遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

『極北の全共闘』の出版経過

2025-01-16 20:56:44 | お知らせ
    

 2021年に民青系が『北大1969』という本を出しました。それを知った、かつての仲間たちがこのままでは北大の全共闘運動がなかったものにされてしまうという声があがりました。
 それが2年ほど前のことです。それから資金集め、寄稿の要請をおこない1年半かけてこの本が完成しました。月2回ZOOMで札幌、青森、千葉、東京、名古屋、大阪に住んでいる編集委員でミーティングをしました。それをふまえて、手分けして原稿、北大闘争の年表、裁判記録の整理を行いました。原稿を書けないけど、発言したいという人には聞き書きも行いました。

「この本は東大・日大闘争を受けて、1969年4月の入学式から始まった北大闘争を中心とした記録集である。入学式前夜は入学式会場となる体育館をめぐって緊張状態にあった。入学式の最中に乱入し演壇占拠を目指す三派系、会場を防衛しようとする民青系である。この時、ベトナム戦争反対でクラス討論を積み重ねてきたクラス反戦連合(後の教養部闘争委員会)が別の方針を出した。いっそうの事、入学式が始まる前、早朝に体育館を占拠・封鎖してしまえばいいと。この方針が功を奏し、入学式は中止となり、学長は会場を封鎖した学生を「ナチスの御用学生」と非難する告示を出し、火に油を注ぐことになった。
 北大はノンセクトの教養部闘争委員会、三派系、革マル系、民青系が入り乱れ、大学本部の封鎖、封鎖解除をめぐる内ゲバ等で、騒然とした状態が11月まで続くことになる。大学立法を根拠に北大当局は11月8日警察機動隊に封鎖解除を要請する。大学本部に立てこもった学生は昼過ぎまで徹底的に抵抗した。
 この本には、これらの闘争を担った学生たちの手記が生々しく掲載されている。後の裁判闘争までも含む北大闘争年表は資料的価値が高い。特質すべきは、数十枚の写真である。これらの写真は、この本の編集委員となったひとりの学生が警察の弾圧にも屈せずに撮影し、自ら現像・焼付けしたものである。
『極北の全共闘』と名づけられたこの本は、北海道の他の大学の学生、高校生からの寄稿もある。「ぜんきょうとう」という言葉が、歴史にされようとしている今こそ読まれるべき本である。」(以上はAmazonで却下されたレビューです)

 この本を前にして思うことは、1969年11月8日の機動隊導入に対して、本部に籠城した5人と、他のメンバーの温度差でした。1人は未成年だったので意外と軽い処分だったのですが、他の4人の場合、求刑は懲役5年から4年でしたが、結局、4人とも懲役3年で1年10カ月くらいで保釈になりました。その後、復学の可能性もあったのですが、4人は自主的に退学しました。当然かもしれませんが、彼らはまともな企業に就職はできず生活に苦労したと思います。
 原稿を要請した人の中には、本部籠城組に合わせる顔がないと言って断った人もいました。全共闘運動に関わった者の中には、大学に就職したり、大企業に入った者もいました。一人の女性の寄稿者の「最後まで、全共闘の一員でありたいと願います」という文章が読んだ人の共感をよびました。私も三派全学連、北大全共闘の一員であったことを誇りに思っています。
                            2025年1月16日

『極北の全共闘』が出版されました。

2024-09-29 23:35:21 | お知らせ



「全共闘」運動から55年。「ぜんきょうとう」は当時の若者たちがさまざまな思いを込めた共通の「言葉」だった――。 一般には「北大紛争」として知られる「北大全共闘」の闘いの軌跡を、当事者みずからが記録した書。 当時北大本部に立てこもった5名をはじめ30名から寄せられた手記には、それぞれの経験や想いと「その後の歩み」が語られ、まさしく「喪失と転換」から「再生と継承」への物語となっており、若者たちへのメッセージともなっている。 さらに、1970年に出版された写真集『北緯43度荒野に火柱が』から80枚を再録し、新たに見つかった当時のネガから30枚を収録。年表も再整理するなど、歴史的な評価にも耐え得る一冊となっている。

