井上光晴『明日―一九四五年八月八日・長崎』 松山愼介
吉本隆明とほぼ同じ年生まれのの井上光晴は皇国少年だったが、戦後、獄中共産党幹部が出獄にあたり「天皇制打倒」を掲げたことに感じ入り、共産党員となるが、これは正式に入党したのではなく、自分で名のっただけである。共産党五〇年分裂で「国際派」に属していたため「所感派」から除名される。五五年六全協で復党の打診を受けるが拒否している。
井上光晴は『書かれざる一章』などの共産党批判をテーマとした作品を発表後は、朝鮮人、炭鉱夫、被爆者、民差別を批判する立場にたった作品を発表することになる。その方法は、自己を朝鮮人、炭鉱夫等の立場に置くことである。この立場が行き過ぎて、旅順で生まれ、炭鉱夫をしていたという自分史の虚構化となる。これは井上光晴の死後、川西政明の調査、妹田鶴子の証言等で久留米市生まれで、炭鉱夫の経験もないということが立証された。井上光晴の自己規定は「革命家」である。共産党離党後は文学による革命を目指し「新日本文学」で活躍するが、「新日本文学」が一九六八年のソ連軍のチェコ侵略を批判しなかったことに抗議して、一九六九年三月に退会し『辺境』という雑誌を創刊する。
『虚構のクレーン』で「玉音放送」を聞いた後、仲代庫夫は抗底へ向う人車の上で「助かったぞぉ、万歳」「戦争は終った、終った、終ったぞぉ」と力の限り叫ぶことになる。さらに、〈九月三十日 日曜〉には《原子爆弾を受けた人がばたばたと死んでいる。芹沢治子のことはもう考えない。考えられない。長崎のことは忘れることにする》と書きつける。その後「天皇制打倒」という考え方があるのかと、仲代は目覚めていくのだが、この敗戦時の「助かったぞ」という叫び、「長崎のことは忘れることにする」という文章は、当時の井上青年の本音を何ほどか反映していると思われる。井上光晴は長崎に原爆が投下された時、崎戸にいた。
『虚構のクレーン』のこの仲代庫夫の叫びを知ってしまうと『明日』で書かれた原爆投下前日の長崎の風景も、井上光晴の被害者への同情ではないかと考えてしまう。作家の資質として重要なことだろうが、「嘘つきみっちゃん」と呼ばれた井上光晴は、他者の立場に立つということが、自然にできたのではないだろうか。この作品でも、八月八日の長崎の人々と一体化している。この一体化と、被爆者への同情は紙一重の違いである。徴兵検査時に肺浸潤だったため、召集を免れた中川庄治と三浦ヤエとの結婚式、三浦ヤエの姉ツルの出産をメインとするストーリーは良く出来ているが作り物の感じがする。
この『明日』を黒木和雄が映画化している。黒木和雄は『祭の準備』『竜馬暗殺』などのATG作品で有名になった映画監督である。彼に戦争三部作がある。『明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮らせば』である。それに、死後公開された『紙屋悦子の青春』もある。この中では黒木和雄の自伝的要素を取り入れた『美しい夏キリシマ』が一番、秀作だと思われる。この作品では日向灘に米軍が上陸してくると想定している。男性は出征しているので、女性だけを集めての竹ヤリ訓練のシーンがあるが、少年が少女に機関銃の米軍に竹ヤリで対抗できるわけがないと言うと、少女は日本には神風が吹くと答える。それは日本が天皇を頂く「神の国」だからである。少年は敗戦後、キリシマにやってきた米軍部隊にたった一人で竹ヤリで立ち向かうが、米軍兵士に素手で取り押さえられ、投げ出されてしまう。しかし、こりずに再度、竹ヤリで立ち向おうとするが、米軍兵士の上空への威嚇射撃一発で腰を抜かしてしまう。日本人は抵抗するなという「玉音放送」に素直に従った。