3104丁目の哀愁と感傷の記録

日々生きてます。自分なりに。感じた事を徒然に書きます。素直に。そんな人間の記録。
since 2008.4.4

募金

2008-06-19 20:56:33 | 徒然
今日、募金をしてきた。
岩手の地震のやつではなくて、中国四川省のやつだ。
今さらかよという感じがするが。
きっかけは大学のある授業での事だ。

俺が3月まで通っていた(今は授業に潜っている)大学は、
国際的な部分に力を入れている大学だ。
俺は今、英語史の授業に潜っているのだが、
国際的な部分に力を入れていることに加え、
英語系の授業なので、
交換留学生が結構な人数いる。

その中で、中国出身の生徒が居た。
彼の出身は四川省のほうらしい。
(因みに彼は中国語、英語、日本語を操る。軽くトライリンガルである。)

彼は授業終了後、帰ろうとする生徒たちがざわつく中、
教壇の前に出てきて、
少し私の話を聞いてくださいという事を喋りだした。
やはり、多少
「何だよ、早く帰らせろよ」的な空気も漂っていたのも事実だ。

しかし彼の故郷の事、
あの有名な母親が携帯のメールで打った子供への手紙の事、
そして募金にぜひとも協力して欲しいといったことを話し始めた。

もちろん、日本語でだ。

よく考えて欲しいのだが、
留学生という立場で、
自分の母国語でない少し片言の言語で、
教壇に立って200はいるかという人数の前で話すという事が
どれ程勇気の居る行動なのかということをだ。

少なくとも俺には絶対に出来ない行動である。

思考回路、脳細胞共に単純極まりない俺は、
そんな彼の勇気に胸打たれ、
「よし、募金しよう」
と思った次第である。

こんな事をブログなんかで書いて、
「偽善者め」などと思う人もいるかも知れない。

そんな人に俺は言いたい。

「くたばれ」と。

もしそれを感じた人が中国の募金をして無いとしたら、
そんな事を言う資格は一切無い。

というのも募金は偽善でもいいと思うからだ。
慈愛の精神が無ければ募金はしていけないと考える事が、
非常におこがましい。

お情け、
偽善、
特に何も考えずに気まぐれで。

大いに結構だと思う。

実際中国の被災地を考えてみろ。
募金してくれる側の気分や動機を選んでられる状況であろうか。

どんな理由にせよ、
一円でも多く貰えれば嬉しいのではないか。
一円でも多くあったほうが助かるのではないか。

あまりに不条理な天災に見舞われ、
なりふりかまってる場合では無いんじゃないか。
生きるか死ぬかという人だっている。
そんな時に、
「同情なんていらない」とか
「偽善者の金は要らない」なんて
言うことが出来るのだろうか。

実際一円でも多く必要としているのは常識がある人間なら知りえる事だ。

例えばポケットの中に100円玉が入っていたとする。
96円のものを買って。
お釣りが細かくなってめんどくさいから、募金箱に入れた。

こんな状況でも大いに貢献しているのだ。
向こうからしたら助かる(主観的に書いているが)のだ。

マクドナルドなんかの企業が、
募金の金額が少ないといって叩かれた事もあった。
俺にとっては信じがたい。
もちろん非難したほうをだ。
マクドナルドがどれ程の金額を寄付したか、
そしてそれが全て善意によるものだったかどうかなど、俺にはわからない。
ただ、莫大な金額である事は間違いないし、
少なくとも、非難できるのはマクドナルドよりも
多くの金額を寄付したもののみであり、
何もしない者がとやかく言う資格は無い。

俺は金額は少ないかもしれないが、
寄付をした。
確かに募金をするために行動した。

それは紛れも無い事実だ。


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