 約一年半かけて、原稿の依頼、執筆、整理を行い、この夏にようやく完成しました。
 編集委員十数名、執筆者三十人ほどになります。東大、日大闘争の記録は出版されていますが、北大を中心とした北海道の全共闘運動を記録した貴重な本、記録集です。多くの読者の手に渡ることを期待します。

 お求めはアマゾン、または出版元(株)クルーズへ TEL 011-242-8088  FAX 011-242-8188

城山三郎『辛酸』を読んで

2024-09-29 23:05:20 | 読んだ本
                    城山三郎『辛酸』         松山愼介

 田中正造については、教科書的な知識を持ってはいたが、詳しいことは知らなかった。天皇に直訴する時に、躓いて近くまで行けなかったこと、またそのために警備の騎馬警官が方向を変えようとして落馬したことも初めて知った。
 この本に関連して、以前から気になっていた立松和平『毒 風聞田中正造』も読んだ。立松和平の曽祖父は「兵庫県の生野銀山から足尾銅山に渡り坑夫として移住し、足尾の鉱山開発の先頭にたっていた」(『毒』「後記」)という。母方の祖父も一時、足尾銅山の飯場を経営していた。足尾には叔父がいたので、立松は子どもの頃から鉱山の風景に馴染んでいたという。二十四歳の時に、足尾銅山の閉山や、最後まで谷中村に残留しやむなく北海道のサロマに開拓移民していた人たちの子孫の帰郷運動などがあり、立松は「谷中村強制破壊を考える会」を作ることになる。『鉱毒悲歌』というドキュメンタリー映画にもかかわり、その過程で嶋田宗三郎翁に出会い、『田中正造翁余録』も知ることになり、『毒』の執筆資料としても使っている。現在(一九九七年)でもほぼ東京山手線の内側ほどの谷中村跡地が渡良瀬遊水池と呼ばれ荒涼たる原野になって広がっているということだ。
この谷中村の闘いで最後まで残ったのは、堤内十六戸、百十六名ということだ。これだけ悲惨な状況のなかで、これだけの人数が残ったのは田中正造と嶋田宗三郎の力によるのだろう。
 私はこの本を読んで、成田空港建設のための立ち退きに反対した三里塚闘争をおもわざるを得なかった。私が参加したのは、わりと初期で一回だけである。さんざん機動隊に殴られて泥まみれになり、その夜は三里塚の農家に泊めてもらって、食事と名産の落花生をご馳走になった。
 映画『三里塚のイカロス』(代島治彦監督 二〇一七年)によれば、撮影時点で立ち退きに応ぜず農業を続けている人達もいた。女性活動家で青年行動隊員と結婚した人もいるし、十年以上にわたって三里塚の団結小屋に住み続けた活動家も多くいたようだ。田中正造はもちろんだが、これらの活動家にも頭が下がる思いである。
 三里塚闘争は一九六六年ごろから始まった。ベトナム戦争の真っ最中だった。そのため私の所属していたセクトでは、三里塚闘争の位置づけは、空港はいつでも軍事転用できるのだからということで「三里塚軍事空港建設反対」だった。私はこれは安易な位置づけだと思ったが他にいい考えも思いうかばなかった。整然としたデモしかしない党は、実力闘争が不可避だとわかると姿を消した。小ブルジョワの財産(土地)を守る闘いには参加しないと明言する「新左翼」党派もいた。後に知ったのだが、国家権力の横暴に反対する農民の意気に感じて共に闘うという党派の考えに共感した。
 三里塚でも、谷中村でも国家が良い代替地を用意するから立ち退きに応じるように説得にくるのだが、結局、ろくな土地は用意されなかったようだ。足尾銅山の鉱毒は現在でも残っているようである。NHKの朝ドラ『虎と翼』によると、公害裁判は被害者が因果関係を立証しなければならないそうだ。水俣病もチッソの水銀垂れ流しが原因だと確定するのに随分時間がかかっている。寝る場所も食べるものも保証されない中で反対運動を死ぬまで続けたことは誰にもできることではない。

