写真上・自由民権運動を弾圧する警官の横暴
写真下・悪法反対民衆大会の会場ど真ん中に堂々と座る警官隊たち(1925年)
治安維持法② 治安維持法制定以前の国家の弾圧(法) (読書メモ)
参照「治安維持法小史」奥平康弘 岩波現代文庫
「証言 治安維持法「検挙者10万人の記録」が明かす真実」NHK「ETV」特集取材班
「日本の公安警察」青木 理 講談社現代新書
それにしても、アベ国葬に「労働者を代表して出席する」とぬけぬけと表明した連合のヨシノさんは、戦前の先輩労働者にかけられた以下の弾圧の数々をどう思っているのでしょうか。ヨシとしているのでしょうか。「労働者の代表」と自らを厚かましくも呼ぶのであれば(こちらは全然そうは思っていませんが)、過去の先輩労働者への思いも少しはお持ちでしょうから一度聞いてみたいものです。
さて、1925年の治安維持法案は突然登場したわけではありません。明治政府以来、国内、植民地における労働者、農民、民衆の決起に対する国家の弾圧の長い歴史があります。また、その間の日清戦争・日露戦争・韓国併合、シベリア出兵、朝鮮、台湾の植民地支配、中国への侵略と戦争(のちには対米英との世界大戦)とその準備も直接的な背景です。治安維持法制定以前の国家の弾圧(法)を少しまとめてみました。
治安維持法制定以前の国家の弾圧(法)
(朝鮮、台湾など植民地)
朝鮮における全国的抗日蜂起の東学農民軍弾圧、日清戦争、日露戦争、韓国併合にみる軍隊による侵攻・圧迫、3.1運動などへの弾圧や台湾侵略など日本軍隊・警官による多くの弾圧が繰り広げられた。日本国内にいる朝鮮人に対する取締りは「内鮮警察」と呼ばれる。1916年「要視察朝鮮人視察内規」が訓令された。1917年に図書検閲と外国人取締の二つの面で特高警察関係の機構を拡大をし、また「外事課」を設置した。ロシア革命を見た内務省警保局長は通達で「露国人と労働者、または特別要視察人および朝鮮人との関係等につき注意方の件」を出す。1920年には「要注意外国人、危険思想抱持者および排日朝鮮人等の視察取締」、21年には「内鮮高等係」が新設された。朝鮮人への敵視の歴史であった。
(琉球処分など)
国内では日本軍が沖縄を武力で日本に統合した琉球処分、秩父困民党農民1万人武装決起や足尾銅山等炭坑暴動、足尾銅山鉱毒農民闘争への官憲の暴力的弾圧・川俣事件もある。韓国併合直前の社会主義思想への弾圧は1910年の大逆事件が有名。なにより日清・日露戦争・シベリア出兵・中国侵略とその戦争体制は国内外における弾圧政策に直結している。1918年米騒動への軍隊による全国的鎮圧もある。治安維持法公布の2年前の1923年関東大震災時での戒厳令、天皇の緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」、朝鮮人虐殺事件、亀戸事件、大杉事件、朴烈事件などの一連の弾圧も治安維持法案導入に大きく関係している。
(出版の取締り)
自由民権運動を弾圧した明治政府は、また新聞紙法・出版法により、行政官庁が社会の「安寧秩序」を乱すと判断すれば即座に発行禁止の権力を持ち、「安寧秩序」なるどうにでも解釈でき主観的な理由で出版・新聞を取り締った。しかも一切の不服の申し立ては許されなかった。文字通りの「出版警察」であった。
(集会と結社の取締り)
有名な治安警察法(1900年)は、女性の政治結社への参加を禁じ、また警察は好き勝手に集会の禁止・解散を命令し、集会での発言も弾圧した。労組などの集会や演説会には何人もの臨検警察官が壇上正面横に居座り、「弁士注意」「弁士中止」「集会解散」と不当な命令を乱発し、抗議する労働者は会場に潜ませた多数の私服・正服警官によって即座に検束された。警官は労働組合などの大小のあらゆる会議や団体交渉ですら同席する権限を持ち、その会議内容を記録しまとめて各大臣にいちいち報告した。1901年(明治34年)社会民主党創立への即刻禁止命令、1925年農民労働党結党即日結社禁止、1928年労働農民党、日本労働組合評議会などへの解散命令が有名。
(治安警察法と第17条)
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/cbe8f6e43a5c88bd3ebe56ca9d657abd
治安警察法(1900年)
①女性、未成年者の政治結社加入等の禁止
②結社と集会の事前届出義務
③警官の集会解散命令権
