亀戸事件 (読書メモ)
参照
「亀戸事件の記録」亀戸事件建碑実行委員会編
「亀戸事件 隠された権力犯罪」加藤文三著 大月書店
「渡辺政之輔とその時代」加藤文三著
「地震・憲兵・火事・巡査」山崎今朝弥弁護士著 岩波文庫
「日本現代史 4」ねず・まさし著 三一書房
「日本労働年鑑」第5集1924年版 大原社研編
亀戸事件
亀戸事件とは、1923年9月関東大震災時に南葛労働会(組合)の8名と純労働組合の平沢計七ら2名の若き10名が亀戸警察署で軍隊近衛師団に刺殺された、日本労働運動史上かつてない私たちの大先輩を虐殺した大弾圧、日本の労働組合が永久に糾弾しつづけなければならない権力犯罪です。
1、「亀戸事件」で虐殺された労働組合員
川合義虎(21歳)(南葛労働会)長野県小県郡西塩田村(現上田市)
北島吉蔵(19歳)(南葛労働会)秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山(現小坂町)
山岸実司(20歳)(南葛労働会)長野県小県郡大屋町(現上田市)
加藤高寿(26歳)(南葛労働会)栃木県塩谷郡矢板町川崎反町(現矢板市)
近藤広造(19歳)(南葛労働会)群馬県群馬郡元総社村石倉(現前橋市)
鈴木直一(23歳)(足尾銅山・常磐炭鉱労働者、南葛労働会の知人)出生地不詳
吉村光治(23歳)(南葛労働会)石川県石川郡三馬村上有松(現金沢市)
佐藤欣治(21歳)(南葛労働会)岩手県江刺郡田原村石山(現江刺市)
平沢計七(34歳)(純労働者組合)新潟県北魚沼郡小千谷町(現小千谷市)
中筋宇八(24歳)(純労働者組合)出生地不詳
2、南葛労働運動
歴史的にも日本階級闘争の炬火(かがりび)の地であった南葛(東京の南・東葛飾郡、現在の墨田・江東・葛飾など東京東部地域)の一帯。1901年(明治34年)4月3日には隅田川向島公園で開催された片山潜らの呼びかけによる事実上日本で初めてのメーデーとも言われる「労働者懇親会」に約3万人もの労働者が押し寄せています。1923年当時東京最大の工場地帯であった南葛地方の労働争議は、いまでは想像もできないほどの数の労働者の決起と闘いが爆発していました。この南葛労働運動は、全国の労働者から『南葛魂(たましい)』と尊敬をもって呼ばれ、南葛は日本労働運動の一大地域拠点でした。
参照<南葛労働運動、「南葛」地域の労働争議>
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/bfdb403fa1e221e695717a12ae2c4031
これら多くのストライキの応援の先頭にいた組合が《あらゆる労働者の闘争の最前線に立つ事を期した》南葛労働会(組合)です。南葛労働会(組合)は、自らの組織だけでなく南葛地域の多くの争議に駆け付け、その先頭で闘い支援しました。遠方の千葉の野田醤油争議支援にも、なんと徒歩で向かっています。「(南葛労働組合は)精かんにして統一ある行動をもって、あらゆる労働者の闘争の最前線に立つ事を期した。さらば南葛労働なる名は、全国の闘争的な労働者、農民の渇望の的となり、宛然その中心をなすかの如くであった。支配階級がこの一握りの労働者団体を最大の仇敵視していた理由はここにある」(「渡辺政之輔とその時代」)。
「革命的理論に根差した固き信念を持ち、行動において最も勇敢であり、犠牲的、献身的であるところの革命的労働者の一種の風格が養われた。『東部の闘士』、後には『合同の闘士』と言えば、革命的労働者の代名詞のごとく使われ、今日共産党事件で牢獄にぶちこまれている多くの労働者党員が獄中よりの消息に、いずれも『南葛魂』『南葛精神』と称して自らの革命的信念を表現しているのを見ても、かの精神的感化力がいかに偉大であったか」(「渡辺政之輔とその時代」斉藤久雄筆名藤原久)。
