(承前)
さて、ドストエフスキーの小説では、登場人物にドストエフスキーの考えや教訓めいたことを語らせている部分が多くあるように思える。その中にはロシアの対する批判的なことも多く含まれている。これはシェークスピアなど他の作家でもよくあることだ。この本を読んで、これはドストエフスキーの主張なのだろうなと思えるところを拾ってみて、括弧書きで自分のコメントを書いた。
- 真実を語るべき者はただ機知なき者のみなり、と言う言葉があります(皮肉であり、清濁併せ持つことが知恵だと言っているのでしょう)
- 同情というものこそ全人類の生活に対するもっとも重大な、おそらくは唯一無二の規範であろう。曖昧模糊たるものはロシア精神ではなく自分の魂に外ならないのだ
- 世の中のことはたいがい「力の権利」でかたがつく、アメリカ戦争の時でも、もっとも進歩的な多くのリベラリストが移民の権益保護のために、黒人は黒人で、白人より下に立つべきものだ、従って力の権利は白人のものだ、とこんな意味のことを宣言していた
- ロシアでは実際的な人がいない、役人も多い。ただ、その実際的な人は臆病とか創意工夫がない、そしてそういう人が将軍になる(役人や役人的な仕事をする人、将軍になるような人を揶揄しているのでしょう)
- ロモノーソフ、プーシキン、ゴーゴリを除いたらロシア文学は全くロシアのものではなくなる、この3人だけが本当に自分独特のものを語ることができたのである、こういう人は必ず国民的になる(同じ作家としてこの3人を評価しているでしょう)。
- 我が国のリベラリストと言う輩は、誰かが何か独自の信念を持っていると、それを大目に見ることができず、さっそく、自分の論敵に悪罵をもって応酬し、あるいは何かもっと卑劣な手段で報いないでは済まない(リベラリストと自称する人の本質を見抜いている)
- ロシアのリベラリストは地主階級出身者である、ロシアの秩序に対する攻撃だけでなく、社会の本質に対する攻撃であり、ロシアそのものに対する攻撃をする、ロシアそのものを否定する、失敗したことがあれば喜び、我が国の民族、歴史、何でもかんでも憎んでいる。彼らは自分のことを知らずにロシアに対する憎しみをもってもっとも有効なリベラリストだと思っている。この憎悪を祖国に対する真心からの愛だと勘違いして、その愛情の根本ともなるべきものを他人よりもよく知っていると自慢していたものだ。そして最近はこの祖国に対する愛と言う言葉までも有害なものとして排撃し、ついには除外した。自分の国を憎むなんていうリベラリズムはどこへ行ったって見当たらないでしょう(自称リベラリスト、実は左派の正体を見抜いていると思う、「地主階級出身者である」という部分は除き、ロシアを日本と代えても通用するのではないか)
- 英国の議会は何を論じているのではなく、自由な国民の議会政治、それが我々如き者にとって実に魅力があるのです
- 社会主義について、これはカトリック教とカトリックの思想の産物だ、これは兄弟分の無神論と同じように絶望から出発したもの、道徳的な意味でカトリック教に反対して、みずから失われた宗教の道徳的権力に代わって、飢えたる人類の精神的飢渇を癒やし、キリストの代わりに、やはり暴力によって人類を救おうとするものです、我々は我々が維持してきたキリストを西欧文明に対抗して輝かさなければならない、ロシア文明を彼らにもたらしながら彼らの前に立たなければなりません(ドストエフスキー存命中はソ連にはなっていなかったが、社会主義の本質を見抜いていた)
- 我々ロシア人から期待されているのは、ただ剣のみ、剣と暴力のみだからです、彼らには、自分の方のことからしか推して考えるため、野蛮でないロシア人を想像することができないからです、これは今までもそうでした、時が経てば経つほど、この傾向はいよいよ盛んになるばかりです(今のロシアを見れば実に的を射た指摘である)
- 我々が滑稽だからと言って、じたばたするもんではありません、我々は滑稽で、軽薄で、癖が悪くって、退屈して、ものをよく見る目がなくって、理解することもできないでいる、みんながみんなそんな人間じゃありませんか、みんな、あなた方も、私も、あの人たちも
- ローマ法皇ってどんな人か知っている、1人の法皇がいて、ある皇帝に腹を立てたの、するとこちらはお許しが出るまで3日間、法皇の門前で飲まず食わずに跪いて待っていたのよ(カノッサの屈辱)、この皇帝が3日間の間何を考えていたのかわかる、この皇帝は3日間のうちにこの法皇に復讐せずにはおかぬと誓った詩を読んで聞かせた。
最後に、日本に関することと、小説家に関する考えとか観察を登場人物に語らせているところを引用しよう。
- 日本では恥辱を受けた者は侮辱を加えた相手のところに行って、おまえはおれに恥辱を加えた、その報いとしておれはおまえの面前で腹を切る、って言うそうですよ。これによって実際に仇を討ったように強い満足を感ずるらしい、世には奇妙な性質があるものですね(プチーチンの語り)
- それにしても我々の前に依然として疑問は残っている、すなわち、小説家は平凡な、あくまでも普通の人たちを、どんな風に取り扱ったらよいか、また、いかにして、このような人たちをいささかなりとも興味のあるように読者の前に示して見せるか?と言う問題である(著者自らの語り)
(完)