るるの日記

なんでも書きます

誓願不思議か?名号不思議か?

2022-04-01 16:16:20 | 日記
🔶人の頭のはたらきに「区別と分析」がある。一つに統合されている全一さえも区別したがる。全一を部分に切り離すと生きた全体ではなくなる

■区別1
人が「念仏申すと往生させて頂ける」と信じて念仏しているのに、その人に、「あなたは誓願不思議を信じて念仏しているのか?名号不思議を信じて念仏しているのか?」などと言って人を迷わす人がいる

これは【誓・名別信計】という過ちをおかしている
【弥陀の誓願と、弥陀の名号を別々に信じようとする凡夫のはからい】なのだ
乳飲み子に、母と乳とどちらが好きかと聞くような事だ

凡夫に称え易く、続け易い名号を出してくれたのは、「凡夫を助けたい」との弥陀の誓願の不思議

名を称える【行い】時はすでに誓願不思議を信じている【意識】。二つは一つ
どちらか一つを信じるのはあり得ない

■区別2
善・悪について
往生には差別があって、善は往生の助けになり、悪は障りとなるように思うのは凡夫のはからいである

なぜなら誓願の不思議をたのまずに、「自分が善を行うことによって往生できる、自分が念仏を称えた功徳で助かる」と思っているからだ
このような人は名号の不思議をも信じていない

誓願の不思議をたのまず
名号の不思議をたのめない
信仰は仏のはからいでもよおす
その全過程は仏の善巧方便

人が計らわなければ、仏の計らいは顕れる=自我が出しゃばらなければ大我が行う=仏は人を遣わす

2022-04-01 15:39:03 | 日記
「念仏は無義をもって義とす」

念仏は『はからいが無い』をもって、はからいとす

念仏を、念仏者の心でこうゆうもの、、などと推し計り、固定させ、局限させるを義という
人は何か尺度、原理、より所がないと決まりがつかないような気がするのだ。そこからあれこれと計らいが生じる
しかし、仏智は人の智恵では解らない。菩薩でさえ推し量ることはできない超絶的なものである

人がはからわなければ、仏のはからいは自ずと顕れてくる。それが他力本願のはからい
無義の義
宗教の奥義

これ以上は色々言っても仕方がない


親鸞も信仰のマンネリに陥った「飽きるという煩悩を自覚することで初心に戻る」心機一転

2022-04-01 15:16:36 | 日記
■親鸞の弟子唯円坊が親鸞に問う
「念仏申せども歓喜の心が、おろそかになり、早く死んで浄土へ参りたいという気持ちもしなくなったのは、どうしたものか?」

■親鸞は答える
「唯円お前もそうか。私もそれを不審に思っていた。やはり同じなんだなあ」と、親鸞は感動している

■この唯円のような質問は、唯円が安心決定の事をいつも心がけている証拠であって、漠然と何となく念仏していては起こらない不審である

唯円は自分の幻滅的な疑問を
師の親鸞が肯定してくれたのが
嬉しかった

■親鸞の答え
喜ぶべきことを喜べないのは、我らの煩悩のせいだ。無知であさはかなせいだ。しかし仏はすでにそれを見抜いて『煩悩具足の凡夫』と言われる。他力の悲願はこのような我らを助けたいためだったのだ、と気がつくと、いよいよたのもしくなる

また浄土へ早く行きたい気がしないのも煩悩のせいだ。無限の過去から流転し続け、楽しくもない苦しい世の中だと知っている癖に、住み慣れたこの世が楽しく、まだ見たことのない浄土は楽しくないとは、よくよく煩悩が盛んだからだ

解脱した者が凡夫に、『その背負っている荷物を捨ててみなさい。楽になれるから』と勧めても、凡夫はなかなか捨てはしない

病院に長くいると、退院するのが名残惜しくなるものだ。監獄に長くいると、娑婆に出るの方が苦しむと感じるものだ

苦悩の国は捨て難く
未だ生まれざる浄土は恋しからず

もともと煩悩は涅槃と1つ
煩悩を離れて涅槃無し
煩悩無くして弥陀の誓願無し
性欲無くして子を産ませたいと願うようなもの
娑婆気が無いという事は、浄土真宗の信仰とは筋違いであり、娑婆愛着から断ち切れない心から成立する

