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石川達三『生きている兵隊』を読んで

2017-11-05 21:57:44 | 読んだ本
           石川達三『生きている兵隊』    松山愼介
 石川達三『生きている兵隊』に気付かされたのは、田崎さんの『堀田善衞は南京事件をどう描いたか』(「異土」6号、2012年12月)であった。その評論では南京における日本軍兵士の残虐行為の部分が引用されていて、それなりに驚いた。ところが「異土」14号に『甦る火野葦平の戦争と文学』を書くにあたって、『生きている兵隊』を読み、同時代人による、その評価を読む機会があった。代表的なのは『昭和文学史』の平野謙である。ちなみに中野翠の『あのころ、早稲田で』(文藝春秋 2017)によれば、平野謙は1966年頃、早稲田大での講義にこの『昭和文学史』を使っていたそうだ。平野謙の評価は冷静である。《ただ「生きてゐる兵隊」はその筆力旺盛の裏に一種の類型性を含んでいた。戦場の残酷がいわば常識的な残酷として、制作以前に前提されている趣きがあった。この程度の残酷が戦争につきものであるのは知れきったことだ、とともすれば簡単に割りきりたがるこの作者の「逞ましさ」を、ここから抽きだしたとしても、あながちに牽強附会の説ではないのである》と書き、《一種の戦争風俗小説以上にぬけでることができなかった》とした。
 有名になった、従軍僧がショベルで敵敗残兵の頭を叩き割ってシーンは衝撃的だったが、平野謙だけでなく中野好夫も『筑摩現代文学大系 石川達三』の「解説」で《それらとて別に特定の意図をもって日本軍隊の残虐性を暴露しようというのではなかった。おそらくただ見たか聞いたかした事実を、そのまま書いただけにすぎまい》と、書いている。
 また一方で、戦後すぐこの作品を筐底(きょうてい)から取り出して、伏字部分を復元して石川達三が発行したことについても小田切秀雄の批判があった。《石川達三が「生きてゐる兵隊」をこんにち再刊することで自分がもとから民主主義者だつたやうな顔をするあのむきつけなあつかましさを、たとえむきつけでない形でも自身がつゆ持つていないと斷言できるか》というものであった。
 今回、第一回芥川賞受賞の『蒼氓』を参考作品として読んでみた。石川達三は昭和5年に「国民持論社」を一旦、退職しその退職金600円をもらいブラジルへ渡航している。サン・パウロから汽車で15時間の奥地と、サン・パウロ市に一カ月ずつ滞在した後、結婚のためということで帰国し、「国民持論社」に戻っている。永住するつもりだったかどうかは不明だが、農業移民として渡航している。『蒼氓』に書かれているように、農業移民としての渡航ならば、旅費、道中の食費は日本政府持ちであった。中野好夫は『生きている兵隊』は《一読してわかるように、これは、「蒼氓」における移民という集団のかわりに、ある小部隊の軍隊という集団群像をおきかえた作品にすぎない。方法もほぼ同じなら、作者の意図もそう変わりなかったに相違ない。皇軍賛美の作品でないことはいうまでもないが、さればとて何かある特定のイデオロギーに裏づけされた暴露ものでもない》、《要するに一貫しているものは、直接石川の眼に映った戦う兵隊の真実の姿であったに相違なく、その点「蒼氓」で移民の姿を描いた作者の眼と少しも変りはない》。
 ところが、『生きている兵隊』は軍の忌諱にふれ発禁になったことで、戦後、作者の意図を越えて反軍小説ということで争って読まれることになったが、石川達三はただ事実を事実として書いたのであろう。そうすれば、この作品をどう読むかで、我々の戦争認識が試されるのではないだろうか。久保田正文によれば「生きている兵隊」とは《死を目前にひかえて生き残っている兵隊》という意味と、《真実の人間らしき兵隊》という意味を石川達三は込めているということだ。
石川達三は小田切秀雄の批判があるように、同時代の作家にはあまりよく見られていないようだ。『生きている兵隊』の後、すすんで従軍し『武漢作戦』など、やや当局におもねった作品を書いているからかもしれない。巖谷大四は『生きている兵隊』の載った「中央公論」を発売当日に買って読みむさぼり読んだという。ただ、石川達三は《なんとなくすれすれの抵抗をしたくなるところがあるらしい》と書いた後、河上徹太郎の「ああ、あいつは、交番のうしろでしょうべんをするような奴だよ」という発言を紹介している。

 最近、ナチスのホロコーストの映画をよく見ている。例えば、『サウルの息子』、『顔のないヒトラーたち』、『アウシュビッツ行最終列車』とかである。『バンド・オブ・ブラザース5』に収録されている、「第9話」のユダヤ人収容所の描写は衝撃的である。この『バンド・オブ・ブラザース』という作品は河原理(みち)子の『フランクル『夜と霧』への旅』で知った。石川達三に関する『戦争と検閲』(岩波新書)を書いた朝日新聞編集委員である。ある意味、ドイツは戦争責任を自死したヒトラーに負わせ、ナチスを「絶対悪」とした。そのため、ハンナ・アーレントの仕事や、最近のBSドキュメンタリー『アイヒマン・ショック』などはあるが、何故、ホロコーストがあったのかについては、追求することが避けられているようである。ドイツはホロコーストについては人類に謝罪したが、戦争責任について謝罪したのだろうか?
 複雑なのは日本の天皇制である。昭和天皇が戦争責任をとって「死」という形をとっていたなら問題はもう少し簡単だっただろう。日本の戦争責任は「憲法9条」で果たされたのだろうか?
 幣原喜重郎がマッカーサーに「戦争放棄」を申し入れたということであるが、幣原内閣の松本烝治の新憲法案はGHQに一蹴されるものであった。この「戦争放棄」を含む新憲法も天皇制の維持と抱き合わせであったという。日本国民もあれだけの戦争をし、多くの死者、被害を出したにもかかわらず、戦後の昭和天皇の地方行幸を熱狂して迎えた。火野葦平も天皇の戦争責任については否定している。皇国史観によると、明治、大正、昭和天皇は一身に祭祀の長としての天皇と、軍の最高指揮官の大元帥とを担ったという。敗戦によって、大元帥は否定されたが、祭祀の長としての天皇の身分には全く変わりがなかった。
 韓国は「慰安婦」問題にこだわっているが、日本がアメリカに原爆投下について謝罪を求めたということは聞いたことがない。田中真澄『小津安二郎と戦争』によれば、南京事件の後に慰安所ができたらしいが、小津安二郎の部隊の近くの慰安所には《朝鮮人三名中国人十二名》がいたということである。安倍政権と朴槿恵政権との間に慰安婦問題の合意ができたが、政権が変わって、この合意を見直すという。この合意の結果「和解と癒し財団」ができ、元慰安婦46人のうち29人が一億ウォンの受け取りを表明したという。受け取らない人は安倍首相が謝罪の手紙を書くことを拒否したかららしい。ただ政権交代の結果この財団の理事長は辞任している。
 中国のネットには、日本の戦争責任について「私たちがすべきは、恨みを記憶することではなく、なぜ侮辱されたのか反省することだ」という書き込みがあるという。それにならえば、我々、日本人もただ中国への戦争、韓国への植民地支配について謝罪するのではなく、日本がなぜあの戦争に突き進んでいったのかを解明することではないだろうか? この問題については加藤典洋の『敗戦後論』の問題提起を受け継いだ伊東祐吏の『丸山眞男の敗北』、『戦後論 日本人に戦争をしたという「当事者意識」はあるのか』が参考になる。
                            2017年8月12日

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