■夢に「六は一つ」的な夢を見た
六字名号は南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏とは、この世に生きる人間に通じるための仮の言葉であり、仮の意味を持たせている
これは方便ですね
では南無阿弥陀仏の本質は、、
仏の本当は何だろう?
どの宗教にも通じることは
「信じる」ということ
何を信じるかは別々だが
共通するのは「信じることで【何らか】を与えられる」ということ
その何らかとは、、、
信じない生活から、信じて生活するに変えたとしても早急に解るものではなかった。時機がきたらじんわりと身に染みてくるように解る
ルルは心から信じきることは難しかったし、一旦信じても継続も難しかった
焦らず時機が熟すのを待つしかない
だから、「やはり信じる思いさえも何らかのギフトなんだ」とじんわり身に染みてくる
■生物は五官に触れるものは区別して意味付けして生きる。「敵か味方か、食べれるか否か」人間から微生物まで共通する「区別と意味付け」
人はその区別と意味付けが、他の生物とは違って生き残るためだけではない
人々はみな性格・性分という【内面受容体】みたいなのは人それぞれ違う
物事の受け止め方が違うのだ
だから人間関係が難しくなる
この世の問題で多いのは
★人間関係
★病気
★金銭問題
★老いや事故などで体が不自由になってから死ぬまでの心の折り合い問題
★内面の不自由感
など
すべて内面受容体の受け止め方を変えれば解決する
■人は動物本能的な欲と、そこに根ざした煩悩と、動物には無いヒト特有の承認欲求や自己顕示欲などを持ち複雑な生物である
浄土真宗の教えによればそれらは全て業報。1つにまとまりスッキリ解りやすい
その1つにまとめた業は、内面受容体に吸収されルルと認識している仮の自我が今生きている
業は刻々と生れ滅するか固まる
固まりは固定観念という業を強める
しかしそれは仮に和合したやつ
光を当てれば何らかに成るか、消滅するようなやつ
しょせん業は光に弱い
だから、私は無い
今日も1日仮のルルという身を借りて、業と光が奏でる
内面受容体は元々備わる
内面受容体を変えれば仏も引き寄せる。変えなくても慈悲の雨に当たっているが、内面受容体を通すと何らかの変化はある。気づきとか、、
ルルは信仰によってこの内面受容体を少しずつ変えている感じ
焦らない、のんびりいこう