3、政府は「南葛労働運動」や社会主義運動の圧殺のチャンスを以前から狙っていた
(1)1923年政府の弾圧(政府の社会主義運動などへの弾圧はまったく秘密裏に行われていますが、「労働年鑑」第5集第9章社会主義的運動の取り締まり及び対策622ページやほかにも「労働年鑑」第5集内に記載されている範囲からあげてみました。)
①過激運動取締法案
②1月、内務省警保局の新聞雑誌検閲基準の策定の動き。
③1月16日、朝鮮で発行された雑誌『新生活』で昨年起訴された李時雨など6名を「ロシア革命を讃美し、・・共産主義を樹立すべしというがごとき過激なる言論を記載した」として、懲役2年6ヶ月から1年6ヶ月の判決。
④2月7日、朝鮮総督府は警務局警官隊は、朝鮮総督府、総監官邸、朝鮮銀行などを爆破する計画という理由で『義烈団』の金某他14名を捕縛した。(記事写真)6月12日より予審決定し公判が始まった。
⑤3月1日、元山上洞所在私立培成学校朝鮮人教師を受け持ち教室の黒板に不穏唱歌を書付け、4千名の学生に高唱させたと当該教師他数名を検束して厳重な取調べをした。
⑥3月1日、東京在住の朝鮮人学生団体など50余団体は、3月1日を記念した「朝鮮独立記念会」を開催しようと、千余名が上野公園西郷銅像前に集合して、70余名が検束され解散させられた。
⑦3月、警視庁は帝大の新人会、早稲田大の建設者同盟などの学生団体行動や思想の調査を開始。
⑧3月、長野県「社会主義者のブラックリスト」を作成。
⑨4月、暁民共産党事件、高津正道、近藤栄蔵らに禁固8ヵ月などの判決。
⑩ロシアよりヨシフェ氏来日で、政府は社会主義者の行動と思想弾圧を強化。
⑪5月、横浜丸善書店のロシア語の共産主義雑誌100部を発見し差し押さえ。
⑫6月、地方長官会議で後藤警保局長は社会主義者の取締り、思想界の現状と対策を一時間にわたり報告。
⑬6月5日、第一次共産党事件。警視庁特別高等課は、堺利彦、渡辺政之輔、荒畑勝三、杉浦啓一、野坂鉄、市川正一ら80余名を全国で一斉に検挙した(下記に説明)。
⑭6月23日、警視庁特高課は、建設者同盟、農民運動社、出版従業員組合、南葛労働組合を襲撃し、家宅捜査を行い、パンフレットやビラ数万枚を押収した。9月2日のロシア革命記念日の青年日の宣伝への弾圧であった。
⑮6月23日、神奈川県警察部は、県下各警察署に命じ、書籍販売店を取り調べで多数の書籍を押収した。
⑯6月、朝鮮総督府、外国からの移入新聞雑誌取締方針の決定。
⑰6月、京都府警察署長会議の秘密会議で社会運動取締の協議。
⑱7月4日、間島で朝鮮人共産党の朝鮮人24名を一網打尽に検挙。
⑲7月13日、日本政府は、「13日の閣議で赤池警視総監から共産主義者の状勢を報告した結果閣議はこれを絶滅するため将来具体的方法をとることに決定した」(日本労働年鑑第5集620ページ)。7月16日、「朝鮮警務当局ではこの内地の傾向に従い朝鮮内主義者に対し、厳重な取締りをなすこととなった」。(同上)
⑳7月、戦線同盟の検挙。
㉑愛知県特高課政談演説会に警告文貼りだし。
㉒山口県、共産党事件に刺激され、「一層社会主義者の取締りを厳しくする」と通達。
㉓8月、大阪控訴院検事長の労働・思想・経済に関する専任検事の信任。
(2)1923年の言論弾圧、不穏宣伝ビラ、不穏文書の取締り(「労働年鑑」第5集)
1月、徴兵忌避に関する不穏文書配布(福岡)など12件。
