三島由紀夫の「戦後日記」(新潮文庫)を読んだ、三島の本は、「金閣寺」、「サド侯爵夫人」、「春の雪」、「仮面の告白」などを読んだ程度だが、今年になって「文化防衛論」を読んだ(その時のブログはこちら)、また、昨年、猪瀬直樹氏の「ペルソナ」を読んだ、これは三島家3代の歴史をまとめたもので勉強になった(その時のブログはこちら)
「戦後日記」は、まだ大蔵省の官吏だった昭和23年から、「豊穣の海」執筆中の昭和42年までの間に「日記」の体裁で書かれたエッセイを集めたものである。日記風に書いているので三島の普段の生活、付き合い、考え、興味の対象などプライベートなこともわかり興味深く読めた
読んでみた感想を述べてみたい
- 音楽について述べているところがあって興味を引いた、曰く「音という形のないものを、厳格な規律のもとに統制した音楽というものは、何か人間に捕らえられ檻に入れられた幽霊といった、ものすごい印象を私に引き起こす、音楽愛好家たちが、こうした形のない暗黒に対する作曲家の精神の勝利を簡明に信じ、安心してその勝利に身をゆだね、喝采している点では、檻の中の猛獣の演技に拍手を送るサーカスの観客と変わりがない」、確かにそういうものかもしれない
- また、「作曲家の精神が、もし敗北していると仮定する、その瞬間に音楽は有毒な怖ろしいものになり、毒ガスのような致死の効果をもたらす、音はあふれ出し、聴衆の精神を形のない闇で十重二十重にかこんでしまう、聴衆は自らそれと知らずに、深淵につき落される」と言っているが、音楽評論家の石井宏氏が言うところのベートヴェンの音楽が持つ人の心を高揚させる力がその一つかもしれない
- 三島が太宰治に嫌悪感を持っていることがわかった、例えば、「太宰は作家が自分の弱点が最大の強みになるように持っていこうと操作している点を自己欺瞞」と非難している、そうかもしれないが、三島と太宰はともに金持ちの家に生まれ、なに不自由ない生活をしてたことである、太宰はそれを引け目に感じて捻じ曲がり、三島は虚勢を張って捻じ曲がったのではないか、ある意味、似ている部分があると思った
- ただ、「どうして日本の小説家は作中人物にならんとする奇妙な衝動に駆られるのだろう」としているが、これは逆なのではないかと思った、自分を作品にしているだけではないかと、そしてこれは三島も同じではないかと思った、例えば「仮面の告白」
- 「小説の映画化は根本的な矛盾がある、小説で美女と言ったら人によってイメージがそれぞれあるが、それを映画にすると一人の一定の女が登場して、想像力の余地がない」、なるほどその通りだろう、映画化された小説が元の小説のイメージと違うということが起こるのはこのためだろう
- 一方、「演劇は映画と違い、服装や観客との距離によって想像の余地を残す」と言っている。劇作家の福田恆存は演劇と映画の違い、演劇と小説の違いを述べているが(福田恆存の説明はこちら参照)、いろんな比較論があって面白いものだと思った
- 「世の中には若い趣味人というものが随分ある、学校を出たての人の中にも恐るべき能楽通や歌舞伎通がいるが、日本の芸道の特色は、あくまで体験的で、方法論を欠き、したがって年齢の理想は老いにあって、若い通人がこうした趣味に染まると、われ知らず、不自然な老いを装うことになるのであろう」、その通りかもしれない
- 「無智な人間ほど、男色の本質的特異性がつかめず、世俗的異性愛の常識におかされてしまう、その結果、自分が男のくせに男が好きなのは、自分が女だからだろうと思い込んでしまう、人間は思い込んだとおりに変化するもので、言葉使いや仕草の端々まで急激に女性化する、私の言いたいのは、批判家のみならず世間一般が、政界・財界・学会にわたる、男色関係のひそかなしかし鞏固な紐帯に、たえて気付いていないということだ、ナチスの要人たちに見られたあの同性愛の、決定的な影響は何だったのでしょう」、同性愛のことはあとでも出てくる
