るるの日記

なんでも書きます

だって何だか、、だってだってなんだもん

2022-04-02 14:07:01 | 日記
昨日はなぜか「キューティーハニー」の主題歌を口ずさんでいた。「この頃はやりの女のこぉ🎶お尻のちっちゃな女のこぉ🎶こっちを向いてよハニー、だって何だかだってだって何だもん🎶」と、突拍子もなく歌っていた。そして動画で見たくなり倖田來未の動画を見た
「ハートがチュクチュクしたり
お目目がシクシクしたり
歌詞がかわいい」

セクシーで魅惑的でワクワクした
自分もこんなふうに披露して
注目されたいもんだ、、と
素直に思った
何なんだろう?業?

弥陀の誓願は善悪を超える
愛欲、色香、魔性、の女身でも
救われるし
その女身に仏の他力が生き渡っていたならば、仏の遣いとして人を救うことになるのだろう
「仏は人を遣わす」のだから
仏は自我のちょっかいの少ない人身をさがしている。仏のはからいで動く自我のちょっかいの少ない人身を。仏の絶対合格のはかりごとは
人智でははかり知れない

女の悪業は、自我が薄まるにつれ如来業に染まるんだな










ルルの昨日の日記「一念の先の二念以上の思いはクソだ!」

2022-04-02 13:15:14 | 日記
昨日の日記です


「気づきを与えられた」という自覚は、快楽法楽を味わえる
気づきとは一念
その先の二念以上の思い「気づきの意味や、それをどう生かそうか」という思いはクソだ!!
ということも気づき、クソな思いは整理された
気づきの自覚って一大事快感でーす

一念の気づきに連続するクソな思いは、クソな思いと気づかなければ、せっかくの気づきが、クソな思いにうずもれ忘れ去るか、連続するクソ思いに飽き飽きし、疲れ、しまいに気づきだと感じたことを後悔し、気づきは煩悩に侵される

一念に連続する二念、三念のクソ思いではなく
新しい一念、新しい一念の連続はハッピーの連続を得たい
そのためには物事を区切ること

行い(出来事)スタート→経過
終了→反省→気づき
反省の後に気づき来たんかな?
わからんけど

しかし反省と後悔って全く違うな
反省は理性で自己をかえりみる
後悔は感情で後ろを悔やむ
後悔は煩悩なんだろう



なかなか純粋な他力にはなれないが、気づきを与えられるカイカンに気づけました【法悦】

2022-04-02 12:47:34 | 日記
🔶業報次第ではどんな思いがけない事に出会うか知れない。もしかしたら念仏を称えられなくなる状態になるかもしれないが、一旦弥陀の本願をたのんだ以上はすみやかに救われる。「念仏を称えるごとに罪を消して往生しようと願う」自力ではないのだから

自力念仏は念仏とおいかけっこしている。ちょっと油断すると罪業がたまり「たくさん念仏を称えなくちゃ」という義務感となり、借金返済に奔走するような慌ただしさとなる
借金は業報にまかせて重荷を降ろして、他は一切他力におまかせしましょう

🔶ルルは業報とは業の報いなんで、仏は止めないと思っている。全ての思いは業報なのよね。思いにそくして行いがある

精神状態が落ちる業報、浮かれる業報、普通の業報、無意識な業報、すべてが業報
と、同時に弥陀の他力本願不思議が効いている
これは念仏しなくても効いてるけど、念仏したら気づくようになる
昨日気づいたことは「気づくってカイカン」ということ。または「喜び」これが法悦かしら?

ルルの場合は念仏をすると、まず「どーしよーもない、仕形がない」と、あきらめ手放す感覚になれる。するとサッパリしたリセット感が来てゼロからスタート気分になる。

もしくは、発想がわいてくる
業報問題の答えのようなかんじで

これらが弥陀の誓願不思議なんだろうな~と思うと、楽しくなり、楽しい気分がまた新たな気づきが次々とわく。今もそう

だけどね、、まだまだ自力念仏
なんですよね、、、



これが自由の極致「善悪は業報にまかせ、その他一切は仏にまかせ、私は無くなる」

2022-04-02 11:44:39 | 日記
■弥陀の本願不思議を信じても
自分の悪を恐れているとき
自分の悪を恐れるその心は
弥陀の本願不思議を疑う善悪の宿業

ウサギの毛のさきにある塵ほどの罪も宿業なのである
よき心が起こるのは宿善のもよおすゆえなり、悪事を思うのは悪業の、はからうゆえなり

■もしも
大智慧大慈悲の仏の願いで
「人を千人殺せば往生させる」と申せられたらあなたはどうしますか?誰もが人を一人も殺せないでしょう

それは「心が善いから殺さない」という理由ではない。自分の悪を恐れ、殺すべき業縁が無いからです
それほど心思う通りには出来ない
拘束されている
しかし全てを弥陀にまかせきった心なら殺すでしょう
また人を殺さないと思っていても、業縁有れば百人千人と殺すこともあります

これは人というのは「心の善きを、善しと喜び信頼し、心の悪しきを、悪しきと嫌い、弥陀の本願不思議にて助け賜う、ということを知らない心」を表現しています
また悪人正機の極端な表現か?
目の前に仏が用意された薬があれば、毒は飲まないように!
(わざと自分のはからいで悪を行わないように)

善きことも、悪しきことも、業報にまかせて、ひとえに弥陀の本願不思議をたのみ参らすればこそ、他力をたのむ信心決定す

■親鸞はこの一線(道徳と信仰の葛藤)を、死線を越えた。親鸞は罪悪感の深刻な人。この一線のこちら側にとどまっていることは死を意味した
親鸞は罪悪感に沈没してしまう以外に逃れる道はなかった。沈没しきって死線を越えた所に、弥陀の本願不思議と出会った
弥陀の本願不思議を信じた
どんな自分の悪も恐くなくなった
なぜならどんな小さな悪でも恐ろしければこそ救済を求め、救済されてきたからだ

■「善かろうとも思わず、悪かろうとも思わず、善し悪しは業報にまかせ、ただ一すじに本願他力を頼む」善悪の荷のかかる余地がなく
自由に本願の海を泳げる
これが自由の極致
身軽はありがたい