2月、「交代せよ、交代せよ、小作人は地主と交代せよ、労働者は資本家と・・」の宣伝書が東京、茨木、栃木、神奈川、福岡、千葉、富山の村役場や工場に郵送など12件。
3月、若松連隊集会所宛ての加藤内閣非難攻撃文書など10件。
4月、東京駅便所の不穏文書貼布事件など3件。
5月、広島各連隊、呉海軍病院、大阪第八連隊、佐賀第55連隊・・・への不穏宣伝ビラ事件など11件。
6月、福井県下の共産主義宣伝文書の配布など8件。
7月、千葉県船橋、松戸、市川、野田地方の青年団や小作人に不穏文書配布など12件。
9月、長野市諏訪公園内の不穏文書貼付け事件など2件。
10月、金沢市内電柱や板塀への不穏文書貼付けなど3件。
11月、三重県歩兵51連隊での不穏文書送付など4件。
12月、北海道旭川師団への不穏文書など4件。
(3)第一次共産党事件
6月5日、警視庁特別高等課は、堺利彦、渡辺政之輔、荒畑勝三、杉浦啓一、野坂鉄、市川正一ら80余名を全国で一斉に検挙します。
「被告人はいずれも現時の社会組織を一変し民衆の革命的手段において資本主義を撤廃し政治上及び経済上の権力を無産階級の手中に収め、いわゆる労農独裁の社会を実現する目的の共産主義を奉ずる社会主義・・・を達成すべく・・・密かに共産党の秘密結社を組織した」「大正11年(1922年)3月ごろ、まず南葛労働組合、時計工組合、印刷工組合、出版従業員組合員の中に党員としい加入者を得て、細胞数10、細胞員58名に達した」「(かれらの手段)警視庁をまず乗っ取り、警官をすべて打ち殺して支庁や町役場や警察署を取り、警察権を奪取しなければならぬ」「これは、治安警察令第24條、第28條違反」との理由でした。
(「日本労働年鑑」第5集1924年版 )
(4)作家壺井繁治
『あの大地震のドサクサまぎれに、資本家地主階級の手先である当時の反動政府は、彼等が利用し得る一切の機関を動員して無数の朝鮮人や労働者や戦闘的プロレタリアートの組織的な虐殺を行った。大杉事件や亀戸事件等は社会の表面に現れたほんの一二の例にすぎない。ただの一言も人の噂にさえ上らずに闇から闇へ葬られたものが幾千あるか分らない。殊に朝鮮人に対する暴圧は言語に絶するものだと云って差支えない。彼等支配階級は無智なる小市民や農民を煽動して計画的に朝鮮人の大々的虐殺を行いながら、うまくその責任を逃れようとした。所謂放火騒ぎによって、混乱した災害の巷を更に混乱せしめたものは、被圧迫階級の敵意におびえて、根も葉もない流言蜚語をまき散らした彼等でなくて誰であろう? 』(「十五円五十錢」壺井繁治(日本プロレタリア文学集・34)
(5) 亀戸警察署
その上、亀戸署員と南葛労働者は「犬猿もただならず間柄」でした。南葛労働者は多くのストライキ支援と悪法反対運動、メーデーなどの示威運動で官憲と徹底的に弾圧しています。また震災当時は広瀬自転車製作所で工場閉鎖をめぐる争議中で、亀戸署高等係が介入していました。平沢らの所属した純労働者組合もまた日本鋳鋼争議、大島製鋼争議など亀戸署は徹底的に取締ります。とくに前年1922年の大島製鋼争議では、亀戸署長のひきいる警官隊は労働者120余人を検束し、63人を騒擾罪で起訴し、13名が拘留されます。この大島製鋼争議では、布施辰治ら自由法曹団が亀戸署の人権蹂躙、不法拘引を暴露し社会問題として厳しく糾弾していました。
