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永井荷風『夢の女』(「文学表現と思想の会」へのリポート

2014-12-07 23:35:31 | 読んだ本
            永井荷風『夢の女』           松山愼介
 図書館で『永井荷風全集』を検索したら無くて、『荷風全集』になっていた。「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を越ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし」と荷風は昭和十二年六月二十二日の『断腸亭日乗』に書いている。この日、三十年ぶりに浄閑寺を訪れ、寺の門、堂宇とが震災で焼けていなかったのを喜んで日記に記したものだ。実際には墓は遺族が雑司が谷に建てたという。これは敬愛していた森鷗外の石見の人、森林太郎として死する、からきている。荷風の号は十五歳の時、首の腫物で大学病院に入院した時、そこで出会った看護婦さんが「お蓮さん」といい、この「蓮」は俳句の世界では「荷」という字を使うところからきているという。看護婦さんに恋するところは宮澤賢治と似ている。
 永井荷風は『濹東綺譚』で知られる。私娼街玉ノ井を舞台にした作品で映画も見たと思う。玉ノ井は雑誌「ガロ」で活躍した滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』でも有名である。永井荷風はドラマでも津川雅彦主演で取り上げられている。最後は胃潰瘍のショックで死んだようだ。世間から超然として、浅草や娼婦の街に出入りしていたことは、よく知られている。小島政二郎の『小説 永井荷風』によると、十八歳で吉原に登楼し、以後三年の内に州崎、品川、板橋など知らざるところなきに至ったという。その中でも州崎が最も好きだったらしい。井上唖々(ああ)、島田翰(きよし)という悪友と一緒だったという。始めて吉原に登楼したときの遊興費が三円だった。この頃に「萬朝報」の懸賞小説に応募し賞金五円を得ている。   
 父の期待に反し、一高受験に失敗し、文士をめざす。荷風は文士になったら勘当され、食べられなくなるので、その備えに落語家、座付き作者の修行もした。それは「自堕落な道楽商売の世界に身を落とすことに、一種の反逆児的な喜びを感じていた」という側面もあったらしい。この辺りが後に花柳界に親しむ要素になったのであろう。また徴兵検査で不合格になったことの影響もあるという。広津柳浪の『今戸心中』を読んで感激し、弟子入りをする。二十一歳で「薄衣」が柳浪荷風合作として「文藝倶楽部」に掲載された。これはその当時の風習で、師匠との合作ということにして、新人が世に出るのだという。小島政二郎は鈴木三重吉の「赤い鳥」の編輯を手伝った時の体験から文士はみんな貧乏であったと書いている。電話を持っている文士は一人もいず、有島、芥川も自分の家に住んでいたが、実際は父の家に同居していた。漱石も生涯、借家暮らしで、森鷗外は軍医総監だったから自分の家があり、唯一、家を持っていた田山花袋も博文館に職を持っていたからであるという。
 二十四歳で『野心』、『地獄の花』を刊行し、後者で七十五円の稿料を得ている。『地獄の花』は市村座で森鷗外から直接、褒められたという。荷風は「その頃の私の作品といえば、すべてゾラの模倣であって、人生の暗黒面を実際に観察して、その報告書を作るということが、小説の中心要素たるべきものと思っていた」と書いている。『地獄の花』の文体は、活動写真の弁士が語るような大げさな描写で『怪盗ジゴマ』を思わせるようであった。特に二十五歳の女教師園子が、海辺で四十代後半の校長に強姦されるところは大げさであった。ところがわずか半年後の『夢の女』になると、文体も構成も安定し、しっかりしたものになっている。
『地獄の花』にしても『夢の女』にしても、多くの人物を登場させて、ストーリーを展開して、三百枚以上の小説を書くのは二十五歳にしてはすごい。それまでの座付き作者とかの経験がいきているのであろう。武田泰淳は、荷風は女性を「はかない」とか「あわれな」、「いじましい」という「ひかげの花」的に描くのではなく、「変化の場」において捉えたと書いている。変化しない女性は、荷風にとって女性ではないという(中央公論社 日本の文学「解説」)。そういわれれば『地獄の花』の園子も、普通の女教師から、強姦された後、女性として独り立ちしていく変化していく女性である。『夢の女』のお浪も変化という点では引けをとらない。妾から州崎の娼婦、待合の女将へと、様々な事件を伴いながら変化していく(待合という言葉は阿部定事件を喚起させる)。ある種、スピード感がある。
 お浪は月の上旬には穴護稲荷、下旬には深川不動尊へお参りにいく(「第十九」p149)。築地の「お待合もみぢ」から新富町を経て八丁堀で車に乗り、深川不動尊へ参詣する。仲町通りを経て永代橋へかかる描写は風情がある。電気燈が輝きはじめた永代橋の欄干から、富国強兵・殖産興業政策で開けた佃島、石川島の建物が見える。仲町通りは門前仲町で近くに富岡八幡宮、州崎がある。『方丈記私記』で堀田善衞が歩きまわったところでもある。このように一方で『夢の女』は明治三十年代の東京の風景を色濃く映しているのである。                    2014年11月8日

 
 追記

 永井荷風は娼婦の側に立っているので、そういう女性に対するエールとして、この小説を書いたのではないか。仕事も嫌々やらずに、ちゃんとやれば、若いうちは美しさも増す、三年たてば自前になれるとか。ほとんどの女性は、堕ちていって、自前になる女性は少数派だと思うが。永井荷風はお浪のように、波乱の人生であっても力強く生き抜いて欲しいという願いを込めて『夢の女』というタイトルにしたのではないだろうか。

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