④17条「(労組加入、ストライキの遂行を目的として)他人を誘惑もしくは扇動することを禁ずる」
⑤罰「1月以上6月以下の重禁固等」
(第17条が廃止されるまで1914年~26年13年間の労働運動への弾圧検挙総数)
労働運動に伴う総検挙数 620件 6000人
治安警察法第17条違反の検挙数 154件 1162人
治安警察法の条文では、使用者側の行為(解雇など)にも適用されるとなっているが、実際には、ほとんど労働者・農民側のみを取り締まった。
(スパイ制度=特別要視察人視察制度)
1911年に「特高警察」が誕生した。明治政府は「特別要視察人視察制度」で、共産主義者、社会主義者や労働組合員、朝鮮人らの「要視察人リスト」を作り、徹底的に調査・監視・尾行・スパイを行った。政党や労働組合などの内部にスパイとして潜り、または協力者スパイを作った。1920年頃からは「特別要視察人」は、もっぱら労働運動に向けられ労働運動の活発な地域に特高警察を強化した。警視庁特高課には「労働係」を設置し、21年あらたに「労働要視察人視察内規」を制定し、労働運動とその指導者や活動家を視察対象とした。「暗黒社会」「監視社会」「スパイ社会」の合法化であった。
(青木 理著『日本の公安警察』)
戦前の「特高」は戦後「公安警察」として民衆と政治運動・労働運動・市民運動への監視と抑圧の治安機関となった。『日本の公安警察』(青木理著 講談社現代新書)に、現在もなお公安による「監視」「尾行」「協力者としてのスパイ」「謀略」等が詳しく報告されている。「特高」は今も生きているのだ。おのおの方! ゆめゆめ油断することなかれ!。
(その他の治安弾圧法)
集会条例(1880年)・・・政治団体と集会の事前に警察に届け出・許可の命令。会議・集会には警察官の臨席、かつ集会解散権を警官に与えた。また野外集会の許可、教員・学生の政治活動禁止など戦前の政治運動、労働運動などの弾圧に絶大な力をもった。
出版条例改悪(1883年)・・・図書出版を10日前までに届ける義務付け。
違憲罪即決例(1885年明治18年) と警察犯処罰令(明治41年1908年)・・・これも警察だけで「即決」された。司法機関を通さずに警察限りで「29日以内の拘留と罰金」を自由に処理できたのである。一年以上も拘留された例もある。
保安条例(1887年)・・・秘密結社・集会を禁じ、予防処分の弾圧法規。
行政執行法(1900年明治33年)・・・「暴行、闘争ソノ他公安ヲ害スルノ虞アル者」を検束する事を認めていた。この規定は、なんら罪を犯していない者でも、警察が「公安ヲ害スルノ虞アル」とかってに認めさえすれば、これを検束できたため、労働争議の指導者や応援者を「豚箱に泊め」て争議をつぶすことに濫用された。この検束は「翌日ノ日没後ニ至ルコトヲ得ス」という制約があったが、形式的にいったん釈放し、再検束することによって、何日間でも検束を続けた。
過激社会運動取締法。1922年大正11年に議会に提出された。全新聞社も入った人民の側の大反対運動で廃案となった。これの巻き返しが治安維持法であった。
関東大震災時に国家権力側が流布した朝鮮人暴動説とその結果の「自警団と流言蜚語」と朝鮮人虐殺、戒厳令、そして亀戸事件、大杉一家殺害事件、朴烈事件。天皇の緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」。・・・総同盟右派幹部はこの一連の弾圧とその恐ろしさに心底震えあがった。
暴力行為等処罰に関する法律(1926年)・・・1926年に治安警察法第17条が廃止されると同時に「暴力行為等処罰に関する法律」が制定され、むしろ「争議にともなう犯罪」で検挙された件数、人員は急増した。26年は検挙件数でこれまでの最高を記録し、人員で米騒動の年の1918年に次いだ。
その他、騒擾罪、緊急勅令、戒厳令、不敬罪、内乱罪、公務執行妨害罪など数多くの弾圧法、そしてついに治安維持法を成立させ、これら弾圧法を駆使して民衆、労働者、市民の自由を無慈悲に弾圧し、こうして「日本主義」「国体」「天皇制」ファシズム体制を確立し、朝鮮台湾植民地侵略、中国侵略戦争、第二次世界戦争へと拡大し続けた。
弾圧につぐ弾圧、先輩労働者はこうした敵と不屈に闘い続けたのだ。〈決起、弾圧、敗北、再び決起、再び弾圧、さらに再び決起、・・〉、「100度倒されたら100度立ち上がろう」先輩労働者の決意だった。
(次回)
治安維持法③ 韓国テレビドラマ『緑豆の花』。日本の朝鮮支配と治安維持法、朝鮮民衆の決起!