                      2024年9月14日

丸谷才一『笹まくら』を読んで

2024-09-29 23:01:29 | 読んだ本
         丸谷才一『笹まくら』                     松山愼介
 この作品は徴兵忌避がテーマである。徴兵忌避をテーマにするならば、それにどのくらいリアリティーがあるかが問題である。私はあまりリアリティーを感じなかった。記憶が曖昧だが随分と昔、山口百恵と三浦友和の映画で、徴兵忌避をするために足を切断するという場面があった。そういうことなら、ありうる話だと思った。ただ、徴兵忌避をして、山の中で隠れて暮らすというのなら小説にならないが。
 杉浦健次のように、地方都市で時計やラジオの修理、さらに砂絵屋で身分を隠しながら生活していけるかどうか疑問である。戦前は米穀通帳の管理なども厳しかったと聞いている。配給ももらえたのだろうか。隣組もあったし、いくら砂絵屋が香具師とはいえ少し設定に無理があるように感じた。ただ、炭鉱の口入屋、下関の刑事との対話は迫力があったが、刑事が監視しているのがわかっているのに、そんな場所を通ろうとするだろうか。
 ストーリーも、逃げる途中で隠岐の島で、宇和島の質屋の娘、阿貴子と知り合って、一緒に暮らすようになるというのも、話がうますぎる。「ケンちゃん」と呼んでも振り向かなかったというセリフにはリアリティーがあった。その阿貴子も死んでしまうのだが。
 陽子との結婚生活も、出来過ぎの設定だと思ったが、陽子が警察に捕まることによって破綻寸前になる。「手癖の悪い娘と徴兵忌避者とを夫婦にしよう」ということだったらしいと、浜田は気づく。
 徴兵忌避の逃亡生活と、二十年後の私立大学職員としての生活が混ざって話はすすんでいく。三章の終わりが、五章に続くのは面白いが、いまいち意味がわからない。
 作品のなかに面白い言葉があった。「頼信紙」、「羅宇屋」など。「まだ埋めていない防空壕」、防空壕を作る(掘る)話はよくあったが、埋めるという話は初めてだった。木炭バスなども出てくるが、このエンジンの仕組みを知りたいものだ。
 堺の「結局、国家というものがあるから、いけないんだな」とか、浜田の「おれは二十年前この国全部を相手にして逃げまわった徴兵忌避者じゃないか」という、現在時における、作者の戦争観、国家観を読むべきなのかも知れない。ただ、作者は浜田の徴兵忌避を、誇るべきものとしてではなく、引け目を感じるものとして、えがいているのは気になった。戦死者や、傷病者に対する気持ちはわかるのだが。
 パリオリンピックの最中で、開会式のコンシェルジュリーでのマリーアントワネットの生首には驚いた。フランスといえば、フランス革命の革命的伝統と言われるが、最近見たNHKの『ザ・プロファイラー 言行不一致ナポレオン』では、フランス人(?)のコメンテーターが、「フランス革命は暗黒時代だった」と言い切った。また、この番組によれば自分も、ギロチンにかけられるのだが、ジャコバン派のロベスピエールは、五十万人を逮捕し一万二千人を処刑したという。ナポレオンもよく考えれば、戦争ばかりして皇帝の座を追われた男である。
 日本の戦争について少し思うところがある。最初は明治維新だろうが、いつの間にか軍部というものが力をつけてきて、国民を戦争へと追いやる体制を造ったのは、逆に見事であると言えなくもない。天皇機関説事件をきっかけに、統帥権を拡大解釈して、軍部(陸軍)独裁体制を確立していく。天皇の神格化、国民総動員という戦争体制を造り、抵抗するものは容赦なく獄に放り込んだ。確かに一般の国民はその流れに抵抗できなかった。徴兵忌避はこの軍部独裁に対する、消極的ではあるが、立派な抵抗運動である。しかし、作者の、浜田庄吉の造形を読んでいると、現在時において、抵抗運動とは考えず、何か後ろめたい行動であったように捉えているようなのは残念である。
 履歴書に兵役、徴兵忌避と書くのだが、この時代、そういうことを書いたのかどうか疑問に残った。ともあれ、徴兵忌避を題材にここまで話を展開した筆力は評価せざるを得ない。

 作中に徴兵検査の結果として、第三乙とか甲種合格という言葉が出てくるが、中野重治の『甲乙丙丁』という題名はここからきているのかも知れない。高等学校などの成績表にも使われていたが。
                             2024年8月10日

