今朝の朝刊の文化欄に、智積院の名宝展の案内が出ていた。期間は1月22日までとあるので早速行ってみた。10時半くらいに到着したら数名が並んでいたが直ぐに入れた。入場料は1,500円。客層は圧倒的におば様方が多かった。
新聞や美術館の展示室内の解説によれば、智積院は真言宗智山派の総本山であり、もともとは根来寺(和歌山県)内で学頭寺院として発展したが、秀吉の「根来攻め」で焼失、江戸期に家康の庇護を受け現在の京都東山七条の地で再興した。この智積院が拝領した地には秀吉の夭折した息子・鶴松の菩提を弔うべく建立した祥雲禅寺があり、長谷川一門が描いた絢爛豪華な障壁画群が客殿を飾っていた。智積院はこの祥雲寺を手厚く保護し、障壁画群などは大切に保管され現在に至っている。
中でも有名なのは国宝指定されている等伯の「楓図」と長男・久蔵の「桜図」だ。展覧会場でも横並びで”父子の協奏”が一つのハイライトになっている。同じ展示室には国宝の「松に黄蜀葵図」、「松に秋草図」、「雪松図」などが展示されており、それぞれが相当な大きさなので迫力満点である。日本絵画の専門知識はないので素人の感想だが、それぞれの名画は時代がかなり経過しているためかなり色あせている。もちろん最新技術で補修やメンテがなされているので鑑賞するには問題ないレベルだが残念ではある。また、例えば楓図は4つの大きな絵をつなぎ合わせてワンセットになった絵で継ぎ目が屏風の折れ曲がったところのようなイメージに見えるが、その継ぎ目の左右の絵がつながっていない部分があるがその理由はわからなかった。
この展覧会も写真撮影は禁止となっていたが何とかならないものだろうか。フラッシュをたくのはだめなのはわかるが、それさえしなければ許可している美術館も最近では少しずつ増えていると思うのだが。この点は海外の美術館の方が進んでいるように思うので、日本美術界も是非前向きに検討してもらいたいものだ。
等伯は能登の生まれ、一代で頂点に上り詰めた当時の新興勢力だ。室町末期以降、画壇は狩野永徳率いる狩野派の独断場だったが永徳亡き後の天下人からの注文は長谷川派に取ってどれほどうれしかっただろう。永徳存命時には長谷川派に対する妨害もあったことが展示室内の解説に書いてあり、勢力争いは熾烈だったようだ。しかし、等伯の息子・久蔵は28才で急逝してしまう。鶴松を失った秀吉は同じく早世した久蔵の絵をどう見たのだろうか。
以前、尾形光琳をモデルにした小説「光琳ひと紋様」(高任和夫著)を読んだ、また、狩野永徳をモデルにした「花鳥の夢」(山本兼一著)も読んだ。それぞれ良い小説で勉強になった。等伯をモデルにした小説は安部龍太郎氏の「等伯」があり、実は買って持っているのだが読んでなかった。この小説は10年以上前だったか日経新聞に連載されていたものだが当時は目を通す精神的余裕がなかった。早速読んでみなければ。
さて、最後に見終わって出口を出てみたら、入り口に10メートル以上の大行列ができていた。新聞に出たから私のようにミーハー的にかけつけた人たちなのか、毎日このような状態なのか。多分、後者だろう。一般日本人の意識の高さには毎度関心させられる。
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