せめて何件かのゲリラ的抵抗をすることができたら、戦後日本も別の形を取ったであろう。戦後日本は現行憲法と交換に沖縄を米軍に譲り、「象徴」という形で天皇制を存続させ、サンフランシスコ講和条約とともに調印された日米安保条約で、日本への米軍の駐留を認めた。沖縄には一時、一千発以上の核兵器が置かれていた。現在でも、米軍人の日本への出入りはフリーパスである。法的には日米安保は憲法に優先する。今、必要とされているのは護憲運動ではなく、日米安保条約廃棄の運動であろう。そうすれば、わざわざ辺野古に新しい米軍基地も造る必要もない。
北村耕は井上光晴の『地の群れ』にふれて《原爆という「過去」ならざる過去によって、日本社会の未来を撃ち、同時にその未来像のすさまじさによって、戦後社会を撃つ方法を、重層的に交錯させたのである》と評価している。しかし、原爆体験が徐々に風化していく時代にあって、この『明日』という作品が、いつまで原爆という問題に抗しうるかは疑問である。
2015年8月8日
井上光晴は戦後の共産党を内部から批判し、それを小説として発表した。スターリン批判前で、一定の影響を与えたが、共産党の六全協で内部対立が解消される方向に向かい、時間の経過と共に井上光晴の『書かれざる一章』などの衝撃は薄れていかざるを得なかった。そのため井上光晴は朝鮮人炭鉱労働者、の人々の立場にたった作品を発表し、そのリアリティを確保するために、旅順生まれ、の血をひいているという架空の経歴を作り上げた。
このようなかで長崎の原爆に注目し『地の群れ』などの作品を発表した。『明日』は昭和57年(1982)の作品である。原爆の惨禍も忘れられた時代に、原爆については全くふれずに、原爆投下前日の長崎の人々の生活を、結婚式、出産を中心にえがきだした。この方法は、原爆の記憶が薄れ、原発の再稼働が議論されている現在、注目されるべきであろう。
2015年9月7日
吉本隆明とほぼ同じ年生まれのの井上光晴は皇国少年だったが、戦後、獄中共産党幹部が出獄にあたり「天皇制打倒」を掲げたことに感じ入り、共産党員となるが、これは正式に入党したのではなく、自分で名のっただけである。共産党五〇年分裂で「国際派」に属していたため「所感派」から除名される。五五年六全協で復党の打診を受けるが拒否している。
井上光晴は『書かれざる一章』などの共産党批判をテーマとした作品を発表後は、朝鮮人、炭鉱夫、被爆者、民差別を批判する立場にたった作品を発表することになる。その方法は、自己を朝鮮人、炭鉱夫等の立場に置くことである。この立場が行き過ぎて、旅順で生まれ、炭鉱夫をしていたという自分史の虚構化となる。これは井上光晴の死後、川西政明の調査、妹田鶴子の証言等で久留米市生まれで、炭鉱夫の経験もないということが立証された。井上光晴の自己規定は「革命家」である。共産党離党後は文学による革命を目指し「新日本文学」で活躍するが、「新日本文学」が一九六八年のソ連軍のチェコ侵略を批判しなかったことに抗議して、一九六九年三月に退会し『辺境』という雑誌を創刊する。
『虚構のクレーン』で「玉音放送」を聞いた後、仲代庫夫は抗底へ向う人車の上で「助かったぞぉ、万歳」「戦争は終った、終った、終ったぞぉ」と力の限り叫ぶことになる。さらに、〈九月三十日 日曜〉には《原子爆弾を受けた人がばたばたと死んでいる。芹沢治子のことはもう考えない。考えられない。長崎のことは忘れることにする》と書きつける。その後「天皇制打倒」という考え方があるのかと、仲代は目覚めていくのだが、この敗戦時の「助かったぞ」という叫び、「長崎のことは忘れることにする」という文章は、当時の井上青年の本音を何ほどか反映していると思われる。井上光晴は長崎に原爆が投下された時、崎戸にいた。
