足尾銅山一万人のストライキ
1919年11月の労働争議(読書メモ・・・大原社研「日本労働年鑑」1920年版)
1919年11月20日栃木県足尾銅山は事業縮小を理由に300余名の労働者を解雇した。足尾に本部を置く「大日本鉱山労働同盟会」は緊急会議を開催し、警察は巡査数十名を配置警戒した。21日、解雇者に同情する労働者が増加し「自身が同一運命に遭った場合、いかに処すべきか」など諸説紛々と起こり、就業を見合わせる労働者が次第に増えていった。26日同盟会は足尾金田座で「労働問題講演会」を開き、幹部が会社に行き「飯場制度の撤廃、最低賃金の値上」「解雇の撤回」の要求を提出した。同盟会と同盟会以外の多数の労働者が鉱業所に押し寄せ示威行動をした。27日には争議は全山に波及し、ついに1万人がストライキに突入した。スト破りはわずかに300名しかいなかった。鉱山側は休業を宣言し鉱坑の通行を禁じ栃木県警察部は巡査200名を増やし動員した。
27日午後足尾銅山労働者約7千人が鉱業所に押し寄せた。28日鉱山幹部は「28日午後から飯場制度を撤廃する」と発言した為、これを聞いた労働者は歓声を挙げて引き上げた。しかし警察は次第に厳重な警戒振りを見せはじめた。憲兵の派遣、警視庁の応援の動きも聞こえだした為、労働者側はかえって反抗の気持ちを高め、「送電をとめよう」「排水管を切断せん」「発電所を占領せん」とか種々の風説四方に巻き上がり、『足尾暴動』のうわさが次第に高まっていった。
27日同盟会の各役員、松葉、網島、京谷、高野、その他2人が宇都宮裁判所の拘引状で検挙された。28日朝、同盟会幹部の検挙を知った労働者は甚だしく激昂し、一同悲痛な決意を示した。官憲は栃木県警察部の外、群馬県警察部と警視庁より応援を求め巡査の総数は500名に達し、その上東京と宇都宮の憲兵隊をも動員した。労働者側は割合に静かであった。後になって内務省は「27日一部の労働者が鉱業所の電話線を破壊した」と言った。
28日同盟会は「上京して天下に絶叫する事」と「結束を固め持久戦で闘い一歩も引かない」と決議した。官憲側が露骨な態度で厳重な警戒態勢をひき圧迫してきた為、労働者からの反感を買い、29日には同盟会入会を申し込む者がますます多くなった。労働者代表20名数名は上京し、30日古河本社に出向き庶務課長と面会し「飯場制度撤廃」を訴えた。本社は「要求全部はすぐには承認しがたいが、ゆくゆくには努力し飯場制度も今すぐには全廃はできないが、追々改良していく」の意を告げたので代表らはひとまず引き上げた。ところが鉱山側は、労働条件は今までと変わらないまま12月2日から入坑・就業を開始すると発表し、多数の警官が就業妨害者を検束しようと大量に配置された。しかし、2日午後1時までに入坑した者はわずか本山坑では約300、通洞坑では約150、小瀧坑には約300名位しかいなかった。ついに会社側は「本日入坑しない者は明日からの就業はさせない」云々の掲示を出したが,かえって労働者側の反感を買い、この日の会社のもくろみは大失敗に終わった。この日、労働者代表側は東京本店で再度重役と会見したが重役は「追って改善する」と言うばかりなので、代表一同は憤慨して宿舎に引き上げた。
足尾町有志が労働者側に調停を申し入れてきた。しかし、労働者側は「この調停は当面の飯場制度の問題に触れていない」とこの調停を拒否した。
同盟会は演説会を行おうとしたが、官憲から「100名以上の会合は絶対に禁止」されたので、100名づつ分けた集会を何回も行った。
鉱山側はますます強圧的態度を取り、あらゆる手段を使っても労働者を入坑させようとしてきた。その一方で「アメ」として「今回の騒ぎで検挙された本人はともかく、家族は誠に気の毒な事ですから、検挙された家族に生計上の補助をする事となりました。1、イ、修繕料免除 ロ、米味噌木炭支給は今までと同じ 2、見舞金の支給、なおこの際家族全員で他の地に移転する者は旅費を実額与えるので相談にきて下さい」。労働者は会社側のこの姑息な姿勢に対し、ますます結束を固くした。3日にも入坑する者はなく労働者側は熱心な宣伝活動を行った。
官憲は一層労働者幹部検挙の方針を強めた。また鉱山側は、所長以下何人かが引責辞職し、新所長が就任した。
東京にいる代表委員は新運動方針「各労働団体と各地の鉱山労働者と新聞各社に応援を求める」を決め、3日、ビラ『足尾一万の坑夫は一富豪の横暴に鞭うたれつつあり、我らは天下の義人にこの窮状とその後援を仰がんとする』を5万枚用意した。
4日鉱山側は官憲と呼応し、ますます労働者への圧迫を強め、「入坑しない者には食料を配らないだけでなく解雇する」と掲示したので労働者一同はますます怒りを増した。官憲はさらに労働者の幹部を次々と検挙してきた。会社は各飯場頭に命じて強制的に労働者を入坑させたので、小瀧坑1100余名、本山坑1700名、通洞坑200名の入坑があった。
東京の代表委員は「資本対労働」だと大々的に社会問題化しようと友愛会、信友会、自由労働者組合、日本労働組合、日本交通労働組合、小石川労働会等の各幹部と面会し了解を求めた。これら団体以外にも多くの労働団体が参加して4日午後7時神田松本亭において協議会が開かれた。この知らせを察知した古河本店ではあわてて上京の労働者側代表委員を会社に呼び寄せ『東京の労働団体と手を結ばなければ、要求の9分は受け入れるが、もしやめないのであれば、会社は徹底的に闘う。要求への具体的回答は5日午後7時までにする』と申し入れた。労働者側はひとまず東京労働団体との提携を見合わせることとし、東京の労働団体側も足尾労働者の意を受けて了解し、「我々労働団体はあらゆる労働争議に対しこれは単なる部分問題ではなく我ら労働者階級全般の生死に係わるものと認識している。今後一切の情実を廃止一致協力して、これが貫徹することに努めることを期待する」との声明をだした。
5日、大森警察部長は同盟会幹部数名と交渉し結果6日午前5時に至り以下の妥協に至った。
1、飯場撤廃問題は松葉会長の帰山まで保留の事
2、通洞8番坑と同様な状態にある場所は6時間制を実施する事
3、この際、馘首をしない事
4、被検挙された家族を援助する事
5、11月25日欠勤者に27日より12月5日間の半本番の賃金を支給する事
6、同盟会の存在を認める事
7、同盟会は12月6日より平穏に就業する事
6日朝から全山で労働者が全員入坑した。全山は再び黒煙を吐いた。
この足尾の労働争議では400名に上る巡査と憲兵は、多くの労働者を検挙した。宇都宮監獄に収監された労働者は23名もいた。この獄にいる仲間を救う為、多くの足尾の労働者は血判の嘆願書を作り裁判所に提出し、また5千余円の資金を集め全額仲間を救う費用にあてた。主任弁護士の尽力もあり仲間たちは本年中に出獄できる事となった。