「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、亀戸警察署長の古森繁高は、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り朝鮮人や社会主義者を「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場」にしました。社会主義者の検束にあたって古森が根拠としたのは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣」が発した「訓令」の「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」部分でした。
古森署長は、上の写真の10月11日の新聞においても、「あの場合にやむを得ぬ」と堂々と述べているように、軍隊に10名を引き渡し、殺害させたことをなんら悔いていません。
4、油に火を注いだ『戒厳令』(山崎今朝弥弁護士の著「地震・憲兵・火事・巡査』岩波文庫)
9月1日午後2時ごろ、赤池濃警視総監は水野錬太郎内務大臣と後藤局長に戒厳令の施行を進言し、翌2日、水野は「市民の恐怖動揺」を看取し、また、2日朝に「朝鮮人攻め来る」との流言蜚語に触れて戒厳令施行を決定しています(東京市政調査会,1930)。3日には、通信・交通機関が復旧するまで出版物の禁止差押処分を地方長官に委任し、出版物の納本も各府県で管理するよう指示(「記事取締に関する書類綴」)。
流言蜚語により迫害対象となった朝鮮人について、9月2日、警視総監の赤池濃は「朝鮮人ヲ速カニ各署又ハ適当ナル場所ニ収容シ其身体ヲ保護検束スルコト」、「朝鮮人ノ保護ヲ確実ナラシムル為其移動ヲ阻止スルコト」、「内鮮人相互ノ融和ヲ図ル為朝鮮人労働者ヲシテ社会的事業ノ開始ヲ勧誘スルコト」を決定し、同日午後3時には流言の防止と朝鮮人保護を各署に指示します。ただし、警察の保護は行政検束による連行・収容という強制性・弾圧性を伴ったもので、また警察によって連行・護送中の朝鮮人が群衆から暴行を受け、あまつさえ殺害される例もあります。
山崎今朝弥弁護士は、著「地震・憲兵・火事・巡査』岩波文庫の中で、この時の政府の「戒厳令」について次のようにその本質を喝破しています。
『人は到底環境の支配を免れ得ない動物である。ただでさえ気が荒み殺気が立って困っている処へ、剣突(けんつき)鉄砲肩にしてのピカピカ軍隊に、市中を横行闇歩されたでは溜ったものでない。戒厳令と開けば人は皆ホントの戒厳と思う、ホントの戒厳令は当然戦時を想像する、無秩序を連想する、切捨て御免を観念する。当時一人でも、戒厳令中人命の保証があるなど信じた者があったろうか。何人といえども戒厳中は、何事も止むを得ないと諦めたではないか。現に陛下の名においてという判決においてすら、無辜(むこ)の幼児を殺すことも、罪となるとは思えない当時の状態であった、と説明して居るではないか。営内署中どこでも、いやしくも拘束された者の語るを聴け、彼らも、また彼らも、戒厳令をなんと心得ていたかがわかる。到る処で巡査兵卒仲間同志の話す処を立聴くがよい。今でも血に飢えた彼らは憚(はばか)る処なく、当時の猛烈なる武勇とその役得や貢献数の多かった事とを自慢するではないか。今になって追々行方不明者の、身の毛もよだつ悲惨なる末路が、ようやく分明してくるではないか。実に当時の戒厳令は、真に火に油を注いだものであった。』
5、加害者は誰一人罰せられていない
亀戸事件10名殺害の加害者は誰一人罰せられていません。大杉栄家族事件では犯人憲兵隊特高課の憲兵大尉甘粕正彦らが、また朝鮮人虐殺事件では自警団らが検挙され裁判にかけられています。いずれも考えられないほどの軽い刑で終わっていますが、亀戸事件に至っては加害者の検挙はおろか氏名の特定すら行われていません。軍隊による殺害であることは認めておりながら、罰せられないのは〈軍事・戦争行為〉であるという理由のようですが、ありえない話です。