『虚構のクレーン』のこの仲代庫夫の叫びを知ってしまうと『明日』で書かれた原爆投下前日の長崎の風景も、井上光晴の被害者への同情ではないかと考えてしまう。作家の資質として重要なことだろうが、「嘘つきみっちゃん」と呼ばれた井上光晴は、他者の立場に立つということが、自然にできたのではないだろうか。この作品でも、八月八日の長崎の人々と一体化している。この一体化と、被爆者への同情は紙一重の違いである。徴兵検査時に肺浸潤だったため、召集を免れた中川庄治と三浦ヤエとの結婚式、三浦ヤエの姉ツルの出産をメインとするストーリーは良く出来ているが作り物の感じがする。
この『明日』を黒木和雄が映画化している。黒木和雄は『祭の準備』『竜馬暗殺』などのATG作品で有名になった映画監督である。彼に戦争三部作がある。『明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮らせば』である。それに、死後公開された『紙屋悦子の青春』もある。この中では黒木和雄の自伝的要素を取り入れた『美しい夏キリシマ』が一番、秀作だと思われる。この作品では日向灘に米軍が上陸してくると想定している。男性は出征しているので、女性だけを集めての竹ヤリ訓練のシーンがあるが、少年が少女に機関銃の米軍に竹ヤリで対抗できるわけがないと言うと、少女は日本には神風が吹くと答える。それは日本が天皇を頂く「神の国」だからである。少年は敗戦後、キリシマにやってきた米軍部隊にたった一人で竹ヤリで立ち向かうが、米軍兵士に素手で取り押さえられ、投げ出されてしまう。しかし、こりずに再度、竹ヤリで立ち向おうとするが、米軍兵士の上空への威嚇射撃一発で腰を抜かしてしまう。日本人は抵抗するなという「玉音放送」に素直に従った。せめて何件かのゲリラ的抵抗をすることができたら、戦後日本も別の形を取ったであろう。戦後日本は現行憲法と交換に沖縄を米軍に譲り、「象徴」という形で天皇制を存続させ、サンフランシスコ講和条約とともに調印された日米安保条約で、日本への米軍の駐留を認めた。沖縄には一時、一千発以上の核兵器が置かれていた。現在でも、米軍人の日本への出入りはフリーパスである。法的には日米安保は憲法に優先する。今、必要とされているのは護憲運動ではなく、日米安保条約廃棄の運動であろう。そうすれば、わざわざ辺野古に新しい米軍基地も造る必要もない。
北村耕は井上光晴の『地の群れ』にふれて《原爆という「過去」ならざる過去によって、日本社会の未来を撃ち、同時にその未来像のすさまじさによって、戦後社会を撃つ方法を、重層的に交錯させたのである》と評価している。しかし、原爆体験が徐々に風化していく時代にあって、この『明日』という作品が、いつまで原爆という問題に抗しうるかは疑問である。
2015年8月8日
井上光晴は戦後の共産党を内部から批判し、それを小説として発表した。スターリン批判前で、一定の影響を与えたが、共産党の六全協で内部対立が解消される方向に向かい、時間の経過と共に井上光晴の『書かれざる一章』などの衝撃は薄れていかざるを得なかった。そのため井上光晴は朝鮮人炭鉱労働者、の人々の立場にたった作品を発表し、そのリアリティを確保するために、旅順生まれ、の血をひいているという架空の経歴を作り上げた。
このようなかで長崎の原爆に注目し『地の群れ』などの作品を発表した。『明日』は昭和57年(1982)の作品である。原爆の惨禍も忘れられた時代に、原爆については全くふれずに、原爆投下前日の長崎の人々の生活を、結婚式、出産を中心にえがきだした。この方法は、原爆の記憶が薄れ、原発の再稼働が議論されている現在、注目されるべきであろう。
2015年9月7日