
遠藤周作『わたしが・棄てた・女』
松山愼介
映画『私が棄てた女』(監督 浦山桐郎)は見ている。一九六九年の作なので、学生時代であるので、おそらく映画館で見たのであろう。原作もその後、読んだような気がするが覚えていない。映画ではハンセン病については全く触れられていない。学生時代で、女性の友達もいなかったので、この映画に出てくる森田ミツのような、男のいいなりになってくれる女性がいればと、思ったことはある。森田ミツ役の小林トシエがそういう女性にピッタリだった。森田ミツは浅田さんによると反対から読めば「罪たりも」となって、キリスト教の意味を含んでいるという。またミツは《聖女》とされているので、手首のアザは、腕の手首に《ある日、突然、ここに赤黒い銅貨大のしみができた》と書かれている。これは「聖痕」を暗示しているかも知れない。映画では、河原崎長一郎は覚えているが、三浦マリ子を浅丘ルリ子が演じていたのは覚えていない。それほど、小林トシエの印象が強かったのだろうか。
森田ミツが「ソープ」に勤めていた事になっていて、「ソープ」という言葉が何回も出てくるが、これは「トルコ風呂」を書き換えたとのことである。「トルコ風呂」を「ソープランド」というようになったのは一九八四年だそうだ。当初の「トルコ風呂」はビキニスタイルの女性が、主にマッサージをする所であった。別料金を払えば、男性の身体の一部分に対するハンドサービスもあった。まだ赤線があった時代である。ところが、「トルコ風呂」は一九七〇年頃から、女性が性的サービスをする店になっていった。これらは、一九九六年の遠藤周作の死後、書き換えられたのだろうか。ミツが「トルコ風呂」に勤めていたとなると、マッサージサービスを主にしていたことになるが、「ソープ」に書き換えてしまうと、ミツは身体を売って性的サービスを行っていたことになる。作品の意味が変わってしまう書き換えである。「ソープ」よりむしろ「サウナ」が適当ではなかったか。「トルコ風呂」も開業が一九五一年なので、戦後三年目という、この作品の時代と合わないという小谷野敦の批判があるという。
このような時代背景の中で、ハンセン病が取り上げられる。「癩病」という病名は、一九五九年にハンセン氏病になったが「氏病」=「死病」を連想させるので「氏」が削除され、一九八三年からハンセン病となったということである。この作品の発表が一九六八年だから、発表時もハンセン病になっていたのかどうか気になったので、『わたしが・棄てた・女』の単行本、文藝春秋新社版(昭和三十九年)、講談社版(初版昭和四十四年 昭和五十七年第二十八刷)の二冊を調べてみた。内容は同一であった。「ハンセン病」という記述はなくすべて「癩病院」になっていた。「ボクの手記(四)」で、会社の慰安旅行で御殿場の病院の横を通る場面がある。ここも相当、変えられている。「癩病院」と書かれ、大野が「カッタイの病院かい。天刑病の……」というところが、「伝染病の病院かい。」とされている。〈ぼく〉が「癩病院なんて」と呟いて続けて「どこかの離れ島においときゃ、いいんだ。断種して、子孫もできないようにするほうがいい。」は、後半の部分が全面削除になっている。つづく「吉岡さん、それ、本気。」は「吉岡さん。」だけになり、「あゝ、本気だよ、別に悪い考えじゃないだろう。」は削除されている。「手の首のアザ(二)」での大学病院では、医師は「ハンゼン氏病」と言っている。
前半に出てくる、「エノケソ」(「エノケン」ではない)のポスター貼りをというアルバイトを紹介してくる、金さんのところも、変更が加えられている。金さんのことを、「第三国人」といっているのだが、これは削除、又は「外国人」、「この人」、「彼」とされている。金さんの朝鮮なまりの日本語は、朝鮮なまりをなくして、普通の日本語に変更されている。例えば、「タイチョプか」→「ダイジョウブか」、「ウソ思うか」→「ウソと思うか」、「こくろ……こくろ」→「ごくろう……ごくろう。」となっている。
小説というものは、時代の証言でもある。この作品でも、シャンソンの「銀巴里」、歌声喫茶の「どん底」、「地下生活者」というような風俗を伝えるのも文学の役割であろう。しかし、ハンセン病は長い差別の歴史があり、その差別的表現と文学の歴史的役割を、どう折り合いをつけるのかは、非常に難しい。文庫出版部による「前書」の《やむをえざる部分のみ、それをそのままに致しました》ということわりは不親切で、もう少し、「ふさわしくない部分は削除、訂正しました」というぐらいの断りは必要だろう。
浅田高明さんの『「生命」と「生きる」こと ハンセン病を巡る諸問題を視座として』に詳しいが、モデルとなったハンセン病施設、神山復生病院は一八八九(明治二二)年に創設開院している。一九〇七(明治四〇)年、「癩予防ニ関スル件」が公布されたが、パリ外国宣教会レゼ―神父は、早くもこの年に、癩菌は伝染力が弱く、結核の方がはるかに伝染力が強く危険だとのべ、患者を犯罪者の如く扱うのに反対している。この作品のヒントになったといわれる井深八重が入院してきたのは一九一九(大正八)年のことだという。
私がハンセン病を意識したのは、何回目かに映画『ベン・ハー』を見たときである。ベン・ハーの母が「レプラの谷」に押し込められるが、キリストの死による奇蹟により快癒するという場面である。外国人宣教師の活躍をみても、キリスト教にとってハンセン病は昔からのテーマだったのかも知れない。ハンセン病の患者に奉仕するという森田ミツの姿は、キリスト教の理想の女性像かもしれない。それに男性の性の欲望を満たしてくれる女性像というのも森田ミツに重ねられている。このような、遠藤周作の意図は理解できるが、キリスト教イデオロギーが先行しており、物語の展開もいささか安易ではないだろうか。雑誌の文通欄による交際の始まり、吉岡が偶然、立ち寄った「ソープ」で応対した女性が森田ミツのロザリオを持っていたという展開も、不自然だし、森田ミツが御殿場に降り立った時、三浦マリ子と出会うのも不自然であった。
2017年5月13日