念仏者は些細な行為も仏の他力【全宇宙の力】で行われているから、日常の隅々まで充実して力がこもっている【抜苦与楽】

2022-04-01 14:35:55 | 日記
■念仏者は無碍の一道なり
自力信心の行者には、天地地祇にも敬伏され、魔界も障碍すること無し

念仏者は諸善も呼ぶことなきゆえに
無碍の一道なり
■これは念仏申して生きていく者の恐れなき姿をいい現したものである

びくびく、おづおづして、自分の周囲の思惑をはばかり、自分の良心からもつつかれて、生気と自信のない生き方をする者がいるが、

念仏者はもう善悪を見ず、一如白道を歩むばかりだから、びくびくとはしない
また自分の生涯を一度根こそぎ投げ出しているから、どうなってもいいと、腹が決まっている
つまり全てを弥陀にまかせてしまっている。だから恐れなく、さえぎられることなく、無碍の一道を行く

■天地地祇の権威も、魔界の恐れも、何か幸せを祈り求め、あるいは
不幸を恐れて迷うところから生ずる

全てを弥陀にまかせてしまって、宿縁にまかせ、ひたすら念仏申さるように生きる限りは、踏む道は一如
祈りも迷いも無いから、天地地祇も、魔界も無い。これが無碍の一道

■もちろん必ず幸福と善の道が歩けるというのではない。不幸と悪の道かもしれない
その道は善・悪、幸・不幸を超えた弥陀のはからいの一道
これが無碍の一道
これが絶対一道
これが善悪よりも高次道
無碍の一道は善悪を見ていては得られない。ただひとすじに念仏を申す時にのみ得られる。結果、善を追究していたという不思議が蔵されてる

■念仏申さるように生きる道を知らないものは、善悪に会うたびに恐れおののきながら生きる。出来事に
反応・動揺しなくてはならないのだ

515事件は、その恐ろしい非合法な暗殺計画と、一方の純真な愛国精神と犠牲精神の善悪にふらふらになるが、念仏生活者は驚かない。そういうことはあるべきことだと生きている。弥陀の計らいでなるようになる

念仏申せるなら、左翼になるも右翼になるもいい。念仏申されないなら左翼になるも右翼になるも共に不徹底だ

■念仏は申すのではない。申さるるのである。もよおされて申すのである。この我れを失って受身になる所に重要な秘密がある
小さな自我が出しゃばらず、大我が我れを通して運行する。自分が行ずるのではない。法が行ずる。大我が自然と我が身の行いとして顕現する

仏のはからいに、はかられて、念仏申し、念仏申さるるように行う。だからそれは自分の行いに非ず
もよおされて行う結果が、念仏申さるるように生きる結果が、善だったに過ぎない。だからそれは自分の善に非ず。慢心の種にもならない

■自分が行わずに、仏にもよおされて行わしめるということは、日常のどんな些細な行為もそうなので、日常生活の隅から隅まで充実して、力がこもっているのである。念仏者の些細な行為は全宇宙の力で行われているのである。与楽の利益を感じる


「親鸞は弟子一人も無し」の思いと、自力浄土真宗内の争いの矛盾

2022-04-01 13:22:56 | 日記
■、、親鸞は弟子一人も無し
なぜなら、自分のはからいにて、人に念仏を申させるなら、自分の弟子といえよう。けれどただ弥陀の御もよおしにあずかって念仏申している者を、わが弟子であるというのは、実に理由のない図々しい事だ

師も弟子もつくべき縁があれば一緒にいて道を聴く。離れるべき縁があれば、離れていくのが自然の成り行きであるのに「師に背いて外の人と一緒になって念仏すれば往生できない」というのは理由のない事だ

如来に賜った信心を、我が興したような顔をして取り返そうとでもいうのであろうか
こんな事はあってはならない。何事も自然の理、すなわち如来のはからいに随順していれば、自ずと仏恩をも知り、師の恩も知ってくるのである

■常陸の信楽坊は、信徒を奪って、親鸞から背き去った。親鸞は信楽坊を信頼して仏像、聖教などを与え
聖教には親鸞の署名もした
門弟たちは仏像や聖教を取り返すようにすすめた

親鸞は上のように、自分の弟子だと思ってはならない理由を話してから言った
「この頃は意見が分かれて離れ去ると、与えた本尊や聖教はおろか、信心までも取り返そうとするが、つくも離れるも因縁あってのことだ。我が名のついた聖教が野山に破り捨てられても、鳥か獣が聖教にふれて仏縁を結ぶだろう」


しこりを残した浄土真宗本願寺派と高田派の争い=北陸の戦国興亡史

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