- 「私はしばしば自分の中にそういう悪癖を感じるのだが、人に笑われまいと思う一念が、かえって進んで自分を人の笑いものに供するという場合が、よくある、人をして安心して私を笑わしめるために、私もまた、私自信を客観視して共に笑うような傾向も、戒めなくてはならぬ、さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもっとも悪質な自己欺瞞である、それは他人に媚びることである」、知識人ほど戦前・戦中の自国を悪く言うのは自嘲であり、もっとも悪質な自己欺瞞ではないだろうか
- 「私は戦争中から読みだして、今も時折「葉隠」を読む、正しい狂気、というものがあるのだ、人間の陶冶と完成の究極に、自然死を置くか葉隠のように、斬り死や切腹を置くか、私には大した径庭がないように思われる」など、あとの彼の行動をほのめかす考えの根底が書かれているように思えた、他にもそのような暗示と思える部分が多くあった
- 「日本文化は稀有の感受性だけをその特質としている、第二次大戦の敗北は日本文化の受容的特質の宿命でもあり、理念が理念に敗れたのではなく、感受性そののものが典型的態度をとって敗れたに過ぎない、ドイツの敗北は理念の敗北であり日本の敗北と意味が違う」とあるが、難解でわかりずらい
- 同じ日の日記には、最後に「宗教及び政治における、唯一神教的命題を警戒しなければいけない、幸福な狂気を戒めなければならない、現代の不可思議な特徴は、感受性よりも、むしろ理性の方が(誤った理性であろうが)、人を狂気に導きやすいことである」と述べているが、こちらの方がわかりやすい、現代の日本でいえば、「反戦平和」とか「非核三原則」などが唯一神教的命題となっているのではないか
- 結婚するに際し、キルケゴールの有名な「あれかこれか」の一節は長いこと私を魅了してきた、「結婚したまえ、君はそれを悔いるだろう、結婚をしないでいたまえ、やっぱり君はそれを悔いるだろう」、そして、「人は本当のところ、自分の行為が、宿命のそそのかしによるものか、自由意志のあやまちによるものか、知ることなど決してできない、結局、海水の上に浮身をするような身の処し方が、自分の生に対する最大の敬意のしるしのように思われる、として自分は結婚することにした」と書いているが面白いと思ったが、なぜ結婚の言い訳するのかなと感じた
- 「悪に関し、旧植民地国の政治家は、自分たちを虐げてきた帝国主義者たちから、少なくとも悪の知恵を学んでいる、ネールなんぞは私にはその典型だと思える」と述べているが、その通りだろう、敗戦国のわが国が戦争から学んだのは「戦争はいやだ、二度と戦争は起こさない」というものだが、情緒的すぎて、他国からは子ども扱いされ、金を騙し取られるだけであろう
- 「同性愛を描いた「仮面の告白」が日本で出版されたのが1949年だが、アメリカで発売されたのはその8年後である、アメリカでは同性愛に偏見があり背徳の書とされたからだ」とある、日本では昔から同性愛を受け入れてきた社会であることを知らない人が多いと思う
- 「日本の近代文学で、文学を芸術作品、真の悪、真のニヒリズムの創造にまでもっていった作家は、泉鏡花、谷崎潤一郎、川端康成などの、五指にみたない作家だけである」とあるが、私も泉鏡花や谷崎は好きだが川端は読んだことがない、ただ、鏡花や谷崎の作品が芸術作品かと言われれば、それは大げさではないかと思う
- 「私がイタリアオペラを好きなのは、どんな人間的苦悩をも明るい旋律で表現する点だ、その点で「オテロ」は半ばイタリア的で半ばはややワグネル的ドイツである」と述べている、昨年鑑賞した東京フィルのオペラ『オテロ』において、コントラバス首席奏者の片岡夢児氏がヴェルディの音楽の特徴を聞かれ、「一般的にイタリア人は陽気な性格と思われているが、実はそうでもない、暗いところもあると感じている」と述べ、「ヴェルディの音楽も実は同じだ」と述べていたのを思い出した(その時のブログはこちら)
いろいろ参考になった部分も多かった、一方で、海外のいろんな作家のことを持ち出すなど、自分はこれだけのことを知っているのだ、とひけらかす傾向がある、丸山眞男がそうだった、両者の共通点は何だろうかと考えた