森村誠一『新版 悪魔の飽食』を読んで

2024-09-29 22:50:23 | 読んだ本
          森村誠一『新版 悪魔の飽食』          松山愼介
『悪魔の飽食』は出版された時に読んでいる。それなりに衝撃的な内容だった。しばらくして、続編が出版され、そこに載った写真が七三一部隊と関係ない写真であると報道されたので、その時は続編以降を読んでいない。
 第一部は、満洲・平房での、七三一部隊の実態、人体実験の内容が、第二部(続編)は戦後における七三一部隊の動向、同時期にアメリカで七三一部隊の資料を発見したジョン・パウエルについて、第三部は森村と、秘書役の下里正樹による、中国・平房での現地調査のルポとなっている。第二部での写真誤用問題で、光文社がこの本の出版から手を引き、森村誠一の『人間の証明』や『野生の証明』を出版していた角川書店が後を引き継いだ。
 森村はこれ以後も『〈悪魔の飽食〉ノート』、『ノーモア〈悪魔の飽食〉』を晩聲社から出版している。『悪魔の飽食』がなぜ書かれたのか、なぜ写真誤用問題が起こったのかとか、森村と下里正樹の関係などや、『悪魔の飽食』の反響と、森村に対するインタビュー、井上ひさしらとの対談も含まれている。
『悪魔の飽食』のような内容をノンフィクションとして出版する場合は、書き手に慎重な姿勢が要求される。内容は、元七三一部隊の隊員からの聞き取りが主になっている。取材した人間はその人物の話し方や態度から、発言内容の真偽はある程度判別できると思われるが、読者は書かれた文章がすべてである。今回、読み直してみて少し森村の行き過ぎを感じた。七三一部隊の人体実験の内容や、そこでおこなわれた残虐行為を知らしめたいという熱意は伝わってくるが、森村の推測も混じっている。どこまでが聞き取りによる事実で、どこからが森村の推測かを明確にした書き方をしていない。
 第二部では細菌兵器について書かれている。朝鮮戦争でアメリカが細菌兵器を中国軍に対して使用したとする中国の抗議声明に触れている。ここでこの細菌兵器は、アメリカが七三一部隊の資料に基づいて造ったのではないかとしている。日本軍の風船爆弾についても書かれている。風船爆弾は耳にしていたが、アメリカ本土についたものもあり、その中身は細菌兵器だったとしているが、いずれも森村の推測である。
 森村の秘書とされる下里正樹は、「赤旗」の記者で松本清張も担当していた。この『悪魔の飽食』でも、渡米してジョン・パウエルを通じてのアメリカでの七三一部隊に関する資料の調査や、誤用された写真の受け取りにAさん宅に出向いている。一部では、『悪魔の飽食』は森村と下里の共著ではないかといわれているが、森村は、これを明確に否定し、下里は協力者ではあるが共著者ではなく、作者は森村であるとしている。
 森村のエッセイを読んでいると、『悪魔の飽食』を書いたのは、二度と戦争をおこしてはならない、現行憲法第九条の擁護という考えからのようである。この時期、中野孝次らによる「反核署名運動」が行われていた。その影響も受けていたようである。この中野孝次の「反核運動」に対しては、吉本隆明が『反核異論』を書いている。
 下里正樹は、「赤旗」に特高警察について執筆し、戦前の共産党幹部・市川正一が、特高に屈服し供述に応じたというところで、共産党からストップがかり、長期間、査問されたうえ除名されている。森村も下里の共産党除名に抗議し、共産党と絶縁した。一九九四年のことである。
『悪魔の飽食』という題名は、七三一部隊の人体実験に参加した隊員や、科学者・研究者が悪魔で、人体実験のことを「飽食」といっているのだと思うが、七三一部隊では、内地では考えられないようなビフテキ等のごちそうが振るまわれたという個所もあるので、単に七三一部隊では豪華な食事をしていたというように誤解される恐れもあるように思う。

 帝銀事件は七三一部隊の人間が関与している疑いが濃いが、『暗殺』で話題になっている柴田哲孝によると、下山事件も七三一の部隊の人間が関与しているらしい。真偽は不明だが、下山国鉄総裁は血を抜かれて殺されたともいわれている。七三一部隊でも、どれだけ血を抜けば人間が死ぬのかを実験していたという。

                2024年7月13日