭、手当最高35銭、傷病手当は50円以下、解雇手当なしというひどい状態であった。9日日本鉱山労働同盟会は同地で支部発会式を挙げ大いに気勢を挙げ、労働者に団結の必要を熱心に説いた。こうして鉱山労働者は覚醒しついに鉱山主側に以下の待遇改善を申し入れたのである。
「①業務労災傷病に相当な賃金を支給すること、②労働者の治療は無料のこと、③臨時公休日(正月3日間、盆は2日間)を与える事、ただしこの公休日に労働した者には3人分を支給する事、④労働者教育の普及設備(講演会や雑誌閲覧場の設置など)、⑤夜勤手当の支給、⑥場外労働者に雨具の支給、⑦託児所の設営、⑧商店前の市場の自由販売を改良する事(正札販売は弊害あり、自由販売とする事)、⑨構内道路に電燈を設置、⑩昼夜勤務者に相当な手当の支給、⑪運搬の場所に雨覆いを為す事、⑫鉱石計算の場合労働者に立会をさせる事、⑬病院及分院の患者と看護人の食事を改善する事、⑭患者室及付属品改善の件、⑮病院公休日廃止の件、⑯炉材料及煉瓦製造部改善の件、⑰製錬課その他の課に対し炎天の際特別手当を支給する事、⑱労働者に作業器具貸与の件、⑲鉱山役員は濫りに女工を使役せざる事、⑳予後備軍人召集中は本賃金支給の件、㉑皆勤者に賞与を与える事、㉒作業衣を支給する事、㉓救済基金5万円の分配の件、㉔賃金15割増の件、㉕白米の廉売の件、㉖8時間制の実施」
鉱山側は驚いて早速「8割の増給」を発表したが、もともと極端な低賃金のため労働者側は全く了解せずあくまで当初の要求を主張し続けた。11日鉱山側は、救済基金の分配、死傷害手当の増加、衛生設備の改善など15ヶ条を承認し、15割増給と8時間制と米の廉売については他の日に充分検討したいと回答した。しかし、労働者側、鉱山労働同盟会は内部の結束を強め示威運動として講演会を開催しようとしてその都度官憲が禁止した。
同じ頃、足尾鉱山でも鉱山労働同盟会の鉱夫が決起し資本家側と激烈な一大争議が続いていた。この争議は釜石鉱山労働者に多大な影響を与え同盟会支部員側の団結はますます強固となっていった。
労資交渉の中で鉱山側は「同盟会を脱会すれば労働者側の要求を幾分容れる」と露骨な申し入れをしてくるなど、ついに物別れとなった。鉱山側は官憲多数の巡査の他、盛岡青森及び東京の憲兵隊も動員した。
28日には請負業者側から「精神労働組合」なるものが生まれ、同盟会支部と敵対し会社側と妥協する方針を取った。同盟会支部とこの新組合との間で組合員の激しい争奪戦が起こり、一旦は「精神労働組合」側に主導権を奪われかけたが、ストライキ労働者側の必死な奮闘で30日夜には同盟会員2000名の大集会を開催するなど同盟会が闘いの主導権を奪い返した。その夜中一大示威行動デモが行われた。
ついに12月1日6000名大ストライキに突入した。この日会社は労働者側中心人物をクビにしてきた。この仲間の解雇に怒りを爆発させた2000名は所長宅と精米所に押しかけ同宅の器物を破壊した。午後6時会社は「同盟会員の退職者と家族に手当を支払う。またこの場から退去する者には鉱山鉄道は無賃とする」と発表したので2000余名は静かに引き下がった。この時警察部長の種々調停もあり、その後労働者側に不穏の気配は全くなかった。にもかかわらず知事と鉱山側はなんと軍隊の出動を要請し盛岡・青森の陸軍二個中隊が動員され、ストライキを弾圧した。そうしておいて鉱山側は2日、同盟会員以外の労働者に「8時間制施行、賃金2割増給、白米の廉売」の3条件を発表した。この発表を見て同盟会員以外の労働者は次第に就業する者が増加してきたので、鉱山側はますます同盟会撲滅の策を講じ、官憲はストライキ参加者10余名を拘引した。この争議中に警察に拘引された労働者は300余名に上り、令状を執行された者は35名もいる。今回争議で鉱山側の被害は58万円に上ったという。
12月5日鉱山側は「①賃金2割増給、②8時間制の実施、③白米の廉売を実施」を発表した。12月末に再び騒ぎがおきた。