■念仏者は無碍の一道なり
自力信心の行者には、天地地祇にも敬伏され、魔界も障碍すること無し
念仏者は諸善も呼ぶことなきゆえに
無碍の一道なり
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■これは念仏申して生きていく者の恐れなき姿をいい現したものである
びくびく、おづおづして、自分の周囲の思惑をはばかり、自分の良心からもつつかれて、生気と自信のない生き方をする者がいるが、
念仏者はもう善悪を見ず、一如白道を歩むばかりだから、びくびくとはしない
また自分の生涯を一度根こそぎ投げ出しているから、どうなってもいいと、腹が決まっている
つまり全てを弥陀にまかせてしまっている。だから恐れなく、さえぎられることなく、無碍の一道を行く
■天地地祇の権威も、魔界の恐れも、何か幸せを祈り求め、あるいは
不幸を恐れて迷うところから生ずる
全てを弥陀にまかせてしまって、宿縁にまかせ、ひたすら念仏申さるように生きる限りは、踏む道は一如
祈りも迷いも無いから、天地地祇も、魔界も無い。これが無碍の一道
■もちろん必ず幸福と善の道が歩けるというのではない。不幸と悪の道かもしれない
その道は善・悪、幸・不幸を超えた弥陀のはからいの一道
これが無碍の一道
これが絶対一道
これが善悪よりも高次道
無碍の一道は善悪を見ていては得られない。ただひとすじに念仏を申す時にのみ得られる。結果、善を追究していたという不思議が蔵されてる
■念仏申さるように生きる道を知らないものは、善悪に会うたびに恐れおののきながら生きる。出来事に
反応・動揺しなくてはならないのだ
515事件は、その恐ろしい非合法な暗殺計画と、一方の純真な愛国精神と犠牲精神の善悪にふらふらになるが、念仏生活者は驚かない。そういうことはあるべきことだと生きている。弥陀の計らいでなるようになる
念仏申せるなら、左翼になるも右翼になるもいい。念仏申されないなら左翼になるも右翼になるも共に不徹底だ
■念仏は申すのではない。申さるるのである。もよおされて申すのである。この我れを失って受身になる所に重要な秘密がある
小さな自我が出しゃばらず、大我が我れを通して運行する。自分が行ずるのではない。法が行ずる。大我が自然と我が身の行いとして顕現する
仏のはからいに、はかられて、念仏申し、念仏申さるるように行う。だからそれは自分の行いに非ず
もよおされて行う結果が、念仏申さるるように生きる結果が、善だったに過ぎない。だからそれは自分の善に非ず。慢心の種にもならない
■自分が行わずに、仏にもよおされて行わしめるということは、日常のどんな些細な行為もそうなので、日常生活の隅から隅まで充実して、力がこもっているのである。念仏者の些細な行為は全宇宙の力で行われているのである。与楽の利益を感じる